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2019年5月28日 (火)

3598 猛暑を考える

まだ5月だと言うのに、年間の最高気温を更新している地点も多い様です。もちろん、最高気温を記録する7月下旬や8月上旬の日射を考えると、5月末の日射量とは同等なので、気温も同じ程度になっても不思議はありませんが、春先はまだ地温が十分に上がってはいない筈なので、やはり異常だと言うしかありません。今回の異常気象の気圧配置を見ると、高気圧が太平洋上でブロックされ、その高気圧を回り込む南風が長く吹いたという状況が続きました。その高気圧のブロックが何故起こったのかと考えれば、それはジェット気流の蛇行が原因だ、と言うしかありません。つまり、ジェット気流の蛇行による寒気の谷に暖かい高気圧がスッポリ嵌り込んで、同じような気圧配置が続く結果につながったとみています。
では何故、ジェット気流の蛇行が生じたかを考えてみると、それは北極地域の温暖化だと考えるしかないでしょう。北極海では夏場の浮氷が大幅に減少し、その分夏場の沈まない太陽からの日射で海水温が上がり、そこ結果冬期の結氷が薄くなり、夏場の浮氷を減らすという「悪循環」が収まらないのです。その分、北極地域での寒気の塊り(寒気団)も弱くなっているのです。投稿者が子供時代に世界の最低気温は、ロシアの北極海沿岸の村で観測されました。社会科で習ったその村の気温は、マイナス80℃をかなり下回っていたという記憶があります。今、その地域の気温はその当時に比べると40℃以上も高くなっている様ですのです、日本の位置する中緯度地域の1-2℃程度の温暖化とは比べものにならないレベルでしょう。
さて、ジェット気流とはこの極の寒気団を縛る「鉢巻き」の様な存在ですので、その鉢巻も寒気団が弱まるにつれて、グダグダに緩んでくる様なのです。これが、ジェット気流の蛇行です。この蛇行は、もちろん北極地域が暖まる夏場には大きくはなるのですが、それが春先の今起こってしまったのは、やはり温暖化がもたらした異常気象と呼ぶしかないでしょう。もちろん、地球の大気は連続して繋がっており、地球表面を覆う海水も海流として循環していますので、極地方の温暖化が赤道地域や中緯度地域の気象に影響及ぼさずには置かないでしょう。例えば、エルニーニョやラニーニョ現象として、赤道地域の気象現象の異常がニュースになる機会も増えています。この異常気象に私たちが歯止めに掛ける事が出来るのか、それとももっと壊滅的な異常が起こるまで、放置するしかないのか、人間の活動が地球規模の気象異常に影響を与えているのは、Tランプさんがどう言おうとも、もう疑い様がないのです。

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2019年5月26日 (日)

3597  田舎ビジネスを考える

田舎に人を呼び戻すためには、新たなビジネスが必要でしょう。しかし、それらは今都会で流行っている様なビジネスではない事は確かでしょう。田舎には、田舎の資源や風土といったものがあり、いずれのタイプのビジネスであるにせよ、都会でのうたかたビジネスではなく、持続可能性をど真ん中に据えて考えるべきだからです。そこで、先ずは田舎に潤沢にある、持続可能な資源についていくつか考えてみます。
田舎に豊富にあるものとしては、平地にある都会とは対極の「山」でしょう。そこには、冬には雪がドカッと積もり、雨も降り、その結果樹木や豊富な種類の植物に覆われています。山の持つ資源は、言わずもがなの「水と樹木」です。奥山は除いて、里からパッと見える山の2/3程度は、たぶんご先祖様が植林した「人工林」です。投稿者が住む地域では、圧倒的にスギとヒノキです。樹木は、バイオマスの代表として、木材の他、紙、、燃料として、計画的に伐採すれば持続可能な資源となり得るでしょう。木材産業も、かなり廃れてしまったとはいえ、大規模な数か所と、小規模な製材所が少なからず残ってはいますので、木材の持つセルロース素材としての特徴を最大限に生かすビジネスは、まだまだ大きな可能性があると思うのです。ここでは、木材を圧密して強度を大きく上げた工業材料としての「圧縮木材」と、木材を爆砕して得られるセルロースファイバーを利用した素材産業の可能性を挙げておきます。
田舎の資源として次に思い浮かぶのは、稲わらともみ殻でしょうか。稲作は、省力化や機械化がし易いしかも弥生時代から続く持続可能な農業形態の一つであり、田舎では今でも圃場整備が大規模に行われており、一面当たりの田んぼの面積は、大きくなり続けています。ざっと言えば、1枚の田んぼの面積が、かつての単位(1反)の10倍くらいになると想像して貰えば良いでしょう。広くなった田んぼでは、稲作機械もGPSを使ったり、大型のドローンを使ったりして自動化、省力化が進んで居ます。その稲作からは、今後とも大量の稲わらともみ殻が排出される訳です。稲わらは良質なセルロース素材であり、畳などの原料であり、燃料にもなり得る訳です。更にもみ殻も燻炭とすれば、理想的な土壌改良材となり、完全燃焼させたモミガラ灰は、優秀なコンクリート混和剤にもなるのです。必要なビジネスは、これら稲作から継続的に出てくる材料を使って、消費量とバランスが取れる製品を作る持続可能な産業を興すのが理想でしょう。
この他にも、田舎には持続可能な資源は、豊富に存在します。山から豊富に流れ下る水資源、同じく山からの恵みである湧水、伐採してもやがて根からしっかり萌芽再生する雑木、豊富な温泉熱、山菜やキノコなどの山の幸、海の幸、冬期の季節風、夏場の長い日照時間、春先まで残る積雪、増えすぎたいわゆる害獣駆除からのジビエなどなど、枚挙に暇が無い程です。これらを、持続可能な形で利用し、付加価値を付ければ、田舎ビジネスを生み出すことも可能でしょう。

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2019年5月25日 (土)

3596 ブラックホール

最近話題になった宇宙のブラックホールの話ではありません。人を吸収し続けてなかなか離さない大都会(この国では東京)の話です。人口の都市集中は、何もこの国だけの現象ではありません。むしろ、C国やIンドやアフリカ諸国などの方が極端かも知れません。田舎に住んでいる人たちにとって、確かにテレビで見る都会は煌びやかで、何でも揃っていて、文化的なレベルも高い様に見えます。しかし、一歩裏(通り)に回ると、ごみごみと猥雑で、犯罪も多く、物価も高く、住居費のバカ高いでしょう。でも何故か人を引き付け続けるのです。
何故なんでしょうか。若者が都会に上るタイミングはいくつかあるのでしょうが、大きなものの一つは多分進学でしょう。都会には、それこそありとあらゆる種類の学校が揃っています。単に学問のための学校ばかりではなく、芸能はもちろんコンピュータやアニメや各種学校や特殊なノウハウを教える学校も数限りなく存在するでしょう。人が都市に集まる次のタイミングは、たぶん学校を卒業してからの就職でしょう。学校のために上京した若者にとって、都会にはありとあらゆる職業が揃っています。仕事の中身がやや怪しいものも含めれば、職種も求人数も都市は求職者にとっては天国の様な場所である事は間違いないでしょう。とても、求人数が極端に少ない田舎に戻って、職を探そうとするインセンティブは出てこないのです。
結局、都市で学んで就職して、増して結婚までしてしまった若者は、都会の暮らしに疲れて精神的に病んでしまうか、あるいは親の(病気や家業継承といった)都合でもない限り、田舎に戻る事は考えもしないのです。完全に都市というブラックホールに飲み込まれた集団が膨れ続ける事になります。高度成長期に都市に取り込まれた若者たちの現在の姿は、郊外の大規模団地に行けば目にする事が出来るでしょう。夫婦二人だけか、あるいは結構な歳になってしまった独身の息子や娘と同居するか、あるいは連れ合いに先立たれた独居老人が目につくことでしょう。彼らは、ブラックホールの中心で燃え尽きてしまう物質にも似ています。
他方で、人口が確実に毎年1%ずつ減少し、高齢化がドンドン進む田舎では、放棄された空き家ばかりが目につき、子供の姿は殆ど目にすることは無く、人が少し集まるスーパーやショッピングセンタ―には高齢者の姿だけが目につくのです。町に人通りは無く、たぶん最も人が集まって混んでいるのは、病院と遊技場くらいでしょうか。都市のブラックホールに比べれば、田舎は対極にあるホワイトホール?の様なものでしょうか。さて、これら両者を足して2で割る妙案は無いものでしょうか。引き続き考えてみます。

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2019年5月24日 (金)

3596  SVO/WVO改造

SVOはStraight Vegitable Oil(食用油)の頭文字、WVOはWaste Vegitable Oil(廃食油)の略です。ここでの改造とは、ノーマルのディーゼルエンジン(車)を、これらの植物油でも動くようにすることを指します。一番安易な方法は、タンクを2個並列に設置し、コックで切り替える方法でしょうか。先ず軽油でエンジンを起動し、エンジンが暖まったたらコックを切り替えてSVO/WVOに切り替える方法です。当然の事ながら、植物油は予め目の細かいフィルターでろ過しておきます。しかし、この方法は非常に簡便ですが、気温が低い時期には植物油の粘度が高過ぎ流動性が悪くなってエンジンが停止してしまうでしょう。
そこで、植物油の温度を上げてやる必要がありますが、方法として冷却水をバイパスさせて暖める方法と、バッテリーから電源を取り燃料管に伝熱ヒーターを巻いて加熱する方法、それを併用する方法があります。これらの改造キットは、インターネットで検索すると欧米では広く実施されている様で、必要な部品をキット化したものを数万円で入手することが出来る様です。投稿者としては、先ずは車の改造ではなく、工事用のエンジンコンプレッサーや発電機などで改造をしてみるのが実際的だと考えています。地元の外食産業やスーパーなどと契約すれば、回収された廃食油を継続的に入手するのは比較的容易でしょう。
SVOやWVOの欠点は、発熱量が軽油に比べ16%程度低いため出力の低下があること、低温時の粘度が高く流動しにくいこと程度しか無く、硫黄分はほぼゼロであるため、環境にも優しいのです。当然の事ながら、排気管からは天ぷらを揚げた時と同じ匂いがする筈です。廃食油が年間何万トン無為に廃棄(焼却)されているかですが、農水省の2007年度のデータでは、消費量が237万トン、その内回収される廃食油量は45万トン程度の様ですが、35万トンは外食産業から10万トンは家庭から排出されるとされています。同じ量の軽油、ざっと40万キロリットル(4億リットル)相当の軽油は、金額にすればざっと400億円に相当し、これが石油として輸入されていると考えると、残念でなりません。400億円の純利益を出すために、企業は一体どれほど製品を売り上げなければならないのを考えると気が遠くなります。一方で、廃食油の焼却と軽油の消費で、ダブルでCO2を排出している訳で、それが半減できるポテンシャルをこの国は持っている訳です。

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2019年5月22日 (水)

3594 知・情・意・・・2

3592で少し書き足りなかったのでついか追記します。M野隆司の表現によれば、私たちは決して、自分の知情意を操っている主人公ではなく、脳の中に住む小人たち(脳のニューラルネットワーク)の行動の結果生ずる脳のアウトプットを、さながら河畔に佇んで川の流れを眺めている「観測者」に過ぎないと主張するのです。自分というものを意識し過ぎる人を「自意識過剰」と呼びますが、この様な人達は多分生きていくのに大きなストレスを感じている筈です。
なにしろ、自分を他人がどう見ているかを常に気にして、そこに少しでも差異があれば自分を修正するか、あるいは修正出来ない場合は他人を恨むしかない訳で、いずれにしても安寧には暮らせないでしょう。しかし、自分を自分の(脳の)中に住む小人たちの行状の観測者と考えれば、生きてく上ではかなり気楽になると思われます。なにしろ、他人の見方と自分の小人たちの行動にズレがあった場合でも、それは自分の所為ではなく小人たちの仕業なのですから、自分の小人たちを責めれば良いでしょう。もし、小人たちの行状が良くない場合は、彼らを脳内に養っている家主としての軽い責任は感ずるにしても、全面的に責任を負う(と思い悩む)必要までは無いでしょう。もちろん、小人たちをその様に悪く育ててしまった事には、少しばかり良心?呵責を感ずる必要はありそうですが・・・。
当然の事ながら、その良心でさえ、脳内の小人たちのネットワークの機能から生ずるものである筈なので、やがて「卵とニワトリ」のサイクルに迷い込んでしまい、なかなか自分という存在をクリアに定義するのは難しいのです。しかし、M野隆司は工学出身の学者であり、彼の見方は同じく工学を職業にしていた投稿者には、結構分かり易いものでした。
さて、投稿者にはもうしばらくの寿命が残されている様ですので、精々自分の小人たちの行動の観察を続ける事といたします。

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2019年5月21日 (火)

3593  逆流(逆転)

物事には流れがありそうです。戦後の時代を歩いてきた身としては、その間の時代の流れも見てきました。しかし、最近その流れには一方通行しかないのか、と考え込む事も多くなりました。確かに、時間を遡ることはSF小説や漫画の中でしか出来ないでしょう。しかし、ヒトが関わった営みは、かなりの程度後戻りが可能の様な気がします。やや小難しい言葉で、言えば後戻りが出来ない「非可逆変化」と後戻りが可能な」「可逆変化」という分類になるでしょうか。
前者の例としては、入れ物からこぼれてしまった水が挙げられそうです。覆水盆に返らずの喩えの通り、地面に浸みてしまった水を全て回収することはほぼ不可能でしょう。一方で、可逆変化の例としては、土木工事などが挙げられそうです。例えば、山を削って谷を埋めて道路を作ったとしても、時間と費用さえ掛ければ、もう一度谷を埋立てた土砂をすくって、山に戻すことは可能でしょう。コンクリートに覆われた川の護岸でも、それを剥がして土手に戻すことは可能でしょう。もちろん、増水時の濁流に耐える様な工夫は必要ですが、これに当たる復元工事を、北ドイツで目にした事を思い出します。彼の国では、エムシャー川と言う、工業地帯を流れるドブ川の護岸を剥がして、土手に戻す工事を長年に亘って続けていたのです。もちろん、ドブ川のヘドロを浚い、水質の改善努力を続けた結果、やがて魚や水鳥が戻ってきたのです。
これは、インフラを造り、増やすだけの土木工事を逆流させた例と言えるでしょう。日本で言えば、山の中を通るめったに車の通らない道を、減幅して元の山道に戻せば、削った分の土地には草木が戻り、自然に戻り始めるでしょう。
さて、人間社会のシステムです。戦後の混乱からの復興で、主にB国にリードされながら、新憲法が作られ、工業が復活し、農業も大改革が行われて小作農も無くなりました。政治システムや行政組織も整備され、折々のバージョンアップもあって現在に至っている訳です。しかし、例えば選挙制度がバージョンアップによって改善されたのか、あるいは改悪されたのかは怪しい部分も多いでしょう。3割しか支持率の無い政党が、2/3の議席を占めてしまう様な選挙制度は、やはり理想には程遠いのです。熟考の上でという条件は付きますが、私たちは物事やシステムの逆流(逆転)を畏れるべきではないでしょう。もちろん、逆流させた結果の最終的で持続可能な着地点は慎重に見極めて置く準備は必須ですが。

 

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2019年5月20日 (月)

3592 知・情・意・・・・

文庫本の、M野隆司の「脳は何故心を作ったのか」を何度目かの読み直しをしています。この人の「突き抜けた」結論が好きで、あまり同じ本を再読はしないのですが、Y老孟司のいくつかの本と共に、これを手元に置いて時々拾い読みもしています。何が突き抜けているかと言えば、筆者は私たちの行動は全て脳内に居る「小人」達の多数決による「受動的」なものだと言い切るのです。私たちが、自分の意志で行動していると思っている行動も実は錯覚であり、何らかの外部からの刺激によって喚起された、受動的な行動だと言うのです。
私たちが、自分は自分であると感ずるのは、脳内の小人たちの行動は、個人によってかなり個性が偏るので、彼らの行動を常に観察してきた自分は、自分として小人たちの個性やある状況下の行動をかなりの程度知っているため、それがあたかも自分の個性だと錯覚してしまっているのだとか。この考え方だと、実は私たちの気持ちはかなり軽くなる様に思うのです。何かトラブルが飽きた時、他人の所為にするのが一番安易で気楽だと思うのですが、自分(だと思っている個性)の行動が、脳内に居る小人たちの多数決によって決まっていると考えれば、間違った事も「奴ら」の仕業だと責任を転化できるからです。
ここで、筆者が小人と呼んでいるのは、言わずもがなですが、脳内にあるニューラルネットワークの単位(ユニット)を指します。それらのユニットには、表題の知・情・意の他、記憶と学習などもありますが、いずれにしても私たちは、自分の意志だと思っている行動でも、外からの刺激に反応したこれらのユニットからのアウトプットでそれを起こしている様なのです。
例えば、昼に昼食のために食堂に入ったとします。それは、まさに自分の意志で食べたいものを決めた上で、入るべき食堂を決めたと思い込んではいますが、実は血糖値が下がった結果、食べ物を補充すべきという信号が脳に飛び、その結果目に入ってきたいくつかの食堂候補の内の一つの入り易そうな、あるいは空いていそうな外観に刺激されてフラフラと入ってしまったというのが実情でしょう、つまりは、蛾が誘蛾灯に導かれてその周りに群がるのと、あまり差は無い様なのです。この本を読む事によって、唯一無二だと信じている自分という存在が、実は小人劇場の観客に過ぎないと思う様になり、その比重がかなり軽くなり、生きる上で気楽にもなっていきます。一読をお勧めします。

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2019年5月16日 (木)

3591 政治の劣化

政治(政治家)の劣化が止まりません。このブログは、批判を目的とはしていませんので、批判に終始することは避けますが、政治家の劣化は指摘せざるを得ない状況でしょう。大臣という席に座る資質の無い人が座る、酒癖の悪い人が議員になるなど、最近の政治家(政治屋)の行状は目に余るものがあります。それもこれも、選挙制度に主要な原因の一つがあると考えるざるを得ません。今の選挙制度では、たった1/3の支持率しかない政党が、2/3の議席を獲得できるのです。積極的に政党を指示しない人達(支持する政党なし層)が4割を占めているにも関わらず、私たちは人を選ぶのでなく、無理やり政党を選ばざるを得ない仕組みなのです。
もちろん、選挙演説だけを聞いたところで、候補者の人となりがしっかり分かる筈もありませんが、少なくとも任期中の行状が悪かった議員は、次回の選挙では落選することでしょうから、資質の無い人が長年議員をつとめ、当選回数の多さで回ってくる大臣の席に座る事もないでしょう。
政党制が打ち壊せないなら、少なくとも3大政党制を推進すべきである、と提案しておきましょう。2大政党制で、時々その交替が起こる仕組みの手本は、たぶん日本も政治の制度を真似たE国でしょう。しかし、そのE国でさえ、EUからの分離を巡って、僅差の賛否での決定が、その後の大混乱を招いているのです。3大政党制というのは、政策によって3つの政党が組む相手を変えるのです。ある経済政策ではA党とB党がタッグを組む一方、外交政策ではB党とC党が協力する訳です。あるいは、福祉政策ではA党とC党の意見が一致するかも知れません。保守か革新かではなく、保守と革新と中道が柔軟に相手を組み替えるのです。この結果、政治に緊張感が生まれ、決められない政治も少なくなるのでしょう。なにしろ、2つが手を組めば議会の2/3を握れる訳ですから、決まらない筈はありません。中道勢力が、保守に寄ったり、革新に近づいたりするのは、かなりの程度世論の指し示す方向で決めれば、民意の反映もかなりし易くなるのではないかと思うのです。現状の国会(民意)無視の保守暴走は、国の将来を脅かさずには置かないでしょう。

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2019年5月15日 (水)

3590  どこでもドア

ところで、今回の表題として、何故「どこでもドア」にしたのか思い出せませんが、兎に角このKWからの連想を徒然なるままに書いてみる事にします。これは、言わずもがなですがSF漫画の主人公が出す種々の道具(機械?)の一つです。流石に漫画家は、なかなか良いピッタリのネーミングを考え出すものだと感心します。
さて、このピンク色のドアを使えば、ある場所でこのドアを開くだけで、何処でも行きたい場所に出る事が出来るという、Dラえもんの道具の中でも、かなり優れものの道具だと言えるでしょう。ドアを開けたら、そこは別世界であったというシチュエーションは、誰でも夢想した事があるのでしょうが、漫画家はそれを絵にし、映画製作者はそれを画像にする訳です。多少真面目にSF的に考えれば、この道具は「テレポーテーション」を可能にする機械だとも言えるでしょう。ドアを開けた人物を瞬時に原子に分解し、その人が想像した行先に送り、そこで原子を再構成して本人を「出現」させる機械だと言えそうです。
これは、人間の移動手段としては極限の理想を実現する機械だとも言えるでしょう。何故なら、朝起きて身支度をしてドアを開ければ、そこは例えば勤務する職場であったりする訳で、通勤時間ゼロを実現する夢の手段となるでしょう。これさえあれば、新幹線もジェット機もリニア新幹線も不要になるでしょう。帰省やレジャーの際、車で移動する時の交通渋滞さえ無くなるのですから。つまり、私たちが太古の時代からの課題である「移動」するための努力をゼロにしてくれる機械だと言えるでしょう。
以前にも書きましたが、ヒトは移動したがる存在(Homo-movens)である事は間違いないでしょう。そうでなければ、アフリカで発生した人類が、赤道地帯から極北の地まで、あるいは海面下の低地から数千メートルの高地まで広く拡散して住む事になる筈もありませんから。1ヶ所で静かに生活をするだけなら、長い距離を移動する必要もないのでしょうが、ヒトは何故か移動したがります。旅行や観光などという、移動のための移動も進んで行う種なのです。その意味で、移動はヒトのDNAにしっかりと組み込まれた衝動なのでしょう。ヒトである投稿者も、時々どこでもドアが欲しくなる一人です。

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2019年5月14日 (火)

3589 ブルーオーシャン3

続きです。さて、具体的なブルーオーシャンの例です。この場合のオーシャンとは、具体的には「市場」と言い換えることも出来るでしょう。まだ、誰も漕ぎだしていない真っ新の市場の事なのです。市場と言うからには、そもそもその市場を形成するであろう顧客が、モノやサービスに関して明確なニーズを持っていることが前提となります。つまり、ブルーオーシャンは物理的な地球の大きさに制約を受けるものではなく、小さなオーシャン(池?)であれば、人の数だけ殆ど無限に存在することになります。つまり、自分以外のたった一人しか持たないモノやコトへの欲求があれば、そこには一人分のニーズの池が出現するでしょう。それが、10人、1000人、数万人とまとまれば、立派なブルーオーシャンが出現でする事につながるのです。
自分のニーズを満たしても、お金儲けは出来ませんが、自分以外の人にモノやコトを提供し、それに代価が生まれれば、先ずは水たまり程度ではありますが、超ミニ市場が生まれたという瞬間になるでしょう。現代社会では、ネット上でニーズを持つ個人や少ない人数にも容易にアクセル可能ですから、超ミニ市場を見出すには殆どリスクは発生しない筈です。但し、誰でも提供できるモノやサービスであれば、それに気付いた人がすぐに真似をするでしょうから、安心はできません。しかし、他人が容易に模倣できないモノやサービスであれば、やや安心できるかも知れません。形は容易に模倣できますから、例えば目には見えないレシピや製法であれば、ガードが可能かも知れません。
ここでの結論としては、もし誰か一人でもお金を払ってでも手に入れたいモノやサービスを考え出せれば、それをリスクなく拡散し、新たなブルーオーシャンを創造するのは、比較的容易な時代になったと言えるのです。もちろん、既に高齢者の域に踏み込んでしまった投稿者としては、今更ブルーオーシャンを作り出そうとは思いませんが、暇はたっぷりあるので、もし何か面白いビジネスのネタを思いついたらこのブログで紹介してみることといたします。勿論、アイデア料は無料です。この項は取り敢えず終了。

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2019年5月13日 (月)

3588  ポツンと・・・

日曜夜の「ポツンと・・・」というTV番組が人気の様です。投稿者としても時々視聴しますが、なかなかに興味深い人と暮らしが登場します。この番組が何故人気なのかですが、それはとりもなおさず人里から遠く離れた山間地や離島で、不便であるがしかし時間や山の恵みに感謝しながら暮らす、かつて日本にあった本当の田舎暮らしを、今でも実践している姿を見る事の興味でしょう。人里離れた場所での暮らしは、今日でこそ電気も通っていない場所は殆ど無いのでしょうが、買い物にせよ、病気になった場合にせよ、アクセスは大変でしょう。特に積雪地では、車の使用もままならないでしょうから、殆ど「冬籠り」になってしまうでしょう。
加えて、番組に登場する殆どの人達が、いわゆる「後期高齢者」である事も興味深い点でもあります。つまり、人が何処で人生を終えたいか、あるいは終えるべきかをポツンと・・・の住人たちは身を以て示してくれているのでしょう。生まれ育ち、あるいは若い日に嫁ぎ、長年暮らした場所で一生を終えるために、不便な暮らしを(たぶん楽しみながら)続ける人達の生き方は、確かに参考になりますし、また参考にすべきでしょう。家の周りの自然から手に入るものは、ありがたく頂戴し、手に入らないものは諦めて、無しで済ますか代用品で済ます生活。時々害獣に作物を横取りされながら、それをある意味「自然の取り分」として喜捨している様にさえ見える暮らしは、額に汗する労働の尊さに繋がっている様にも見えてしまいます。
ポツンと・・・の彼らの暮らしは、資源に恵まれない、しかし自然には恵まれている、一方で超高齢化社会に突き進んでいるこの国に暮らす我々の、食べ物やエネルギーの入手や暮らし方の理想的なサンプルだと思うのです。そこでは、山菜やジビエや自家農園で得る食糧を食べ、薪で風呂焚きや暖を取り、羽釜で飯を炊き、しかしゴミを殆ど出さない生活スタイルは、少し前に流行ったナンチャッテLOHASなど足元にも及ばない、それを突き詰めた暮らしぶりだと思うのです。いずれにしても、私たちはポツンと・・・の住人の暮らし方を、目を凝らして観察し、出来るところから真似をするべきだと思うのです。このユニークな番組の視聴率が更に上がる事を期待しています。

 

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2019年5月12日 (日)

3587 ブルーオーシャン2

ブルーオーシャンは、分野ごとに存在するものなのでしょう。しかし、この分野を今市場にある瀬品やサービスで括っては、方向を誤る事になりそうです。例えば、車(乗用車)ですが、現在の買取り・自分で所有することが前提の製品として見做してしまうと、メーカー間の熾烈なシェア争いというレッドオーシャンに溺れてしまう結果につながります。唯一無二の「車」でなければ、ブルーオーシャンを独り占めは出来ないのです。
実は、その唯一無二の市場を狙って、メーカー間で熾烈な開発競争を繰り広げている分野が、あります。それは、空飛ぶ車です。しかし、最近でこそ注目を集めてはいますが、そのアイデアは非常に古く、軽量化した車に翼と強力なエンジンを積んだものや翼を折りたためる様にした空飛ぶ車なら、既に1950年代に実現してしまっているのです。つまり、この分野は古くからレッドオーシャンでもあった訳です。それらが、何故実用化されなかったかは、言わずのがなですが、安全性とコストの壁を打ち破れなかったという事でしょう。取り分け、空を飛ぶとは言っても、精々200㎞/h弱でしょうから、高速道路が整備されるにつれて、空飛ぶ車自体の存在価値が薄れてしまったというのが正しい見方かも知れません。
では、今日何故再び空飛ぶ車の開発なのでしょう。技術的に難しい事は何も無いでしょう。ドローンを大型化してもOKでしょうし、極限まで来た軽量化技術を使えば、空飛ぶ車を作るなど造作もない事でしょう。しかし、十分に軽量化された車を空に浮かべて飛行している時、突然突風が襲ってきたらどうでしょう。軽い空飛ぶ車はひとたまりもなく吹き飛ばされて、最悪は墜落の憂き目に遇う筈です。もちろん、地上で巻き込まれる不運な人も出る筈です。十分に安全性が確認されている金属製の旅客機でさえ、時々突風やダウンバーストで事故を起こしているのです。
そう考えると車のブルーオーシャンは空飛ぶ車では無い事は明らかでしょう。かと言って、自動運転車かと問われれば、3585に書いた様に、それも筋が違っている様に見えるのです。
投稿者としては、車というパーソナルな移動手段そのものを見直して、新たな乗り物のカテゴリーを生み出さない限り、この分野のブルーオーシャンンは見つからない様な気がしています。例えば、歩いて移動しながら日本の名山巡りをした冒険家が尊敬を集めた様に、この時代歩いて移動することは時間を潤沢に使った贅沢でもあるでしょう。歩きに準ずる贅沢は、たぶん自転車での移動でしょう。ならば、歩くことや自転車を科学で徹底的に分析し、どれほど歩いても疲れない(疲れにくい)靴やウェア、更に人力を効率的に使える自転車を考案すれば、たぶんブルーオーシャンに漕ぎだせる気がしている。更に続きます。

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2019年5月10日 (金)

3586 ブルーオーシャン

ブルーオーシャンとは、言わずもがなですが、競争の無い新たな市場や分野を指す言葉ですが、現実には人々は血みどろの競争だらけの「レッドオーシャン」にしか興味が無い様に見えてしまいます。AIと言えばAI分野に、IoTと言えばIoT分野に、具体的な製品で言えば、同業他社を横目に見ながら、自動運転車やリージョナルジェットなどの、まさにレッドオーシャンと殺到している様に見えるのです。何度も書いた様に、人々や市場の「真のニーズ」はさておいて、メーカーの信ずる道を突き進んでいる方向に関しては、投稿者は懸念を持ち続けている者です。
では、競争の無い(少ない)ブルーオーシャンは何処にあるのかと問われれば、それはSDGsを眺めてみなさい、という結論になってしまいそうです。これまでも書いてきた様にSDGsには、17のゴールが記述されていますが、全体に通底するKWとしては「持続可能性」である事は間違いないでしょう。もし新たなビジネスを始めるとして、それが100年後も持続可能なものであれば、取り敢えずのファーストチェックとしてはOKでしょう。加えて、そのビジネスに関わる資源やエネルギーが同様に持続可能な形で入手でき、ビジネスの結果としての廃棄物が環境を汚さない範囲であれば、GOサインを出せると太鼓判が押せそうです。
SDGsのゴールを目指すビジネスが、ブルーオーシャンであると断言できるのは、現状ではそれらはコストが掛かり過ぎて、殆ど誰も(大規模には)手を出していない分野であるため、競争が殆ど無いと思われるのです。もちろん、それらは現在的な意味でのコスト(マネーだけで換算したコスト)で比べれば、まだまだ採算が合わないと思われますので、SDGsに敏感なカスタマーに照準を合わせる必要はありますが、希望的観測ではありますが、そのようなカスタマーも今後増えていくでしょうから、まだ誰も踏み込んんでいない今はまだ狭いブルーオーシャンも多く存在する筈なのです。抽象的な言葉をいくら重ねてもピンとこないかも知れないので、次に具体的な例を挙げてみる事にします。続きます。

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2019年5月 9日 (木)

3585 AIの限界

LoT やVRに加えて、もう一つの次代のKWであるAIについて少し考えてみます。AIは、日本語にすれば人工知能ですが、いわゆる予め編纂された「百科事典」でない事は明らかです。何故なら、一度作られて印刷された百科事典のページ数や内容改定が自動的に行われる事はないのに比べ、AIは自分でドンドン学習し、知識をアップデートしながら増やしていくからです。つまり、人間で言うところの「賢さ」が日々増していくのです。
もし、記憶容量が事実上無限のコンピュータがあるとして、それにほぼ完ぺきにデザインされたAIが組み込まれ、そこに日々流される膨大な情報が流し込まれると仮定すれば、やがてこのAIは、あらゆるカテゴリーで人間の能力を超え、神様の様な存在になり得るのか、という疑問が湧いてきます。確かに、このAIに問い合わせれば、瞬時に答えが返ってきて、人間たちの行動を助けてくれるでしょう。
しかしながら、このAIには私たち人間とは明らかに違う点がいくつかあります。その一つは、このAIは人間の脳で言えば、知識のインプットと情報処理とその構造化の部分だけを完ぺきに行う機能は持っていても、それ以外の何者でもないという点です。例えば人間の脳には、いわゆる感情(Emotion)なる機能もありますが、AIにはそれが欠けているでしょう。
またAIには、人間で言う五感や手足に当たるActuatorもありません。五感で感ずる事が出来ないし、自分で動いて行動を起こす事もないのです。その意味で、ALを搭載した自動運転車は「得体の知れない存在」と言えるでしょう。何故なら、自動運転車は「自分で」動ける機械だからです。人間が目的地をインプットすれば、視覚だけですが一応外界をセンシングし、ALが混雑状況などの情報を使ってルートを決め、AIが適当と判断した速度とハンドルさばきで、乗客を目的地まで移動させる訳です。しかし、地震や洪水や歩行者の予想外の行動や道路の陥没など、AIの判断を超える外乱への対処などは全く未知と言えるでしょう。つまり、その時自動運転車がどう動くか(行動するか)が全く予測できないのです。全知全能のAIは、たぶん巨大なサイズになると思われますので、車に搭載できる程度のAIの能力などは、所詮知れたものに過ぎないと思うのです。結局、AIの限界は、物理的なサイズで決まってしまうという単純な結論になってしまいました。もちろん、最近流行の5G通信を使えば、AIの物理的なサイズの限界は無くなりますが、無線通信はそれほど安定的な情報伝達の手段ではありませんので、結論はやはり変らない事になります。

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2019年5月 8日 (水)

3584  VR(疑似体験)

以下は単なる随想です。VRという概念は小説に初登場したのもカウントすれば非常に古い言葉でもあります。現代的な意味でのVRが再登場するのは、たぶん1980年代ではないかと振り返っています。当時のVRは稚拙なモノで、例えばサイコロ型のブースの6面に、映像を映し出しサイコロの中に居る人物が、風景の中での疑似体験が出来る程度のものだった様な気がします。その後、工業系のVRとしては、例えばDソー社の3DのCAD/CAMシステムの中で、さながら狭い場所にカメラが潜り込んだ様な映像(ウォークスルー映像)が画面の中で再現できる様なり、設計の事前検証や整備性の改善などにも活用されてもきました。その後は、特殊なメガネやヘッドマウントディスプレーなどの小型の機器を使って、手軽に3Dの疑似体験が出来る様になってきた様です。
しかし、考えてみれば疑似体験はあくまで疑似の体験に過ぎないでしょう。実際に、手で触ったり匂いを嗅いだりといった五感に訴える「本物の」体験と同じ体験などは出来ない相談です。もちろん、映画館などでは迫力あるサウンド効果や振動や音や、時には水しぶきなどの特殊効果で疑似体験を強化する様な試みも行われてはいますが、何処まで行っても結局は疑似的な体験に過ぎません。疑似体験は、本物の体験に比べて「脳に刻まれる度合い」が弱い事は容易に想像できるでしょう。脳に刻まれる「記憶」は、画像や絵の様な平面的なものに比べれば、五感の刺激で刻まれた「立体的な記憶」の方が強いのは当然の事でしょう。
VRで旅行体験をしたとしても、実際に現地に行って口にした食事やその場所の香りや騒音や、ましてや失敗体験などの濃密な体験とは比べるべくもないでしょう。六十数年間の投稿者のつたない経験を振り返っても、ラッキーな事に仕事で20回以上は海外に出張し、合計2年ほどは現地で暮らした経験が、人生をどれほど豊かにしてくれたかと考えると、会社に感謝してもし過ぎる事はないでしょう。今後、どれほどVRが発達したとしても、実体験に迫る事は出来ないのです。何より、VRでは体験の中で周りの対象に働きかけ、リアクションを得ることは不可能だからです。双方向のアクションとリアクションが、実体験の神髄だと思うのです。

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2019年5月 7日 (火)

3583  シーズよりニーズ2

繰り返しになりますが、本来の意味の市場というものを考えれば、シーズに基づいた「押し込み型」でなく、ニーズに基づいた「引っ張り型」の市場メカニズムを指向すべきでしょう。後者の方が、間違いなく廃棄物が減るからです。生産された食糧の何割かが、消費されずに期限切れで廃棄されているという事実を見ても、消費者を待たせてはいけないという現代的な悪しき商習慣がその背景にあるのは間違いないでしょう。
このブログで何度も強調しているのは、最終的な社会の持続可能性の最長化こそが環境問題を考える上でのゴールであるという点で、生産にエネルギーと資源を投入した製品(ここでは食糧ですが)を消費しないまま廃棄に回すという「最悪のムダ」こそ絶対に無くすべきなのです。それは、生産に要した資源やエネルギーに加え、廃棄するにもそれを運搬し燃やすための燃料、燃やした後の灰を処分する埋め立て地など、いわゆる環境負荷が高い社会なのですから。
一方で、投稿者が望ましいと考えている「引張型の社会」では、消費者はニーズ情報を発信し、生産者に生産を促します。当然の事ながら、モノが実際に市場に出て消費者の手元に届くまでには、時間が掛かりますので、消費者には忍耐を求めますが、一方で生産されたモノがムダになる割合は非常に低くなる筈なのです。情報化時代と言われ続けていますので、ニーズの発信方法と生産の方法と流通の方法を工夫すれば、待ち時間も最小限に留める事は十分可能でしょう。ムダの多い押し込み型社会から、上で提案した引張型社会への移行は、生産者と消費者双方の意識改革が不可欠ですので時間は掛かるのでしょうが、しかし絶対に成し遂げなければならない事でもあります。何故なら、世界野食糧生産状況はこのままでは決して持続可能ではなく、天候不順などで不作が続けば、世界規模での飢饉が起こる事は必至だからです。その一方で、何割もの食品廃棄を行っている現状は、決して看過できない問題でしょう。

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