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2019年1月30日 (水)

3552 ポジティブキャンペーン

都合の良い点だけ並べて、自社の製品が特に優れている様にCFなどを展開する行為をポジティブキャンペーンを呼びますが、これは何も商品宣伝に限った話ではないでしょう。勿論、自社製品の欠点などは、もしあったとしてもひた隠しするでしょうから、表に出る事などないのです。外交に関するニュースでは、夫々の国から発信されるのは全てこれに該当するでしょう。外交交渉で、もし自国に少しでも不利な合意内容なら、野党や国民に総スカンを食ってしまうからです。

しかし、考えてみなければならないのは、ポジティブキャンペーンの裏側でしょう。欠点を隠して打つキャンペーンですから、それを裏返せば欠点がボロボロと出てきても不思議ではありません。新車のキャンペーンでは、その車の良い点を並べ立てますが、その裏には欠陥ギリギリの品質隠しがあったりもするのです。隠しきれなくなった欠陥だけが、リコールとして届け出られ、公表されるのでしょう。

一方、政治に世界ではどうでしょう。間違った発言や不適切発言などがあっても、表面面だけの謝罪会見でチョンにしてしまうケースが圧倒的でしょう。もし、政治家の存在価値が彼(又は彼女)の考えとその行動≒発言にあるとするなら、その失言は致命的だとも言えるでしょう。人は、言い違えを除けば、自分の考えている事以外は言葉に出来ない筈だからです。もし、その発言が無知に基づくものであれば、それこそ政治家を辞めるほど自分を恥じなければならないのです。またゾロ国会が始まり、この国のリーダーが最も得意とするポジティブキャンペーンと揚げ足取りの野党の追及、のらりくらりとした答弁の応酬になると思うと、気が重くなるは投稿者だけではないでしょう。やれやれです。

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2019年1月28日 (月)

3551 バイアス

何にせよ物事を考えたり、判断したりする際にはバイアス(偏向、偏見)は避けたいところです。そのためには、是非広い視野を持ちたいものです。広い視野があると、物事を多面的に捉える事も可能になる筈なのです。物事には、正面からの見方の他、裏から見た場合、或いは左右の側面から見た場合など、いくつかの(或いは多くの)見方が存在するでしょう。取り分け、人種や宗教が異なる人々の間では、そもそも物事を見る立ち位置が全く異なる事さえありふれているでしょう。そうでなければ、たった一人であるべき一神教の神が複数存在し、しかも同じ神を奉る宗教にさえ、多くの「宗派」が存在することの説明がつきません。勿論、自然発生的に生じたと思われる、この国の伝統的な宗教?では、全ての自然物に神が宿るといった様な多神教の地域も多いのでしょう。

さてバイアスです。例えば、私たちが日々見聞きするニュースでさえ、多くのバイアスを抱えながら報道されています。そのバイアスは、記者の思い込みやそのニュースを取捨選択するデスクの思い込み、ひいてはその局の報道責任者のバイアスによって生ずるのですが、時にはお上?からの「天の声」によって、報道そのものが消されたり、捻じ曲げられる事もあるかも知れません。しかし、そのニュースを受け取る側に広い視野さえあれば、それを冷静に受け取れる筈なのです。同じニュースであれば、異なる国のニュースにも注目し、ニュアンスの違いを理解するとか、或いはニュースを自分が持つ価値観のフィルターに掛けるなどの方法でより真実に近いものに近づける訳です。

取り分け、経済や政治に関するニュースには留意が必要でしょう。公共放送局は、当然の事ながら受信料という名の税金が使われ、政治の管理を受けているでしょうし、民放であればスポンサーのご意向が番組内容にさえ影響を与えずには置かないでしょう。はなはだしい例は、海を隔てた大国の例でしょうか。あの国では、全てのニュースを「フェイク」として疑わなければならない様ですし、お隣の大国では、ニュースそのものが100%お国によって管理されてもいるのです。そんな世の中で、信じられるのは自分の常識や価値観だけの様ですが、繰り返しますがその常識や価値観さえ、何らかのバイアスに支配されていないか、折々にセルフチェックしてみる必要がある事は銘記すべきでしょう。自戒を込めて・・・。

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2019年1月26日 (土)

3550 リーダーシップ

リーダーシップについて少し考えてみます。よく国のリーダーがニュースになったり、話題になりますが、人柄や行動が取り沙汰されても、その資質について議論される事は少ない様に感じています。取り分け、この国においては氏や家柄が重視されている様で、いわゆる2世議員が、他の2世議員に担がれて、リーダーの椅子に座ってしまう例も多いのです。そもそも、政治家を志す人は、その資質を備えていなければならないでしょう。高度成長期に、所得倍増を御旗に掲げる政治家や、或いは列島改造を掲げてブルドーザの様に突っ走った政治家は、ある意味時代が求めたリーダーだったと振り返っています。

しかし、経済の停滞期に入って以降、この国には時代にマッチしたリーダーは、残念ながら現れていないと思うのです。ある意味、山に登るのは簡単な事かも知れません。ひたすら汗をかいて、標高を稼いでいけば良いからです。しかし、経済の停滞期や後退期には異なるアプローチが必要でしょう。山の例えで言えば、それはさながら見通しの効かないガスに巻かれたか、或いは天候が悪化して移動が難しくなった事態に似ていると思うからです。その意味で、登り(成長期)のリーダーは誰でも務まるとも言えます。やるべき事は、パーティの先頭に立って、頑張れと鼓舞するだけで済むからです。

しかし、見通しが効かない時代のリーダーに求められる資質は全く異なります。正確な地図(未来の設計図)と正確なコンパス(事態の把握)及び気象予報(将来の正確な予測)が出来る並外れた資質が求められるからです。今のリーダーの様に、達成できないインフレターゲットを示し、景気を鼓舞する政策(とも言えない政策ですが)だけで、この国の経営が上手く行くなどと言い続けているリーダーには、これらの資質が全く欠落していると断ぜざるを得ないのです。

そうではなくて、リーダーに求められるのは、先ずは将来の青写真を描いて、それを提示することなのです。この国は、世界でどの様な立ち位置を取り、そのために国民はどの様に行動する事が求められるのかを示す必要があるのです。ヨーロッパのいくつかの国々では、十分ではありませんがそれが出来ているリーダーが出ているのですから全くの夢物語でもないでしょう。勿論、その様なリーダーが出る土壌を国民が醸し出す事も、重要な事は指摘するまでもないでしょう。これが一番難しい事かも知れませんが・・・。

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2019年1月20日 (日)

3549 経済症候群

経済症候群とは、利益(金勘定)や株価などのいわゆる景気指標に敏感過ぎる風潮を揶揄した表題で、辞書にそういう言葉が載っている訳ではありません。さて経済症候群です。世の中が、モノの生産・流通とその逆方向に動くカネの動き、即ち経済システムで動いているのは間違いないでしょう。しかし、これだけで世の中を全て説明しようとする輩には全く賛成出来かねます。社会をヒトの体に例えてみればすぐ分かる筈です。ヒトが食糧を食べ、消化・吸収し、それで体の中に血液やリンパを巡らし、体細胞や骨などをリフレッシュさせたり、活動のエネルギー源としつつ、体が要らないものは排泄するという活動が「生体システム」です。しかし、それで生き物ととしてのヒトの活動が説明出来たとしても、人間が説明できる訳ではありません。人間には、加えて健全な精神活動も必須だからです。むしろ、それこそ生体活動の上位に来る活動であるとも言えるでしょう。

経済学者や企業経営者は、確かに経済活動を説明できるスペシャリストではあるのでしょう。しかし、彼らに今の社会に内在する「病理」を説明する事は望めません。つまり、全てをモノの価値(=カネ)に還元する、数式に表す事が出来る様な経済システムは説明出来ても、例えば「ココロある経済活動」などと言うものは、説明する言葉さえ持たないと想像しています。だから、現代の(経済優先)社会は病んでいると見るしかないと思うのです。現代の社会では、社会を主導している人達は、生体活動で言えば血液の流れしか見ていない様に思えます。だから、経済活動の結果不要なモノ(廃棄物)が違法に(或いは合法であっても)、勝手に環境中に捨てられても無関心で居られるし、体で言えばリンパに当たる目に見えない流れは無視しますし、増してや社会を構成している個々人の心の中などはスッパリと無視してしまうのです。

上の例えで、リンパと書いたのは、実例を挙げれば経済活動の外のモノや価値の流れを指します。食糧してのコメを市場で買えば経済活動ですが、縁故米にはお金は介在しません。同様に、物々交換をしても経済指標には一切現れないのです。

さて、経済症候群の病理です。お金(血流)に換算できないモノや活動を無視する訳ですから、社会の構造(骨格や細胞)或いは神経、増してや神経や脳の健康(民心)などは無視してしまう訳ですから、たとえそこに病魔が隠れていても、見過ごされてしまうでしょう。必要なのは、血流データだけではない、神経の通った経済システムでしょう。今流行のAIがそれを可能にするかどうかは、浅学にして予測できませんが、上手く使えばAIが(社会の)神経の一部或いは脳の一部になる可能性はあるのでしょう。しかし、AIを金儲けの手段に貶めれば、その可能性は潰えてしまうのです。社会の「総合診療医」が必要な所以です。

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2019年1月14日 (月)

3548 メガ発電なんか〇〇喰らえ

人々は、いわゆるスケールメリットを強調しがちです。例えば、大量生産によるコスト削減や大規模発電所の建設による電力単価の引き下げなどが例示されるでしょう。しかし、考えてみれば大量に生産した場合、それを大量に消費する必要もあるでしょう。また大規模システムは、小回りが利かない(いわゆる慣性が大きい)ため、デマンドの拡大縮小に対応できず、結局大量の在庫で対応するしか良い方法が見つからないのです。Tヨタのカンバン方式は、いわゆる「引っ張り生産」システムだと言い張ってはいますが、生産在庫は部品メーカーの倉庫、或いは高速道路上を走っているか時間調整でSAに駐車しているトラックの荷台にあるでしょうし、完成車の在庫は工場に近い巨大なパーキングロットに溜まっているでしょう。

では、メガソーラー発電はどうでしょう。電力は、使い易い便利なエネルギー源ではありますが、一方でバッテリーなどの蓄電設備にストックしない場合、発電した瞬間に消費してしまわなければならない厄介なエネルギーでもあります。それらの全体電力に占める割合が小さな時代はそれほど問題にはなりませんでしたが、発電量が昼間のある瞬間にデマンドの半分以上を占める様になると、需給バランスの取り方が難しくなるのです。ソーラー発電の割合が極端に大きくなってしまった九州では、電力会社の「買取り拒否事件」まで起こってしまいました。もし、ソーラー発電所毎に蓄電設備を設けるとした場合、kw当たりの投資額は、たぶん今の2倍以上には膨れ上がる筈です。そうなると、FIT価格を適用したとしても、投資回収は困難になる訳です。

そう考えてくると、どうやら私たちは発想を逆転させなければならない時代にある様なのです。つまり、製造側(供給側)からの発想ではなく、デマンド側(消費側)からの発想へ転換しなければならないという事なのです。ソーラー発電で言えば、メガソーラーでの系統連携による「押し込み」でなく、戸別の屋根で発電・蓄電し、その家で消費してしまう、エネルギーの地産地消(自家消費)を基本に考えるべき時代になったという事です。数kw程度の小規模システムであれば、それこそこの国の得意分野であるコストを抑えた量産技術を上手く使って、安価に製造できるでしょう。もちろんそこには、ハイブリッドカーに使われている蓄電・パワー制御技術はそのまま流用できるのです。

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2019年1月13日 (日)

3547 ドロドロのお金

表題で言う「ドロドロのお金」とは、真っ当に労働し、生産して得たお金ではなく、何かを転がしている間に膨らんだ、いわばアブク銭の事を指します。転がすモノには事欠きません。石油や農産物などの先物、土地・建物などの不動産、株などの債権、レアものなど、チケットと言った何かの権利など、宝飾品など、果てはネット上での現金販売などなど。少しお金を持っている人は、これらを転がす事によって、雪だるま式にお金を増やす事も可能な時代になってきました。

オレオレ詐欺などとは違って、これらの転がしはもちろん「合法」なのですが、考えてみれば額に汗して働かないにも拘らず、誰かが儲けるという事は、結局誰かが損を背負わない事には収支がバランスしない筈なのです。土地転がしで誰かがお金儲けをしたと仮定して、誰が損をしたのでしょうか。土地価格は下がらないという「神話」を信ずる限りにおいては、誰も損をする筈はないのですが、一方で現実はバブルの崩壊などで土地価格が大幅に下がる事は私たちは痛い程経験してきたでしょう。しかし、人々は喉元の熱さをすぐ忘れる様なのです。隣国のC国で起こっている、不動産バブルも間違いなく崩壊するでしょう。

モノは売買されない限りその価値は明確にはなりませんし、お金もそれが使われない限りにおいては、ただの精密に印刷された紙屑に過ぎません。真っ当な取引で、取引に関わった人達がささやかで正当な利益を上げる限りにおいては、損をする人達はそんなに多くは無い筈ですが、誰かが暴利を貪っている限りにおいては、必ずや犠牲者を生むのは火を見るより明らかな話なのです。つまり、現世代が損を出さない取引においてさえ、それを引き受けた次の世代がモノや権利を手放す際に、世の中の状況がマイナス方向に変化してしまっていれば、大幅な損を出す羽目になるのです。結局私たちは、ドロドロのお金に近づかない様に額に汗して慎ましく暮らし、暴利を得る行動を「犯罪に近い」という目でチェックして行かない限り、最後にババを握らされて途方に暮れる「犠牲者」は減らないのです。

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2019年1月12日 (土)

3546 補助金頼みの再エネ

今関わっているバイオガス発電での再エネもそうですが、動き始めている再エネの殆ど全てが補助金に頼っているでしょう。何故なら、補助金抜きでは到底初期投資が回収できないからなのです。ひどい場合は、8年から16年ほどで投資回収できる金額の一桁高い投資金額になっているケースも多いのです。つまりこの国では、商業ベースでの再エネは実現できない事を意味するのです。例外的には、随分値下がりした太陽発電(PV)では、40/kwを少し超えるくらいのFIT価格で電力を買い取って貰えた期間は投資も回収出来た事でしょう。

しかし、FIT価格がガクンと値下がりした後には、PV投資も大きく落ち込む事でしょう。PVメーカーは、売れなくなるので当然値下げ競争を始める事でしょう。実は、この時期こそPV投資のチャンスでもある筈なのです。つまりFITに頼らなくとも、電気代で投資が回収できるかも知れないのです。当然ながら、そうなるとPV電力を電力会社に売る必要はなくなり、自家消費で対応すれば良いのです。特に工場などの大口消費家は、PVを利用して夏場の冷房負荷のピークをカットする事によって、年間を通じて基本料金が下げられるという隠れたメリットも享受できる筈なのです。

一方PV以外の再エネに関しては、より多くのメーカーの参入によって、システム価格を大幅に、下げる努力が必須なのです。具体的にkw当たりで言えば、PVや風力の様に稼働率が低い者はkw当たりで50万円以下、ガス発電の様に24時間動かせるシステムでは、100万円/kw程度が目安になるでしょう。50kwの小型発電所レベルで考れば、2500万円程度以下に、ガス発電も5000万円以下には抑え込みたいところです。その上で、最終的な段階ではその半額を目標にすべきでしょう。この国の量産技術で、昔は金持ちしか乗れなかった車が「庶民の足」になった過去を踏まえれば、全く無理な目標とは言えない訳です。

この国の歴史を振り返ってみれば、この補助金まみれのシステムが、どれほどその普及を阻んで来たかが想い起され、何時も悲しくなってしまうのは、投稿者だけではないでしょう。自分が在籍した企業でも、たった50kwのバイオガス発電所を、100%の補助金を受けた企業体に5億円ほどで売った事を思い出しました。この金額は、上の基準で言えばまさに1桁高い金額だったのです。結局、補助金が切れた後は、同様の発電所を受注する事はついぞ無かったのです。2002年当時、自費でヨーロッパの再エネ状況を視察した際に、2-3000千万円程度に値がこなれていたバイオガス発電所が、既にヨーロッパだけでも2000箇所移動が稼働していた事を思うにつけ、補助金まみれで普及させようと目論む行政手法には、全く同意できないのです。補助金やFIT以外の上手い手法も考えられると思うのですが・・・。

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2019年1月10日 (木)

3545 効率なんて〇〇喰らえ

技術屋の価値観の全ては「効率」というKWに集約される様な気がします。機械のエネルギー効率や設備の熱効率、あるいは製造設備等でのシステムでの費用対効果という効率で、システムの善し悪しを判断するのが技術屋だからです。しかしながら、残念な事に現代社会は、この効率という概念を、社会システム全体に持ち込んでいるのです。社会インフラはもちろん、本来効率という言葉が馴染まない教育システムにさえ、この効率が持ち込まれているのです。その背景には、社会システム全体が「カネ」もっと正確には、税金を主とした「カネ」で動いている「装置」となっている事があるでしょう。つまり、ほぼ全ての価値や価値観を、取り敢えずは「カネ」に還元する必要があるのが現代の社会システムという事が出来そうです

しかし、もちろん価値観が「カネ」という価値とは相反する場合も多いのです。例えば、人々の健康に関する社会インフラです。少し前、水道事業の民営化の可否という議論がありました。飲み水の品質を、経済効率だけで民営化してしまうのは、水質の確保という点では大いに不安です。何より、今の老朽化した水道インフラをかなりの税金を注ぎ込んで更新して行かなければならない状況での民営化は論外でしょう。

さて、教育システムです。教育こそ効率には全く馴染まないシステムの筈です。というより、全く相反するものでしょう。効率の良い教育とは、より少ない教員や学校設備で、最大の学習効果を得るものだ、と全体を見る政治屋や官僚は言い張るでしょう。しかし、そのシステムから落ちこぼれそうだったり、落ちこぼれてしまった人達を救うには、役人が考えるより何倍もの投資が必要な筈なのです。効率追求のシステムでは、教育全体の底上げはおぼつかないのです。

同様の事が、医療システムにも当てはまるでしょう。3分診療で、検査データだけで診断し投薬する医療は、確かに効率的ではありますが、同じ医者が同じ患者を診続ける「主治医」制度には大きなメリットがあると思うのです。というのも、教育同様全ての人には、それぞれの体質があり、医療はそれに真正面に向き合う必要があるからです。バイタルデータだけに基づく医療は、万人の平均値からの逸脱情報しか提供しませんので、その人の個人データの来歴を無視しがちになるのです。効率を全てのシステムに持ち込むのは間違いだ、と言うしかありません。

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2019年1月 9日 (水)

3544 2019年問題 

2019年問題とは、2019年で高額なFIT価格での電力買取り期間が終了する事態を指します。これまで、例えば42/kwで売っていた電力の買取り価格が大きく(たぶん20円程度)低下するのですから、投資を出来るだけ早めに回収しようと考えていた人たちには大ショックです。買取り価格がこれほど下げられるには理由があります。地域によっては、夏場の太陽光発電量が想定以上に大きくなり、買取りを拒否するケースも増えて来たからです。太陽は気まぐれなので、発電者や電力会社の目論み通りにはならないのです。

そこでどうしても必要になるのが蓄電システムでしょう。日中に発電し過ぎて余った電力を蓄え、夕方や翌朝に発生する様ないくつかの電力ピークをバッテリーからの電力で補完する訳です。売電すれば、自分が買い取る価格より低くなる訳ですから、売るよりは自分で消費した方が有利となるのです。それよりなにより、エネルギーは「地産地消」を理想とすべきである事は強調しておきましょう。再生可能エネルギーは、確かにCO2排出は限りなくゼロに近いのでしょうが、出力が不安定である点が最大の難点なのですから、蓄エネルギーの仕組みは必須だといえるでしょう。

大規模発電所と大規模蓄電システムの組み合わせではなく、小規模な戸別の太陽光発電とその家での負荷に見合った小規模な蓄電システムこそが理想に最も近いのです。この国は、〇〇年問題が直前になってマスコミを賑わし、慌てて右往左往するケースが多いのですが、2019年問題もまさにこの年に直面しなければならない問題となってしまった訳です。残念ながらこの国は相変わらずの「ドロ縄国家」或いは「行き当たりバッタリ国家」であり続けている様です。

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2019年1月 7日 (月)

3543 来たるべき時代の社会2

地下資源と言えば、やはり化石燃料(石炭・石油・LNG)が圧倒的にその量が多いでしょう。なにしろ、それらの多くは、発電所や車や工場や家庭で燃やして熱エネルギーに変えてしまう訳ですから、いくら掘り出しても十分という事はないのです。つまり、地下から消費先までの化石燃料の「流れ」が出来ていて、その流れは信じられないくらい速いのです。その流れは、原油やLNGの様に実際のパイプラインが敷設されていて、その中を流れる場合もあり、残りは列車やLNG船や石炭運搬船で運ばれています。

それらの流れは、景気の善し悪しや価格の変動によって、僅かに増減する事はあっても、流れが社会システムの中に完全に組み込まれてしまっている以上、大きな変動は生じないのです。しかし、来たるべき社会ではその流れを兎にも角にも「絞る」必要があると思うのです。何故なら、化石燃料こそ掘り出す一方であり、「再生不可能な資源」の代表であるからです。それらの資源は、使えば使うだけ減少し、可採期間も比例して短くなるのです。同時に価格は、うなぎのぼりに上昇するでしょう。想像ですが、供給が需要を10%も下回れば、価格は倍に跳ね上がっても不思議ではありません。実際、前のオイルショック時は石油価格が2倍になったではありませんか。現代は、先物取引の仕組みが出来上がっており、あの時ほどの価格の激変は無いにしても、その抑制効果も長くは続かないでしょう。

化石燃料の流れを絞るのは、太陽光をエネルギー源とした「再生可能エネルギー」である事は論を待ちません。再エネが使いづらいのは、その出力が大きく変動する事でしょう。太陽光発電は、晴れの日の日中しか機能しませんし、風力発電は風任せ、水力発電だって渇水期の夏には出力が低下するでしょう。真に必要な社会インフラは、エネルギーを貯め込む仕掛けだと断言できます。昼間電力を蓄え、夜間に放出する蓄電システムは、太陽光発電には欠かせないシステムでしょうし、風力発電にも同様な事情があります。その際組み合わせとして良さそうなのは、水力発電所との組合せ、即ち揚水発電でしょう。上流ダムと下流ダムを接近させて設置するなどの工夫は必要ですが、かなり大きな電力を蓄える事が可能となるでしょう。ここでの来たるべき時代のK/Wは、「蓄エネルギー」になるでしょうか。熱エネルギーの貯蔵については稿を改めます。

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2019年1月 6日 (日)

3542 来たるべき時代の社会

このブログは、現状を嘆いたり批判したりする目的ではなく、「環境」をK/Wに前向きな提言をしようとしていますので、新年に当たっていくつかの青写真描いててみようと思います。さて、如何なる時代になったとしても、絶対に守るべきは「持続可能性」となっている仕組みでしょう。それが崩れた場合、如何に優れたシステムでもやがて崩壊するからです。持続可能ではないシステムとは、結局不可逆で再生可能ではない資源やエネルギーを「消費」するものである事は、このブログでは何度も言及してきました。具体的に言えば、資源に関して言えば既に地上に存在している物質を、それを劣化しない様にリサイクルし、エネルギーに関して言えば100%再生可能なエネルギーに切り替える事を意味します。

リサイクル材料が劣化するのは、例えばプラスチックで言えば、PPPEPSなど異なるプラスチックが、回収の段階で混合してしまう事に根本原因があるでしょう。もし、他のプラスチックや汚れや不純物が全く混じらないプラスチックが回収できるなら、100%リサイクルが容易に達成できる筈なのです。従って、先ずメーカーが飲料ビンにPETを使い、その蓋にPPPEを使い、更にラベルにPPPSなど、複数のプラスチックを混ぜて使っているので、PETのリサイクルそれなりに行われてはいますが、量的に対応できない自治体では焼却処理に回されたりしているのです。ならば、PETを欧州の一部の国が行っている様に、分厚く作ってリユースする方法も考えられるでしょう。それが出来ないこの国は、政治力や行政調整力がすこぶる弱いと断じざるを得ないのです。

もう少し、物質のリサイクルについて付け加えます。プラスチック同様に、地下から掘り上げる資源で多いのは金属材料でしょう。取り分け、鉄、アルミ、銅などは産業の「コメ」とも呼ばれ、大量に生産され消費され続けているのです。金属材料で問題となるのは、とても把握できない種類の合金の存在でしょう。金属は合金するする事によって、多種多様の性状が実現可能なのですが、一方でリサイクル性は悪化します。例えば、航空機材料として多用されるジュラルミンは、酸化が進んだ切り粉はジュラルミン自体としてはもちろん、アルミ缶などにも再生は出来ないのです。精々、強度が求められない安いアルミ鋳物に少量混ぜるといったリサイクル法が残されているだけです。現状の様な、「不完全なリサイクルシステム」では、何時まで待っても地球からの資源の収奪は終わらないのは明白です。続きます。

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2019年1月 4日 (金)

3541 お祭り行政

新年の投稿再開です。この国の行政が、お祭り体質になっている事を懸念しています。五輪や万博などで、短期的に景気を浮揚し、海外からの観光客を集めれば、それでヨシとしている風潮が、ますます顕著になっている様に見えてならないのです。いわば、他力本願の行政や経済体質になっているといっても良いでしょう。これは、祭りによって一時的ににぎわう、自社や城下町の状況に似ているといっても良いでしょう。祭りが去ってしまうと、ひっそりとした日常に戻るだけです。私たちは、この日常の生活こそ基本に据えるべきだと思うのです。

比較的円安で推移している現在でこそ、年間数千万人もの外国人観光客が押し寄せてはいますが、円高や燃料高による航空運賃の高騰などの逆風の曲面では、これもアッと言う間に減少に転ずる筈です。それよりなにより、日本に何度も観光に訪れる事が出来る、中国や韓国やアジアの富裕層が好景気を享受できるだろう時間も限られてきていると見ています。次の景気の落ち込みが何によってもたらされるか予想出来るほどの知見はありませんが、景気が大きく波打つ「社会現象」である事は間違いないでしょう。

さてお祭り行政です。お祭り行政の根源は、やはりポピュリズムに染まった政治屋の存在でしょうか。それを忖度し迎合する計画力の無い官僚にも重い責任はあるでしょう。全く残念な事ですが、この国には、国のあるべき将来の姿を描く「青写真」が見当たらないのです。国際社会の中で、どの様な立位置で、どの様に世界をリードする国になるのか、なりたいのか。それより、何よりこの国の国民は、一体何を拠り所にして生活していくべきなのかの目標が見当たらないのです。高度成長期には、「先進国に追いつけ追い越せ」を目標に我武者羅に突き進めば良かったのですが、さて追いついて、立ち止まっている間にいくつかの国に再度追い越されてしまって、途方に暮れているのがこの国の現状でしょう。

結局、高度成長期とその後の停滞期を通じて、モノに囲まれた経済的な繁栄は、それが最終的な目標ではなかった事が明確になっただけでした。GDPではなく、国民総幸福度が重要な指標とであるとの一部の議論はあるにしても、ではそこに向けて具体的に何をどうすべきか、誰も答えていないのです。そうこうしている内に、幸いにもこれまでは鳴りを潜めていた、地震や水害などの災害が牙を剥き始めて、その対応に右往左往しているのがこの国の現状の様に見えます。残念ながら今年も明るい年とはならない様に予感してしまいます。

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