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2019年7月31日 (水)

3632  寄生生物としての人間

人間が、食物連鎖の頂点に立っているのは間違いない話なのでしょうが、一方で見方を変えれば、人間こそ最低レベルの「寄生生物」であるとも言えるかも知れません。寄生生物というのは、宿主に寄生して、それに依存して生きる存在の事ですが、人間の場合の宿主は地球そのものであると見做す事が出来ます。
100%寄生生活を送る寄生生物もまれにはあるのでしょうが、一方では宿主にも何らかのメリットがある「共生関係」という例も多いのです。というより、寄生された事により宿主が殺されてしまわない限り、生き物は何らかの形で共生していると考えて差し支えないとも思うのです。共生には、相利共生、片利共生、片害共生、完全寄生などレベルがありますので、考えてみれば地球上に今繁栄している全ての生物は、何らかの形で他の生物と共生していると考えて間違いはないのです。猛獣と、その餌食になる動物達でさえ、片害共生的な例だとも言えるのでしょう。何故なら、猛獣は餌食となる動物達を狩って根絶やしにする事は絶対に無いからです。
しかし、人間だけは違います。その貪欲な欲望を満足させるためには、森林を焼き払って農地に替え、資源量が少ない鉱物でも掘り尽くすまで収奪を止めませんし、たとえ環境汚染が酷くなっても、自分達の健康被害が顕著にならない限り汚染物の排出を止める事はないからです。宿主である地球環境の悪化は、人類の数が急増するにつれて、最早後戻りが出来なくなるポイント(Point of no return)に至ったのではないかと危惧せざるを得ないのです。私たちが、100%の寄生から、より共生の形に近づくためには、一体どの様に行動すべきかを考えるにつけ途方に暮れざるを得ない自分に気が付きます。

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2019年7月30日 (火)

3631  夢と現実

子供や若い世代に夢を抱いて貰う事は重要です。しかしながら、無責任に見果てぬ夢を若い世代に吹聴する事には賛成できません。その代表例が、宇宙への夢でしょうか。例えば、ラッキーにも税金で宇宙ステーションに乗り込めた人達(宇宙飛行士)が小学生相手に、誰もが宇宙旅行が出来る時代が来る、あるいは月に人が居住する、あるいは火星に人類が到達できる、などという夢を誇大に宣伝し、それを掻き立てるべきではないと思うのです。人類は、宇宙旅行からは、殆ど何も得るものが無いからです。闇と真空の世界やその道中で体験される無重力からは何も生まれないのです。火星に到達するには、狭い宇宙船の中で、何年も過ごす強靭な精神力と体力が求められますが、最初に火星に近づいた、あるいは着陸した人類という名誉は手に出来るにしても、下手をすれば宇宙飛行士達の、精神の崩壊も覚悟しなければならないでしょう。
何も宇宙に夢を求めなくとも、この地球上には解決しなければならない問題が山積している筈なのです。その問題を解決する事に従事する事は、単に宇宙からの地球の姿を眺めて感動するためだけに、宇宙旅行をする事の何百倍も重要な行動でしょう。もちろん、人類が長年かけて貯め込んできた問題を、解決するには長い年月の地味で地道な努力が必要ですので、派手さはありません。しかし、誰かがそれを行わない限り、放置すればそれこそ取り返しのつかない環境悪化を招く事はかなり明白になってきたと言えるでしょう。
温暖化は、非常にゆっくりとした速度で進行する気象変動の例ですが、既に無視できない数の人達が夏季の高温のために亡くなるという時代に入ってしまっている事は銘記しなければならないでしょう。宇宙開発に従事する賢い人材があれば、プラスチックに変る物質だって開発出来るでしょうし、今起きているマイクロプラスチック問題だって解決の糸口も見つけられる筈なのです。必要な行動は、誰かが人類が取り組むべき活動に、優先順位を付けることなのです。当然、宇宙開発などはかなり低い優先順位になる筈なのです。そのために貴重な国家予算など使わずに、宇宙オタクが趣味程度に活動すれば良いのです。私たちは、この地球の地面(現実)を離れて、宇宙(夢)で暮らすことなどできないのです。

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2019年7月29日 (月)

3630 水環境3

水は、物理的に見ても非常に興味深い物質です。第一に、地球の普通に見られる環境で、固体(氷)、液体(水)、気体(水蒸気)の三態が存在する事です。これは、殆ど奇跡とも言える状況で、地球に多くの水が存在した事、地球が太陽から絶妙の位置を公転していて、平均気温が十数℃に維持されている事が相俟って、実現しているのです。
水は、一方ではほぼあらゆる物質を溶かし込める「溶媒」でもあるのです。例えば、海水中には、なんと「金(Gold)」のイオンさえ溶かし込まれているのです。
一方で、地球上で容易に観測できる温度範囲で、固体、液体、気体の三態に容易に移行できるのですが、重要なのはその「変態」の際に、かなりの量の熱を奪ったり、放出したりするのです。たとえば、水と氷の変態では、1㎏当り80kcalの凝固(融解)熱の授受がありますし、水と水蒸気の変態では、なんと540kcalもの気化熱(凝縮熱)が伴うのです。これは非常に重要な性質で、地球の環境温度を安定させる役割や、あるいは雲の発生や降雨(降雪)の原因にもなっているのです。この水の変態に伴っては、同時に気圧の変化ももたらしますので、水は気象全体に深く関わっているのです。
結局、水は私たちが住んでいる地球の気象を、変化には富んでいるものの、総じてマイルドにする重要な役割を演じていると同時に、水循環と同時に溶媒として物質循環、ひいてはエネルギー循環にも関わっていると言えるでしょう。つまりは、水環境無くしては、地球の生物圏も存在し得なかったとの結論になりそうです。

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2019年7月27日 (土)

3629 水環境2

水に関しては、まだまだ書き足りないので、追加して行きます。投稿者が、水で真っ先に想起するのは、実は「バーチャルウォータ」です。バーチャルウォータとは、製品特に食品を製造する際に使われる工業用水や灌漑水を指し、直接的には表面に現れない量の水を意味する言葉です。これは、入れ子になっていて、例えば牛肉1㎏を生産するのに、例えば穀物を10㎏飼料として与えたと仮定した場合、牛が直接飲む水はもちろん、穀物10㎏を収穫するまでに必要な灌漑水もカウントされるのです。ある試算では、牛肉1㎏を生産するに必要なバーチャルウォータは、その20000倍とも言われているのです。分かり易い単位に直すなら、水20トンに相当すると言う訳です。
アメリカ中西部で生産された牛肉には、その地域で生産される穀物を与えるので、その飼料の生産にはこの地域の地下に眠っている太古の地下水(=化石水)が使われます。この地域は極度の乾燥地帯(ステップ地帯)であり、化石水が無いと仮定すれば少しばかりの草しか生えない砂漠同様の地域なのです。農家は、先ず井戸を掘り、その井戸を中心としたコンパスの様な「ピボット」と呼ばれる灌漑装置を動かします。つまり、井戸からポンプアップした水をピボットの腕から噴射し、円形の農地を強制的に灌漑するわけです。しかし、化石水は殆ど補給されませんので、地下水位は年々低下し、現在では150mより更に低下していると言われているのです。一部の農場では、既にポンプの揚程を超えてしまい、地下水が得られなくなっている地域も増えているのです。
グーグルアースでこの地域をよく眺めてみると、確かに緑の円形農地群の中に、歯抜けの様に茶色いままの耕作放棄地らしき点々が散在している事に気が付きます。想像するに、これらの放棄農場は、まさに地下水が尽きてしまった場所か、あるいは過剰に灌漑水を散布した結果、地下水中のミネラル分が地上に堆積し結果、耕作が継続できなくなった場所と考えられるのです。これを農地における「塩害」と呼びます。これも人間の短慮の結果と言えるでしょう。

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2019年7月26日 (金)

3628 水環境

3627で言及した水環境の設計ですが、実は自然にとっても私たち人類にとっても、最重要と言っても良い程のイシューだと思っています。何故なら、水なしには如何なる植物も育ちませんし、植物の生えない場所にはそれに依存する昆虫や動物たちも寄り付かないでしょう。私たちは、いわゆる世界の各地に広がる砂漠地帯で、その実例を確認する事が出来る筈です。しかし、多くの砂漠地帯も、時代を遡ると肥沃な場所であった事が分かるでしょう。いわゆる4大文明等の文明が栄えるには、その地域は川の水量が豊富で、川が作る肥沃な氾濫原があり、森林や牧草地帯が広がっている必要もあるからです。
しかし、今はそれらの文明が栄えたエリアの多くが砂漠地帯になっているのは偶然ではないでしょう。気象の変動によって、それらのエリアの降雨量が極端に減ってしまったのが、直接的な理由でしょう。とはいえ、それは実は人間がもたらした浅慮の結果であるとも言えるのです。それは、文明の反映と共に拡大した水需要に対し、水環境の設計が脆弱過ぎた結果である事が明白だからです。水は、直接人間が飲んだり、作物に灌漑する以外にも、土壌中に常に存在する「土壌水」のレベルも、文明周辺の植物相を決定するには重要です。川や湿地、水辺の乾燥地、平野、山岳地帯などに生える植生は、地形の他に土壌水のレベルが大きく関わっているのです。初期に湿地である場所も、川が土砂を堆積すればやがて乾燥が進んで、アシやヨシが密生し、更に乾燥が進むとササが繁茂し、やがて灌木や高木が進出してきて、森に変るでしょう。
しかし、そこに人間が住み始め、木を切り倒し、火を放って農業を始めると、土壌の乾燥化と貧栄養化が進み、やがてそこは砂漠に変って行くでしょう。今、砂漠となっている多くの地域では、人間による負の環境サイクルによって、肥沃な緑地が失われてしまったと考えられます。その実例は、実は現代でも目にする事が出来ます。過剰な農業灌漑の結果としての、いわゆる塩害が出ている地域がその例に当ります。具体的には、アメリカの中西部やアラル海沿岸地域などが例示できます。前者では、化石水と呼ばれる地下水を使い過ぎ、後者のアラル海ではそこに流れ込む川の水を農業灌漑に使い過ぎた結果、湖が干上がり周辺地域が砂漠化してしまったのでした。人間の愚行のタネは尽きません。

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2019年7月25日 (木)

3627 環境のグラデーション2

環境のグラデーションが重要な理由は、他にもあります。それは生物の多様性に関わる話になります。小惑星の衝突に起因すると言われる、太古の種の大絶滅後。生き残った哺乳類や鳥類や昆虫が、多様に進化した植物と共に、現在見られる様に溢れるばかりの多様性を以って反映してきた背景には、この環境のグラデーションがあるのは間違いないでしょう。
例えば鳥類ですが、ダーウィンのガラパゴス諸島における観察にも記録されてるフィンチが、僅かばかり離れた島毎に、独自の形態の進化を遂げている事実は象徴的でしょう。身近に見られるトンボだって、生息場所の環境に応じて、イトトンボやシオカラトンボやアキアカネやオニヤンマやショウジョウトンボなど多様な形態や大きさに「分化」してきたでしょう。もちろん、その背景には水環境やそこに繁茂している多様な植物相があるのですが、一方で護岸に囲まれた池や川があるだけの都市近郊の単調な環境を想像するなら、これほど多様な動植物相は発現しないだろう事は容易に想像できます。
つまり、森であるかさもなくば都市であるといった二分法は生物の多様性を「殺す」最悪の選択だと言えるのです。理想は、自然林⇒混交林⇒里山⇒棚田⇒田畑⇒郊外⇒都市といった具合に、環境に多様なグラデーションを設けるべきなのです。しかも、その中では「水環境」も上手く設計する必要もあると思うのです。水環境は、即植物相を決定しますので、これを誤ると、例えば都市近郊に見られる様な手の付けようがない竹林やササ原や藪といった、好ましくないしかも単調な環境が出現してしまうのです。単調な環境には、単調な動植物相しか現れず、もちろん人にとっても暮らしにくい環境になってしまうでしょう。環境のグラデーションこそ、生物多用性の揺り篭なのです。

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2019年7月24日 (水)

3626  環境のグラデーション

長くブログを書いていると、以前に書いた事を忘れて、つい似たようなあるいは同じタイトルを持ち出したりする様です。このタイトルも、かつて付けた様な気もします。しかし、書き出してしまうと、筆(キーボード)の勢いで、違った見方をするとも思うので、気にしないで書き進めます。さて、環境のグラデーションに関してですが、天然の自然環境(日本では殆ど見られません)では、環境は徐々に変化しているのに対し、人工の環境ではそれがスパッと劇的に変化しているという違いがあると思うのです。
具体的に言えば、天然の森林があるのに対し、それを伐採してスギやヒノキといった人工林の境界は、線を引いた様にくっきりと分かれているでしょう。更に言えば、かなり改変されたとはいえ、まだ自然が残っている郊外の森林と、コンクリートとアスファルトに覆われた都市との間には、それ以上に明瞭な境界が出来ている筈です。もちろん、賢い先人は急激に変化する環境は好ましくない事を知っていたので、森林と人が住む地域との間に緩衝帯を設けてもいました。それが里山です。つまり、経験的に里山を設ける事によって、奥山、里山、里、街という様に、好ましい環境のグラデーションを実現していたのです。その結果、奥山に棲んでいた居た大型動物たちも、比較的見通しの良い里山までは入り込まず、人間と動物との棲み分けが実現していたのでした。
しかし、現在はどうでしょう。人手が入らずに放置された里山は、すっかり森林化した結果イノシシやクマやシカやサルたちが、人が住む地域のすぐそばまで近づく様になってしまった訳です。つまり、現代社会(特に田舎)では、少子高齢化の結果、環境のグラデーションを維持する人手も無くなったため、自然が人間の住む里まで侵入する様になってしまったと考えるべきでしょう。ここで言いたいのは、環境保全とは基本的にはまだ僅かに残っている天然自然を守ろうとするのは当然ですが、可能な限り環境のグラデーションを維持する事もまた環境保全の重要な活動だと思うのです。都市と自然が、明瞭な境を接して存在すること自体がどだい無理な事なのです。環境は水や大気や土壌の移動を通じて密接に繋がっていますので、境界や壁で別々の環境同士を隔離する事が元々無理な相談なのです。結局、天然自然を守るためには、十分な幅の緩衝帯を設けて、グラデーションを作る努力が欠かせないとの結論になります。

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2019年7月23日 (火)

3625 徒然に

北海道の山巡りから戻って、投稿再開です。道中ラジオを通して耳にしたニュースはといえば、京都での悲惨な事件と選挙騒ぎなどでした。前者について言えば、何故かベトナム戦争で使われた「ナパーム弾」をおもいだしました。ナパーム弾とは、ゲル状の石油燃料を使った爆弾ですが、爆発すると発火して高温になったゲルが飛び散り、その飛沫をいくつか浴びるだけで命を奪う、まさに悪魔の兵器なのです。これを、いわゆるゲリラが潜むと思われる森林に爆撃機を使ってばら撒く訳です。森林は焦土と化し、多くの人々は焼け死ぬのです。この兵器は、安価な殺戮兵器として発明され、朝鮮戦争やベトナム戦争で、それこそ天文学的な量が使われたのでした。今回の事件でも、数十リットルものガソリンが、同じ目的で建物の中で爆発させられたのでした。灯油なら、たぶん多くの人が脱出する時間が稼げた筈ですが、ガソリンは爆発的に燃焼するため、多くの犠牲者を出す事態に至ったのでしょう。しかし、許すことが出来ないのは、ナパーム弾にせよ、ガソリン爆弾にせよ、たとえ幸いにも直撃が避けられたとしても、その被害を受けた人々は火傷という一生消えない被害の傷跡を体に刻みつけられるという悲惨さなのです。これは、過去の原爆被害にも通ずる悲しい、しかし許すことの出来ない残虐行為だと言えるでしょう
後者に関してのニュースでは、たぶん多くの人々が冷ややかに眺めていた事でしょう。どの国にも、言わゆる「政局」という事態が起こりますが、もしそれが国民を置き去りにして進む場合、私たちは無関心に陥らざるを得ないでしょう。問題は「論点」でしょう。政治(マツリゴト)が何のために存在し、それは一体誰のためなのかを考えれば、自然に政治が論ずるべき点が浮上してくる筈なのです。リーダーがその椅子に何年間座り続けているか、それが憲政史上最長か否か等は、無論政治家の力量には何の関係も無い事でしょうし、それが政治の安定などには繋がらない事は明白です。
そうではなくて、政治家が考えるべきは現世代の利益ではなく、ましてや党離党略など持っての他で、子や孫世代の幸福、更に言えば国家百年の計を論ずるべきだと思うのです。その意味で私たちは、全てのマツリゴトの決定を、「7世代後の子孫の幸福を考えて決める」ネイティブアメリカン(かつてはインディアンと呼ばれていました)の部族の習わしにこそ、学ぶべきだと思う今日この頃ではあります。


 

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2019年7月 8日 (月)

3624 休稿

今夕の青森発のフェリーで北海道への山遠征に出かけますので、しばらく休稿です。

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2019年7月 7日 (日)

3623  後戻りの方法4

後戻りの方法に「惰力走行」という考えもありそうです。私たちは、戦後や高度成長期を通じて、それこそ寝食を忘れて努力を重ね、経済成長とそれに伴う生産・消費の拡大、並びにインフラの充実にまい進してきました。車で言えば、十分な加速の後に、やや十分過ぎる巡航速度に達したと考えても良いでしょう。環境負荷の高い社会の仕組みを、負荷のより小さい社会に後戻りさせるためには、ここらでアクセルを緩めた惰力走行も有効な手段だと思うのです。
惰力走行では、速度が徐々に低下するでしょう。経済や社会の仕組みが止まってしまう程速度を下げる必要はないでしょうが、少なくとも余分な空気抵抗を受けない程度までの減速には大きな意味があるでしょう。車で言えば、高速道で100㎞/時以上の速度で走るのではなく、例えば80㎞/時程度の巡航速度に下げる事を意味します。社会の動きに投影させるなら、生産や消費の勢いを緩めると言う行動がこれに当たるでしょう。食生活で言えば、食べたい時に、食べたいものを、食べたいだけ食べ、3割もの食べ残しを廃棄する生活スタイルではなく、必要な栄養を得ながら、生活習慣病を抑制できる食生活を目指すべきなのです。
これを、一般的な言葉で表現するなら、欲望を抑えた、節制の効いた生活をこそ目指すべきだと言いたいのです。輸送用トラックを高速道で100㎞/時以上速度で疾走させる事を前提にした輸送システムとするのではなく、80㎞/時で十分であるシステムをデザインすれば良いのです。食べ過ぎからの生活習慣病を増やし、医療費を徒に浪費する社会ではなく、時々は計画的な絶食も織り交ぜた食生活を目指すべきなのです。この絶食の期間こそ、食生活における「惰力走行」に該当するのです。
人口減少(人口増加における惰力走行期間)に入ったこの国で、相変わらずの大量生産を続けて、低価格で大量に売り捌くのではなく、時々は計画的な生産調整を行い、適正な在庫量や流通量に維持出来れば、モノは適正な値段で売れ、適正な利益も確保できるでしょう。消費者は、たまには店頭に商品が無くなり、入荷までに何日か待たなければならない事も甘んじて受け入れるべきでしょう。それによって、経済活動や社会の「惰力走行」も可能になってくる筈なのです。

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2019年7月 5日 (金)

3622  後戻りの方法3

山登りの喩えの稿で、私たちは(先進国は)多くの近代的装備(科学技術)を使って山登り(工業化、近代化、都市化)を続けてきたと書きました。では、今度は山を下る(環境負荷を減らす)のに、やはり近代的な科学技術を使えば良いではないか、という議論を始める人達が居ます。しかし、考えてみなければならないのは、科学技術を使って装備を作るにも、それを使うにも資源やエネルギーを大量に消費すると言う点でしょう。その最たる例が、原子力エネルギーでしょうか。この国は、化石燃料を減らすというお題目で原発を50基も作ってしまった訳ですが、原発を作るのにどれだけの資材やエネルギー(=お金でもありますが)を注ぎ込んだか、あるいは今「副一」を廃炉にするために、日々何千人の人達が働いているかを想像するだけで、今の文明の環境負荷を科学技術を使って減ずるのが如何に困難であるか理解できる筈です。
では私たちはどう行動すべきですが、ベストな方法は多分「後ずさり」ではないかと思っています。山を下るには登りよりは確かに体力(エネルギー)の消耗は少なくなるでしょう。しかし、下りには滑落やスリップによる転倒など、登りには無かったリスクも多いのです。ハシゴの昇降も同様でしょう。登りは、両手を使ってハシゴの縦棒を握っていますので、落下のリスクは小さいのですが、一方下りで体を逆向きに降りると、見晴らしは良いのですが、両手でしっかりと握るのが難しくなり、落下を防ぐのは難しくなります。一方、登りと同じ姿勢で下る場合、足元は見づらくはなりますが、ステップを確認しながら慎重に一歩一歩下るのであれば、いざという時には両手で体をサポートできますので、リスクは小さくなるでしょう。この降り方を「後ずさり」と呼ぶのです。
環境の負荷を下げるのも同様のアプローチになるでしょう。先ずは、資源やエネルギーの使用量を減らす「ケチケチ作戦」で可能な限り負荷を減らします。しかし、例えば化石エネルギーを減らす目的で、「代替エネルギー」を持ち出すに当たっては慎重でなければなりません。代替エネルギーも新たな環境負荷を生み出す可能性も否定できないからです。原発の廃炉の問題は指摘しましたが、今問題になりかけているのは、寿命を迎え役目を終えた太陽光発電発電パネルの始末です。ガラス質の基材とシリコン薄膜、銅線や裏張り、アルミのフレームなどの集合体であるパネルは、簡単に分離したりリサイクルしたり出来ない厄介者なのです。科学技術で作ったモノには必ず寿命があり、それを廃棄するにもそれなりの環境負荷が発生するのです。続きます。

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2019年7月 4日 (木)

3621 後戻りの方法2

インフラの後戻りの次は、輸送システムの後戻りです。古の時代長距離輸送の花形は帆船でした。この国では、北前船、西洋の国際貿易の花形は、3本マストのスクーナーでしょうか。この、超高速の帆船は、喜望峰回りでもヨーロッパとインド間を2週間ほどで航海したと言われています。現代の船比べてもその半分ほどのスピードは出ていた勘定です。
陸上では、大量輸送時代の嚆矢は鉄道輸送でしょうか。鉄道は、ツルツルの平滑な軌道(レール)上を、ピカピカに磨かれた車輪が転がりますので、荷車や自動車が道路を走る場合に比べて、転がり抵抗が一桁低い、優れものの省エネ輸送システムだと言えます。実際、正確なデータでも単位貨物当りで比較すると、トラック輸送のエネルギーを100とした場合、鉄道は10のエネルギーで済んでしまうのです。とは言いながら、道路さえ作ればどこへでのいけるトラック輸送に、鉄道輸送はかなり淘汰されてしまった様です。
航空機について言えば、比較的抵抗の低い空中を飛ぶ訳ですから、飛行の際の抵抗によるロスは少ないのですが、なにしろ金属で出来た機体を空中に浮かべなければならないので、余分なエネルギーを費やすため、たとえば陸上の大量輸送システムであるバス輸送に比べても、乗客・キロ当たりのエネルギーは数倍になる様です。
船、鉄道、自動車、飛行機と、私たちはなにしろ高速で便利な輸送手段を求め続けてきた訳ですが、ここらでその無茶苦茶な歩みにもブレーキを掛ける必要がありそうです。一番簡単な方法は、同じ輸送手段であっても減速する事です。特に、時速で言えば100㎞/時に近づくにつれて、走行抵抗に占める空気抵抗が支配的になってきますので、例えば高速道路の制限速度を10㎞/時程度減速させるだけでも、5-10%程度の省エネが可能となる筈です。
更に時代を巻き戻すなら、例えば少し前に持て囃された「モーダルシフト」というアプローチもあるでしょう。フェリーと、荷台だけ切り離せるトラックを組み合わせて、遠距離のトラック輸送を海上輸送に切り替えるシステムです。このアプローチでは、夜間の高速道からかなりの先ずのトラック便が消えるでしょう。つまり、地方の港でフェリーに積まれた荷台だけのトラック便は、翌朝東京のフェリーターミナルで受け取られ、そのままトレーラヘッドに牽引されるか、特殊な運転台明けのトラックに載せられて都内の配送に回される事になります。高速道路のメンテナンスやトラックの燃料費、更に言えば大気の汚染や騒音下などが随分減らせる筈なのです。後戻りは単に不便な社会に逆戻りするだけではなく、工夫次第では他方面の改善も可能なのです。

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2019年7月 3日 (水)

3620  後戻りの方法

ここからしばらくは、数回の「比喩」で書いた最早放置できない現状に対して、少しでもそれを逆転させリスクを減らす方法について考えてみます。初回は手始めとしてインフラに関して考えてみます。
インフラは、近代社会では一貫して(後戻りなく)拡充されてきました。この国だけでも、水道管や下水管だけでも、地球を何周もするだけの長さに敷設されてもいます。しかし、考えてみなければならないのはその維持やメンテナンスでしょう。形あるものは必ず劣化してしまいます。岩の様に頑丈な鉄筋コンクリートでさえ、寿命は50年程度とされています。劣化するインフラは、補修するか場合によっては作り替えなければならないでしょう。その際考えなければならないのは、10年後50年後の姿でしょう。例えば、高度成長期に建てられた大規模団地を考えてみると、既に空き部屋も目立ち、住人の高齢化も進んでいる筈です。であるならば、団地とインフラの縮小化を考えても良いと思うのです。狭い間取りだった古い団地を、例えば二戸一に改造・改装し、相対的に古くなってしまった棟は解体すべきでしょう。つまり、集合団地や住宅団地の集約化・コンパクト化です。それによって、インフラの規模も縮小し、メンテナンスもやや楽になるでしょう。
田舎で、車で郊外を走っている時に目にするのは、高規格の農道や農免道路です。どこかの観光地につながっている場合は別にして、その交通量も疎らです。しかし、道路があって、地震や水害も多いこの国では、道路もドンドン劣化が進むのです。道路は上下にうねり、舗装はひび割れ、橋の袂には大きな段差が出来てしまいます。水害で、盛土は削られ、法面も崩れてくるでしょう。そうであるなら、大規模な補修のついでに「減幅工事」を考えても良いと思うのです。無理に盛土をした箇所は崩れやすいので、谷側を削って細くします。たまに来る対向車とすれ違いが出来れば良いので、部分的には1車線でも十分でしょう。
いずれにしても、インフラに補修などのために手を入れる際には、将来を見越して縮小する方向に改修するのです。これは、住宅にも言える事で、内装に手を入れるついでに「減築」して、老夫婦が住みやすいサイズにすれば良いのです。建物やインフラを補修するに当たっては、単純な原状回復ではなく、クオリティを上げると同時に思い切ったコンパクト化を図る必要があると思うのです。後戻りの方法の一つとして・・・。

 

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2019年7月 2日 (火)

3619 比喩4

何故、現代の世相を何かに喩える必要があるかといえば、それは今の状況が既に「手遅れ状態」なのではないかとの危機感があるからです。何かの事態が進行し、後戻りできない点をPONR(Point of no return)と呼ぶ事がありますが、コト環境問題に限って言えば私たちは、既にこのPONRをかなりの程度踏み越していると考えるしかないと思うのです。
例えば、温暖化に伴って生じている気象の激烈化に関して言えば、少し前から天気予報で「線状降雨帯」と言う言葉を頻繁に聞く様になったのに気が付きます。これは、強い降雨をもたらす積乱雲が列状になって連なり、それが同じ地域に次々に流れ込んで、記録的な豪雨となる現象で、今九州を襲っている様に東西方向に連なる場合だけではなく、少し前に広島県を襲ったケースの様に南北に連なる場合もある様なのです。いずれにしても、この現象が頻発するのは、雲を生み出す海洋の水温がある限度を超えて上昇している事に原因があると思われます。雲は、海水が蒸発して水蒸気になり、それが上空で凝縮して生ずる現象ですので、海水温の上昇で蒸発量が増えるのは、小学生でも理解できる筈です。
では、どの程度の蒸発量になれば、線状降雨帯が発生するのかに関して言えば、実のところ気象学でも正確に解明されている訳ではなさそうです。というのも、海水の蒸発と積乱雲の連続的な発生との間に、はっきりとした因果関係がまだ見つかっていない事が原因だと思われます。蒸発が起こってから、雲が生まれる事の間には間違いない因果関係がありますが、それが線状に並び連続した降雨を起こすためには、雲を運ぶ風(気流)も重要な役割を果たすでしょう。例えば、前線は暖かい空気と比較的冷たい空気との接触部分であるため、それに沿って雲が発生し、整列するのは間違いないでしょう。しかし、ではどの様な気象条件が揃えば前線が生ずるのかについて言えば、大型の気象コンピュータでも十分には予測が出来ていないのが現状でしょう。
もし、正確な前線や線状降雨帯の予測が可能であるなら、近年の豪雨による被害のかなりの部分は未然に防止出来た筈なのです。一時期マスコミが、これらの狭い地域に集中する豪雨を「ゲリラ豪雨」と呼んだ事がありましたが、まさにゲリラ攻撃は「神出鬼没」である事が本質ですが、ネガティブな意味ではありますが、この比喩は正鵠を射ているとしか言えません。世界の政局が予測不可能になりつつあることと、気象現象のPONRを踏み越してしまった事に何かの因果関係があるのかどうかは知りませんが、投稿者には何か関係がありそうな「悪い予感」はあります。

 

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2019年7月 1日 (月)

3618  比喩3

現代の社会や世相を航空機に喩えたのは、現代の、特に大都市における生活が、自然(地面)から完全に乖離し、浮いている様に見えているからに他なりません。都市は、全てが人工的なインフラの上に構築されていて、殆どの地面も建物や舗装道路に覆い尽くされていますので、自然が見えないのです。自然ぽく作られている公園でさえ、全て人工物で覆われ、そこに申し訳程度に植えられている植栽さえ、その土地に自生していたものでなく、他の場所で育ててから植えられた、その土地にとっての外来種になっているのです。
さて、投稿者のもう一つの現代社会の比喩としては、お祭りに喩えたものがあり、気に入っています。それは、現代社会の世相は、もしかして高度成長以降、長くながく続いている「お祭り」なのではないかという素朴な疑問から生れました。投稿者が子供の頃、戦後の延長で貧しい時代でしたが、田舎でしたので食べ物は、海のものも山のものも一応不自由なく手に入りました。一方、甘いものなどいわゆる嗜好品は、親戚からお土産を貰ったり、遠足などの行事でもない限り、口に入る事は殆どありませんでした。甘いものといって思い出すのは、正月のお汁粉や彼岸の際の牡丹餅程度です。
現代社会ではどうでしょう。スーパーを覗けば、嗜好品が山と積まれているのに改めて驚きます。まるで、毎日が「お祭り」であるかのようにです。つまり、取り分けこの国は途中に失われた20年が挟まっていながらも、高度成長期以降長い期間に亘って、お祭り状態が続いているとも言えそうなのです。歌の文句ではありませんが、祭りが終わった後のうら寂しさは、子供の頃も何度も感じたものでした。この国が人口減少の局面に入って十数年経過しましたが、政府は「祭りの後宣言」も出来ないので、さながら経済の拡大が続いていて、景気も「悪くはない」と言い張っていますが、実体は果たしてどうなのでしょう。
私たちは、ソロソロ「祭りの後モード」への準備を始めなくてはならないと思うのです。そのモードに入るためには、先ずは騒ぎ食べ散らかした周辺の後片付けから始めなければならないでしょう。祭りの行事に使った衣装は洗濯し、道具類もきれいに掃除して、格納場所に戻さなければなりません。その後に待っているのは、「日常生活」に他なりません。私たちは、もしかして「必要かつ十分な」日常生活のレベルを改めて定義し、そこに戻るためのトレーニングを始めなければなりません。それは、トレーニングというより、もはやリハビリに近いものかも知れませんが・・・。

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