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2019年8月29日 (木)

3651  雑草の戦略

I垣栄洋の「身近な雑草の愉快な生きかた」と言う本がたまらなく面白かったのです。道端で普通に見かける雑草には、もちろん夫々に名前が付けられていますが、ネーミングも面白いのですが、その生き方が夫々に興味深いのです。今普通に見かける雑草は、在来種も帰化種も夫々熾烈な生存競争を経て、生き残ったものばかりでしょう。それらは、例えば道端で踏みつけられることに耐えて生き延びて来たもの、信じられないくらい沢山のタネを付けてテリトリーを広げて来たもの、地下茎を深く伸ばして地上部が刈り取られてもすぐ芽を出すもの、在来種より背丈を高く伸ばし太陽光を独占してしまうもの、他の植物に絡み付いて締め殺してしまうもの、根から有毒な物質を出して他の植物を遠ざけてしまうもの、受粉のために昆虫を徹底的に利用するものなどなど、全ての雑草が今その場所に生えているのは、それなりの戦略が成功した結果だと言えます。
雑草たちは、人間が品種改良した作物とは異なり、与えられた環境に順応し、加えて巧みな戦略の下にそれなりの進化も織り込み、テリトリーを広げて来たわけですが、その中にはタンポポの様に在来種と帰化種との交雑も含まれている様です。著者は、それらの雑草の生き方を、人間社会に投影して見せて、ユニークな生き方を浮き上がらせているのです。その比喩は、古の万葉集の引用やサッカーの試合、アニメや芸能界の出来事まで、多岐に亘っているので読み飽きません。
振り返って、人間と環境の関係を眺めて見ると、雑草(植物)と環境の相互(互恵)作用の関係ではなく、人間が一方的に環境を利用し、環境を勝手に改変してしまう歴史だったと言えそうです。後戻りが出来ない形の改変は、結局ブーメランとなって人間を痛めつける結果になる事は、これまでの生物の絶滅や公害や鉱害やゴミ問題や気候変動と言う事実が雄弁に物語っている筈です。食物連鎖の頂点に立っている人間こそが、自分達が環境にばら撒いてしまった「毒」が濃縮する被検体である事に私たちは早く気付くべきなのです。もしかすると、アレルギーやガンや生活習慣病や難病と呼ばれる病気のかなりの部分が、環境(悪化)由来かも知れないのです。環境や他の競合相手とも共存し、環境変化に順応してしぶとく生き延びてきた雑草や植物に、私たちはもっと学ぶ必要がありそうです。

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2019年8月28日 (水)

3650  一応の区切り

55歳で完全なフリーランスになった2006年の夏に、暇だったので何気なく始めたブログですが、始めるに当たっては、兎にも角にも「毎日1稿」はアップしようと決めていました。振り返って書き溜めた原稿を眺めてみると、初期には、1日に2稿書いていた日もあった様です。累計3650稿という事は、毎日1稿をアップして365日/年書き続けると、丸10年間アップし続けたという勘定になります。当然の事ながら、仕事や旅行でアップ出来ない日も多かったので、実際には丸13年を要した事にはなりました。
このブログは、「環境ブログ」という事で書き出しましたが、もちろんここまでで環境問題に関して書き尽くしたとは思っていません。何故なら「環境」とは、宇宙を含む「森羅万象」を抱合するのであり、神でもない限りそれら全てを論ずる事は元々無理な話だからです。それでも、環境というKWで凡人として考えられる限りの面から論じてはきたつもりでした。振り返って自分の投稿を読み返すと、初期はかなり大上段に振りかぶってはいたものの、我ながらなかなか「良い事」を書いていたとは思います。
最近はといえば、どちらかと言えば随筆的な投稿が多くなってしまった様ではあります。つまりは、凡人の頭で考える「環境ネタ」が尽きてしまった様な気もするのです。もちろん、一応の区切りの投稿数に達したとはいえ、ここで投稿を止める訳ではありません。書き残すべき事を思い付いた場合には随時アップしていく事とします。ただ、投稿(更新)の頻度は大分少なくなるとは思ってます。
さて、PCでブログを開いてみると左側に「バックナンバー」が表示されますが、その文字をクリックすると、2006年8月からの全てのバックナンバーが月別に表示されます。それをさらに開いて拾い読みしてみると、特に初期には、我ながら環境問題を熟考しながら力を入れて書いていると振り返っています。(スマホの場合には、上のカテゴリをタップし、アーカイブを開くと見られます)機会があれば、何らかの形で投稿を編集し、自費出版してみたいとは思っていますが、先立つものを準備出来るかどうか、自分の中にそのパワーが残っているか全く自信がありません。たまたま、このブログを読んでいただいた方々には、時間が許せば是非バックナンバーも読んでいただきたいと思います。但し、合計3650題もありますので、全部読むにはかなりの時間をいただく事にはなります。ある人が最近それをやってくれた様ですが、約3か月掛かったと教えてくれました。
実は、この環境ブログとしては1,000題のポイントで一応の区切りをつけており、1,001以降は「随筆ブログ」としてやや趣が変化しています。1,000題直前の十数題は、環境ブログとしてのまとめとなっていますので、2009年の4月の投稿を眺めていただくだけでも、このブログの主旨がある程度伝わるのではないかと思っています。蛇足ですが・・・。

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2019年8月27日 (火)

3649  環境学は総合学

投稿者は、50歳過ぎに早期退職し、やや自由時間が取れる企業に再就職する中で、改めて放送大学の大学院の門を叩き、環境学を学びました。しかし、一口に環境学と言っても、その間口は広く、森羅万象と言っても間違いではないでしょう。地球が今の姿を見せている事を確認するには、地球環境科学や地学、気象学、海洋学などを学ぶ必要があります。地球環境をかなりの程度支配しているのは、海洋や地上で暮らす各種の生物(微生物、植物、昆虫、動物など)ですが、それを学ぶには夫々の分野の知見を学ぶ必要もあります。
地球上で起こる気象などの諸現象を理解するには、いわゆる自然科学と呼ばれる各種の学問もある程度知っていなければなりませんし、人間が取る行動を理解し、予測するためには心理学や社会学もチェックしてなければならないでしょう。それらを手当たり次第に学ぶ中で、元技術屋として、投稿者に最も欠けていた知識は、実は生物に関する知識である事を思い知らされ田のでした。植物や昆虫や動物、ましてや微生物などは、投稿者の中ではほぼ中学時代の理科の知識で留まっていたのです。
しかし、放送大学の十数冊のテキストを勉強しながら、並行して国内外で進んでいた環境保全の取組み例を目撃しながら知識の肉づけを行ったのでした。例えば、ドイツにおける、風力や太陽光などの再生可能型エネルギーの普及への強力な意志、フィンランドやオーストリアにおけるバイオマスのエネルギー利用の拡大、インドや中国など発展途上国におけるバイオガス活用の意外との言える進歩、その他バイオ燃料などの実用例を見るにつけ、1周遅れどころか、下手をすれば2周遅れの日本の状況がもどかしく思えたのでした。
環境学が総合学である所以は、単に植物や微生物の何たるかを知るだけでは不十分で、それを利用するための科学・技術、仕組みを継続できる様な経済学の裏付け、新しい仕組みを社会に行きわたらせるための社会学の補強、更に言えばエネルギー密度の低い再エネを利用するための「運ばない工夫」と言うロジスティクス、激甚化する気候からの災害を緩和するための防災学などなど、数えあげればキリの無い知識を総合しなければ何も進まない点だと言えます。〇〇だけ、と言う「偉い」が間口が狭い学者が何人集まっても、環境悪化に対応する策は殆ど何も生み出せないでしょう。総合的な知識を利用して、環境負荷を小さくするに役立つ仕組みを生み出すのは、決して紙の上の学問や知識などではなく幅広い「知恵」なのです。

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2019年8月26日 (月)

3648  量的に正しくない技術

3647で言及した時間の問題に加え、量の問題もあります。量的に正しくない技術とは、技術それ自体で直接環境を悪化させるものではないにしても、その量が大量になるにつれて、害悪を与え始める技術を指す投稿者の定義です。たとえば、古代においては石油は地下から自然に滲み出てくるものであり、自然に着火したものは「燃える水」として、信仰の対象にさえなったものでしたが、それを大量に掘り出して燃料やプラスチックの素材として大量に消費する様になって、その消費は「悪」と見做される様になったのです。
人類は、資源を利用する事に夢中になり過ぎ、それを消費した後の始末に関しては、殆ど考えてこなかったのです。その結果、大気中に放出されるCO2などの温暖化効果ガスもモノを消費した結果のプラスチックごみも、燃やされて更なるCO2を増やし、また埋立てられたり、海洋投棄されたりしてごみ公害を生んだりしているのです。その結果、例えば海で死んだ魚やクジラなどの海洋生物を解剖してみると、100%の確率で消化器やエラなどからプラスチックごみが見つかるのです。
原発も同様です。実験室レベルの放射性廃棄物は、深い穴でも掘って、その中に溜めておけば良いでしょう。しかし、既に原発でウランを燃やして(核分裂させて)生まれてしまった、プルトニウムや放射性廃棄物は、大量であるが故に安全に保管・処理する技術も場所も確立されてはいないのです。何しろ、放射性廃棄物の放射能が半分になるのに(半減期に)何万年も掛かる物質があるくらいですから、時間により解決を待つ訳にもいかないのです。ましてや、生まれてしまった放射能を消したり、中和したりする技術は未だ発明されていません。和たちに出来る事と言えば、自分達の身を犠牲にしてまで放射能の利用に身を捧げたキュリー夫妻やそれを世界のパワーを握るため、巨費と多数の優秀な科学者・技術者を投じて、原爆や原子力潜水艦のエネルギー源として原子炉を実用化したB国を恨むしかないのです。
現代の世の中を見回してみると、この様な「量的に正しくない技術」に満ち溢れていると言わざるを得ません。元技術屋として、それらの技術を拡大するため、ホンの端っこだけですがその先棒を担いで来た身としては忸怩たる思いしかありません。

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2019年8月25日 (日)

3647 時間による善悪逆転

時間によって善悪など逆転する筈がないとの突っ込みが来そうですが、それはあり得るのです。取り分け環境に関しては、それは真理だと言うしかありません。自然には、環境を維持する力があり、事実地球は度々の大規模な地殻変動や小惑星の衝突等の地球規模の災害に遭いながらも、現在見る様に多様な環境と生物を育んできたではありませんか。それは、とりもなおさず自然の復元力の為せるワザでしょう。
しかし、私たち人類はその自然の復元力を超えるスピードで、自然環境に負荷を与え続けてしまったのです。スピード(速度)は時間の関数です。もし、環境負荷が自然が許容する程の長い時間を掛けて与えられるならば、環境の復元力が勝り変化は小さい筈です。しかし、ある限界を超えると自然が環境負荷を抑える事が出来なくなり、環境が変化(悪化)してくるのです。
目に見える環境の変化として「気候」を考えてみましょう。もちろん、日々目にする気象に比べれば、長いレンジで見る気候の変化は分かりにくいのも事実です。しかし、統計的に処理してみれば、近年(残業革命以降)の気候変動は明白です。取り分け、石油の大量消費時代に入った1950年代以降の気候変動(激甚化)は、日々の気象としても実感できるほどになってしまいました。
例えば異常な高温日(猛暑日)や洪水や土砂崩れを伴う様な集中豪雨の頻出です。例えば、台風やハリケーンなどの熱帯性低気圧の大型化、超低気圧化です。また、例えば北極圏における数十℃にも及ぶ温暖化です。北極海沿岸地域では、冬期の気温がこの50年間で40℃程度も上昇したと報告されているのです。もちろん、それでも冬場は零下数十℃ではありますが、北極海の浮氷面積や凍土の厚みは年々減少を続けているのです。
私たちに出来る事は、可能な限り経済活動を減速させて、同じ負荷を環境に与える時間を引き延ばさなければならないしょう。いずれにしても、ここまで地球の人口が増えてしまっては、いくら質素な生活を送ったとしても、悪行、即ち環境に対する負荷を増やし続ける事にはなります。私たちに出来る事は、環境が牙を剥いて私たちに襲いかかってくるまでの時間を、出来るだけ引き延ばすことだけの様です。環境人間として投稿者は日々無力感に苛まれています。

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2019年8月24日 (土)

3646  自然とのかい離

3645で述べた様に、私たちは森(自然)からドンドン離れながら、化石燃料に頼って今の文明を栄えさせてきたという事でしょう。それを絵として描き表わすとすれば、人間が作った人口環境(例えば都市空間)と自然環境の間がくっきりと分かれている構図になるでしょう。少し昔に遡れば、それはシームレスで繋がっていた筈です。環境がグラデーションを描きながら、連続しているイメージの構図です。例えば、都市と里との間には農地が広がり、里と森林の間は里山で繋がっているイメージでしょうか。つまり、人々は日常的に自然に分け入って暮らしていた訳です。
しかし、今私たちは都市と言う完全に人工的な環境を作り、その中だけで暮らしているのです。自然に触れるためには、登山などで分け入るのですが、それとて誰かが作ってくれた「登山道」を歩くだけの限定的な経験に過ぎないとも思うのです。そんなアウトドアの趣味すらない多くの人達は、人生の殆どを人工環境で暮らす事になるのでしょう。Y老孟司は、直線で構成された都市空間を「人間の脳が作った」と表現しましたが、そこで生まれ育った人達は、自由曲線(面)で構成されている自然の造形物(例えばヘビなどです)を指して、気持ちが悪いと感ずるのです。
自然と乖離する距離が大きければ大きい程、私たちはその自然の破壊に鈍感になるのは当然の成り行きでしょう。事実、私たちは自分達が出したごみが、山間や人工島の埋め立て地に運ばれて、投棄されそれが埋立て場を埋め尽くしていくのを、興味を持ってみる事は殆ど無いでしょう。それも当然で、行政や業者はそんな自然を冒涜する現場を、人々になるべく見せない様に努力しているからなのです。つまり、現代社会では人工環境と自然環境を出来る限り乖離させるのが良いとされる風潮が続いているのです。
そうではなくて、私たちは今こそ人工社会を出来る限り自然環境に近づける努力が必要だと思うのです。少なくとも、地下資源から得てそれを使った後に廃棄する人工物の量を可能な限り減らし、人工環境の周縁を可能な限り自然環境に近づける努力が絶対に必要です。海岸や河岸はコンクリートで覆うべきではありませんし、都市の周辺はシームレスに自然環境に溶け込んでいるべきなのです。それが、ヒトがヒトらしく生きる唯一の方法だと思うのです。

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2019年8月23日 (金)

3645  森を捨てた人間

我々のご先祖は元々は森に棲んでいて、その後草原に進出・進化する際に二足歩行となり、ヒトになったと言われています。とは言いながら、ごく最近までご先祖様たちは、森につかず離れずに暮らしていたのでした。つい50年ほど前までは、私たちは山裾には植林して森林として木材を利用し、里のある平地との間には里山を「作って」その里山からも薪炭や山の恵みをいただきながら質素に暮らしていた訳です。
しかし、ある時期以降私たちは猛烈な勢いで、里山や森の破壊を始めたのです。工場用地や核家族化した人達が住む住宅を建設するためでした。それでも足りず、多くの都市近郊の農地も工業用地や住宅のために消えて行ったのでした。いわゆる「高度成長期」以降の話です。海外の途上国でも、世界中で急激に増えた人口を支えるために多くの森林に火をかけ、焼き畑農業と言う持続可能ではない農業形態で、農地を広げていったのでした。当然の結果として、焼き畑農業で開かれた農地は、やがて肥料分が枯渇し、収量が上がらなくなるため、結局は放棄されて砂漠化するのです。放棄された農地は、雨で表土が流され、もはや森林に戻る事も出来ず、不毛の大地だけが残るのです。G-グルアースで見ると、例えばアマゾン流域には、放棄された農地が、森林に刻まれた茶色ののアバラ骨の様に残されているのが観察できるでしょう。
断言しますが、ヒトは森を離れては暮らせない存在なのです。森の空気が吸えなくなったヒトは、無意識ながらストレスを感じ、中には「気がふれる」人達も出てくるのです。日々報道される、イジメや煽り運転や引きこもり族などのニュースに触れるたび、森を捨てた人間の愚行の結果を見る様で、ココロが痛むのです。投稿者は、還暦到達を期に田舎に家を建てましたが、田んぼやその先に見える里山を眺めながら、それらに癒される毎日を過ごしています。たまに、ブナ林等の自然林が残る鳥海山や各地の山々に登る趣味は、ストレスフリーな人生を約束してくれています。繰り返しますが、ヒトは森と離れては暮らせないのです。投稿者には、人々が退役後も、狭い都会に群れて暮らし続ける理由が全く理解できません。

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2019年8月22日 (木)

3644 技術者倫理

技術屋を十数年前に卒業した(つもりな)ので、堂々と技術や技術者の「悪口」を書くのですが、今の技術者には倫理が欠けていると言うしか無さそうなのです。倫理とは、投稿者の理解する範囲で大雑把に言えば、人が他人との関係に於いて守るべき則の様なものだと思うのですが、残念ながら技術者は他人ではなくモノと向き合っていますので、最初から倫理をすっ飛ばしてしまうのです。
いくつか例を挙げましょう。例えば、車です。車は現在では最も普及した移動手段の一つなのですが、残念ながら車対人の関係に於いて倫理が欠けていると言わざるを得ません。もちろん、車を運転するのは人であり、車に対面する通行者も人です。しかしながら、ドライバーと通行人は対等の関係にはなり得ないのです。それは、車と人が衝突した時を想像すれば十分でしょう。車に衝突された人は、通常タダでは済まないでしょう。大怪我をするか、ひどい場合には命を失う場合も多いのです。
車を設計した技術者は、この非対等の関係を無視してきた様に思います。最近でこそ、スマアシブレーキや監視カメラによる衝突回避機能などを盛り込んだ車が出ては来ていますが、それが法制化されまでには遠い道のりがありそうです。
(経済)効率を優先する技術者は、これまでも倫理上の多くの過ちを繰り返してきたと振り返っています。全ての公害問題や多くの社会問題は、技術者によって引き起こされました。多くの技術者は企業に所属していますので、倫理上の技術者の良心も、企業の経済論理が許す範囲内でしか発揮できないのです。この縛りを抜け出すためには、技術者は自分で会社を興すしかないのですが、得てして技術者には経済オンチが多いのです。もし技術者倫理を守っていく事が社是の企業を作ったにしても、それは3日で潰れてしまい兼ねません。その意味で、技術者「倫理」と経済「論理」の両立はほぼ不可能であると結論せざるを得ない様なのです。残念ながら。

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2019年8月21日 (水)

3643  環境モラトリアウム

モラトリアムという言葉があります。日本語にすれば支払猶予や怠慢とでも言うのでしょうか。表題の「環境モラトリアム」とは、辞書に載っている言葉ではなく、環境の悪化が顕著になっているにも関わらず、殆ど手を打たず、成り行きに任せている状況を指す、投稿者の造語なのです。モラトリアムの後に来るのは、実はより悪い状況であるのは、例えば借金の返済を猶予して貰った人のその後を想像するだけで十分でしょう。
環境悪化、例えば環境汚染を考えてみると、環境が持つ自然の浄化作用で、放置したとしてもいくらかは軽減される場合もありますが、重金属など分解されない(分解されにくい)汚染物質が原因の場合は、汚染が世代を超えて長く続く事になります。ましてや汚染源からの発生をそのままに放置し続けた場合には、汚染が酷くなり、ある限界(後戻りできない点=Point of no return)を超えてしまうと、人々や生物に多大な害悪を及ぼす結果につながるのです。
借金の例の場合、負債を返済するにはひたすら働き、少額でもコツコツと返済を続けるしか道は無いのです。環境悪化においても、先ずは汚染の原因を取り除き、然る後に汚染を少しずつでも取り除く努力を続けるしか方法は無いでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、例えば放射能の除染と簡単に言いますが、実は取り除いた汚染物質は何処か別の場所に移動させるだけですから、正しくは「移染」と呼ぶべきなのです。真に汚染を軽減できるのは、汚染物質を無害なものに分解するか中和するなどの方法で、毒を弱めるしかないのです。その意味で、私たちの文明は未だ放射能を無害化する技術を手にしてはいないのです。それでもなお、放射性廃棄物を生み続ける原発の稼働に突き進む政府やそれを指示する業界や人達は、「環境モラトリアム勢力」と切り捨てるしかありません。

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2019年8月20日 (火)

3642  時間は価値ではない

時は金なりとはよく聞く諺の一つです。時は貴重なものになったのは、一体何時からでしょうか。例えば、動物たちや植物などが、時間を気にしてソワソワしているのを見たことは無いでしょう。彼らには、たとえば1日や1年という時間の塊は重要ではあるでしょうが、1分や1秒などという人間が作った時間単位には興味も無いでしょうし、気にもしていない筈です。つまり、時に価値を与えているのは、時を気にする人間だけである言えそうです。
取り分け、時が金銭と等価であると言う風潮が固定した背景には、もちろん「時給」と言う制度が定着して以降の事でしょう。いくら働こうが、年俸制である限りは、人々が時間を気にしてあくせく働くモチベーションは生まれにくいでしょう。自分のペースで働くことも可能でしょう。月給制も年俸制に近い仕組みではありますが、月給を労働日で割り算をして考えやすいので、実質は日給や時給制とムードはあまり変わらないでしょう。
ここで議論したいのは、もちろん自分の時間を売って、給与を得る制度の是非ではありません。むしろ、時間は価値ではないとの視点を強調したいのです。時間は、ある一定の時間例えば、地球の自転の時間を均等に割る事によって定められました。たまたま、12進法を採用していた国が時間の物差しを決めたので、一日が24時間に決まった訳です。
もし、時間ではなく人々が働いた代価を誰もが同意できる方法で正確に評価できる仕組みが発明されたと仮定すれば、時間給や月給などという時間の価値は消滅してしまう筈なのです。もちろん、難しいのは労働の代価の測り方そのものなのですが、取り分けその代価が一体誰にとっての価値であるかは、事実上誰にも決められないのです。と言うのも、ある人にとっての利益は、時として他の人の損失の上に実現して事も多いからです。とは言うものの、時間が自動的にある価値を生む、などと言う風潮はソロソロ終わりにしなければならないとは思います。特に、自然環境が変化しない事こそが価値だとすれば尚更そうでしょう。

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2019年8月19日 (月)

3641  お祭りフェイズ

投稿者は、事態を一応「フェイズ」と「モード」に分けて眺める様にしています。フェイズとは、事態が一定の方向に進む際の「相(段階)」を指すと考え、一方でモードとは、フェイズの中でどの様な状態であるかを示す言葉だと思っているのです。車の走行にたとえると、目的地に向かって走る際の出発直後、安定した中盤、目的地近くの終盤等のフェイズに分けられるでしょうか。一方で、道路の状態に応じてギヤを切り替えるとか、あるいは疲れたのでSAで休憩を取るとかの切り替えはモードに関わる部分だと考えるのです。
さて、投稿者の見方では現在社会は長いながい「お祭りフェイズ」の中に入っていると考えています。投稿者の定義では、お祭りフェイズとは、いたるところで騒ぎ、美酒・美食に酔い、日常を忘れて浪費に走る様な生活スタイルを指すと考えます。食の分野で言えば、昔はお祝い事やお祭りの時にしか口に出来なかった、お菓子やご馳走や果物も、今では年中手に入るし、また口にする様になりました。服装にしても、かつてはハレの日の服装だったものが、今では普段着になってしまっている様な気がします。
経済の面でも、人々は年に一度か二度のハレの日のために、日々の生活では、支出を切り詰め、せっせと貯蓄に励んでいた訳ですが、今は取り敢えず欲しいモノはクレジットを利用して先に手に入れ、それを何回に分割して支払うかを考えるだけになったのです。お祭りフェイズが、例えばR-マンショックで水を差されたかを振り返ってみると、確かにある期間の踊り場はあったにせよ、それは下り坂ではなく、経済が横ばいの「踊り場」に過ぎなかった訳で、景気の停滞は、モードのチェンジではあってもフェイズのチェンジではなかった様な気がするのです。その証拠には、この国は既に人口減少局面に入って10年以上を経過する中でも、相変わらず経済成長率だけを指標として掲げる、経済優先の政策から抜け出せないでいるではありませんか。縮小局面では、それを見越した長期のビジョンが必要は筈なのです。お祭り(ハレ)フェイズを卒業した後は、間違いなく日常(ケ)フェイズに戻らなければならないのでしょう。

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2019年8月18日 (日)

3640  旅と旅行

旅と旅行は違うと投稿者は考えています。例えば、江戸時代の伊勢参りの様に、一応目的地があって行く場合でも、東海道の風物を愛でながらその過程を楽しむのは、「旅」と分類して良いでしょう。一方、最近の風潮の様に目的地があって、そこまでの道中は可能な限り短時間で移動するするために、新幹線や飛行機を使うのは「旅行」と呼ぶのが適当だと思っています。つまり、目的に至るまでの過程を重視するのが旅、目的を果たすことだけを重視するのが旅行と言って良いでしょう。
これを一般社会での行動に引き戻した場合、なかなか夫々を一言で言い表す適当な言葉が見当たりません。と言うのも、現代社会ではそもそも旅をする機会が無いからだと言えそうです。もちろん、退役した人達が、たっぷり出来た時間を利用して、四国の歩き遍路に出たり、あるいは旧東海道を歩いてみるなどの疑似旅を試みたりはしていますが、どうやら彼らには四国遍路や東海道の宿場町をコンプリートする、などと言う明確な「目標」があって、道中で目にするものを愛でたり、楽しんだりする余裕が少ない旅の様な気もするのです。そうだとすれば、単に移動手段を徒歩にしただけの旅行に過ぎないとも言えそうなのです。
さて、振り返って投稿者自身の事を反省すると、投稿者は一応百名山踏破を目標に、山登りを続けているのですが、どうやらある時期から百個の名山の頂上に立つ事だけが目標になってしまった様な気がします。50代のある時期にそれに気がついてからは、山に登る際には登山道で見かける樹木や花々や昆虫、あるいは太古の昔に火山や地殻変動が作った地形などにも注目しながら登る様にしたのです。その結果、その後の山行がどれほど豊かになったか言うまでもありません。登山ではなく、山歩きに変ったからです。

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2019年8月16日 (金)

3639  機能の消費

最近、車や自転車のシェアなど、それを所有(購入)しないで利用する仕組みが増えてきた様です。つまり、モノを所有・消費しないで、機能を消費すると言う考え方です。モノの消費に比べ、機能の消費は、省資源・省エネの行動につながります。資源やエネルギーの消費を、LCA(Life time assessment)という視点で眺めると、当然の事ながら機能の消費では、モノを作るための資源の採掘や製造エネルギーが不要な分、大幅な省資源・省エネになるのは自明です。
現代の人間、特に日本人は、過剰な潔癖症であるため、とかく他人が使った製品は使いたがらない様です。しかし、手や体が接触する部分さえ、適正にアルコール消毒などをしさえすれば、実質的には、感染症などの問題は生じないなずなのです。であるならば、これまでは「耐久消費財」と見做されてきた車などの高額商品も、積極的にレンタルやリースやカーシェアなどの機能消費を行えば良いでしょう。その結果、もちろんカーメーカーの生産台数は減少するのは致し方ないと割り切るしかありません。考えてみれば、車が走っている時間は、駐車も含めた総使用時間の中では低い方の数%しかないと想像しています。
もし、その実走行割合をその2倍にする事が出来れば、今地球上に存在する車の数を半分にする事が出来るのです。課題は、車を使いたいと言うニーズが発生した際に、如何に容易に使用可能な車を見つける事が出来るのかという点です。これに関しては、車を保有する企業とユーザーを繋ぐ適当なスマホアプリなどがあれば解決できるでしょう。実際には、車はコンビニやガソリンスタンドやショッピングセンターなどの駐車スペースを利用すれば、アクセスに関しては問題は無いでしょう。車の管理者も、同じ情報を共有すれば適切で利用率の高い配車計画も可能になる筈です。現代社会で、モノではなく機能を消費する社会を作るのはそれほど難しくは無いのです。

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2019年8月15日 (木)

3638  人力の活用

全世界の人口は、75億人を超えた様です。ネット上にカウンターがアップされていますが、それを眺めていると大体1秒毎に人口1人が増えている様です。1時間で3600人、1日では8万人以上増える勘定です。
さて、ドンドン増えつつあるそれらの人達が、欲望の赴くままに、資源やエネルギーを消費し続けたら地球はどうなってしまうでしょうか。答えは自明です。資源の枯渇が早いか、それとも地球環境の悪化で、例えば疫病の蔓延などで、人口減少先に始まるか、いずれにしても悲惨な未来しか想像できないでしょう。その前に打つべき手は少なからずあるのでしょうが、ここでは増えすぎた人口の活用を提案しておきます。つまりは、人力の活用です。
さて太古の時代、私たちのご先祖は、人力と畜力だけで、ピラミッドや万里の長城など壮大な土木工事を完遂させました。巨大なモアイ像などは、採石場から今の位置まで、一体どの様にして石像を運んだのか未だに論争を呼んでいるほどです。先人の知恵には感服せざるを得ません。
ちなみに、人が連続的に発生させる事が可能な馬力は概ね1/4馬力程度とされていますが、4人が力を合せれば1馬力、40人では10馬力を発生させる事が出来る勘定になります。人一人を移動させる手段としては、移動者(運転者)自身が駆動パワーを出す自転車が理想である事は間違いないでしょう。
それを楽をしたいと言う理由だけで、すぐ近くに出かける場合でも車に乗る人の何と多い事でしょう。自転車は、それを作る上でも使われる資源は、少量の金属やゴムなどの最小限で済みます。それを使う際に必要な化石エネルギーはゼロなのです。しかも、自転車に乗る事は適度な運動になり健康も増進できるでしょう。自転車は途上国でこそ最大限活用できますので、経済援助には是非十分な数の自転車を加えるべきでしょう。
その他にも、人力で少しの発電・蓄電を行えば、夜間の照明や通信機器の電源くらいには十分利用可能でしょうし、人力で井戸から水を汲み上げる事も出来るでしょう。私たちは、今あまりにも機械やそれを動かすための化石エネルギーに頼り過ぎているのは間違いないでしょう。そうではなくて、効率の高い道具を人力で動かすことの重要性を今一度見直す必要があると思うのです。

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2019年8月 7日 (水)

3637  破局(カタストロフィー)

破局(カタストロフィー)とは、安定した状態が、突然何らかの理由で急激に崩壊してしまう現象を指す言葉です。「破局の理論」という本によると、通常状態から破局に至る状況は、立体的な局面で表現でき、その局面は折れ曲がっていて、破局に至る局面では事態が不連続になると主張するのです。
局面を文字で表現するのは難しいので、たとえ話にするならば、子どもが木登りをする様子が良いかも知れません。つまり、子どもが夢中になって木登りをする場合、彼らは下を見る事無しにひたすら上を目指します。しかし、ある高さになって下を見た途端、その高さにびっくりして足がすくんで動けなるなる訳です。この足がすくむ状況が、子供のココロが破局(カタストロフィー)を起こした瞬間に相当するのです。もちろん、冷静に登った時の逆のステップで、ジリジリと後ずさりをすれば、安全に降りる事も出来るのですが、破局状態では全く動けなくなる筈なのです。
さて振り返って、世の中の状況や環境問題を同様の視点で眺めてみましょう。例えば景気です。景気が上向いている時は、皆が行け行けドンドンでお祭りの様になるでしょう。かなり昔になりますが、いわゆるバブルの時代がこれに当たるでしょう。しかし、何かにつまづいて(例えばサブプライムローンの仕組みの破綻)誰かが不安に陥ると、その不安は次々に連鎖し、最終的には景気の破局を招くのです。この時代の流行言葉で言えば「リーマンショック」という事になります。
環境問題に話を転じても同様でしょう。化石燃料の使い過ぎなどが原因で、温暖化や異常気象が徐々に進行する場合、人々は楽観的に構えている筈です。しかし、命に関わる様な高温や気象災害が連続して起こる様になると、人々はパニック(破局)に陥り、右往左往する事態になるかも知れません。破局を避ける唯一の方法は、決して下を見ないでひたすらジワジワと後ずさりする事なのです。
さて、私たち社会の後ずさりとは、具体的に何をどうすれば良いのでしょう。取り敢えずは、冷静に自分たちが過ごしてきた過去の暮らしを振り返って、そこを起点に自分達の歩みの何処がやり過ぎだったのか反省する事から始めてみるしか無さそうです。

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2019年8月 6日 (火)

3636  自家中毒

自家中毒とは、生き物が自分自身が出した(有害な)物質で、自身が中毒を起こしてしまう現象を指す言葉です。その意味で、全ての公害は人類の自家中毒の実例であるとも言えるでしょう。その毒となる物質は、企業によって、あるいは大気、あるいは水、あるいは土壌中に思慮なく廃棄され、やがてそれが自然に濃縮され、あるいは全体に地域的な濃度が高まって、ついにはそこに暮らす人々に害をもたらす結果につながったのでした。
しかし、もっと深刻なのは、生活をする私たち自身が出す廃棄物で生ずる自家中毒です。それらは、一見毒ではない様な物質で引き起こされるからです。例えば、生活ゴミです。その多くは燃やされる訳ですが、ゴミの中でも生ゴミは焼却炉の燃焼温度を低下させ、いわゆる「ダイオキシン類」を発生させ易くするのです。今でこそ管理され適正な方法でリサイクルされている廃蛍光管は、以前は安易にガラス管を割って処理していましたので、その中に微量含まれていた水銀は、大気中に放出されていたでしょう。同様な例は、エアコンに使われてきたフロンガスにも見られます。フロンガス自体の直接的な毒性は殆ど無いのですが、大気中に放出されると成層圏の上まで上昇し、それに含まれる塩素がオゾン層のオゾンを破壊するのです。その結果、地上に到達する紫外線の量が増えて、やがて高い率で私たちに皮膚がんなどの害悪を及ぼすのです。
全く毒ではない物質でも自家中毒は起こり得ます。それが、たとえばCO2やメタンです。それらは、自然の状態でも大気中には夫々数百ppm、千数百ppb程度含まれている物質ですが、その濃度が急激に上昇し続けているのです。CO2は400ppmをかなり超えてしまい、メタンも2000ppbに迫ってきているのです。これは、多量の化石燃料の使用の結果CO2が増え、その結果温暖化が進み、寒冷地の凍土地帯の湖沼がより多く融解し、そこからメタンガスが多量に発生する事により、更に温暖化が加速すると言う悪循環を引き起こしているからに他なりません。
こう考えてくると、いわゆる環境問題と呼ばれる諸問題の多くは、つまるところ何らかの形での自家中毒ではないかとも言えそうなのです。自家中毒の恐ろしさは、私たちがそれを分かっていても残念ながら(便利な)生活スタイルをなかなか変えられない点にあるのです。やがて人類は、人類自身が出した毒で滅亡する事になるのでしょうか。

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2019年8月 5日 (月)

3635  ゴミ塚

ゴミ塚とは、貝塚からの発想で投稿者が作った言葉です。縄文時代の人々が、生活の中で出して後世に残したゴミは、各地のその時代の貝塚で見つかる様に、食べた後で捨てた貝殻や魚の骨だけでした。獣の骨だって、何らかの道具を作る材料として役立てていたと想像できます。それは、戦後のモノの大量生産・大量消費時代が来るまで、あまり変わりなく続いてきた筈なのです。特に、江戸時代にはモノのリサイクルはきっちり行われていたのです。金属は貴重でしたし、紙や布は最後の最後まで徹底的に利用し尽くされました。生ごみは家畜に食わせるか、堆肥にし、排泄物だって近郷の農家が買取り田畑の肥料したのです。
しかし、問題は最近の生活スタイルの酷さです。殆どのモノは使い捨てです。大量に出る生ごみはもちろん、売れ残りの可食商品さえ賞味期限切れという理由だけで惜しげもなく捨てるのです。その量は、食品全体の3割とも推計されているのです。耐久消費財さえ、もし修理代が新品とあまり変わらなければ、迷いなく新品を購入するでしょう。それより、メーカーでさえ既に修理に対応できる人材が居らず、故障して修理に出した際には、新品よりは少し安い修理代?ながら、全くの新品を送ってくる時代なのです。
かくして、生ゴミは燃やされて灰になった形で、耐久消費財は破砕されて、価格が高い銅合金や磁石に吸着する鉄だけは回収しますが、残りはシュレッダーダストとして埋立て処理に回されるのです。その中身はと言えば、プラスチックやゴムや布やアルミなどの安価な金属やその他の屑が混じった燃えないゴミと呼ばれるモノなのです。もちろん、プラスチックだってもし厳密に種類別に分別できるなら元の材料としてリサイクルは可能なのでしょうが、残念ながら多くは劣化していて材料として完全にリサイクル出来ない可能性も高いのです。しかし、プラスチックは元々は石油なのですから、上手くデザインすれば燃料としての利用は可能なはずです。
後世の子孫たちは、我々が埋立てたゴミ塚を掘り返して、その中に何を発見し、どう利用するのでしょうか。その時代には、石油が掘り尽くされ、ゴミ塚の中から出てくるプラスチックを何らかの形で利用するのでしょうか。しかし、一緒に出てくる利用価値の無いゴミには、その量を含めてあきれ返る事は間違いありません。

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2019年8月 2日 (金)

3634  ゴミを見えなくする社会

私たちの社会は、ある時期以降ゴミを見えなくする(無かった事にしてしまう)社会に移行してしまった様な気がします。それは、私たちの認識が、ゴミは汚いもので厄介者だという姿勢が強まってしまった結果でもあるのでしょう。ゴミはゴミ箱に捨て、最後は黄色いゴミ袋に押し込んで、道路沿いにあるゴミ捨て場に置いておくと、知らない内に行政や行政に指定された業者のパッカー車が回収して、市民があまり知らない場所(焼却場や埋め立て場所)で処理されるという訳です。もちろん、燃やしたからといってゴミが全て気体になって雲散霧消する訳ではありません。どんなゴミでも燃やせば一定量の灰が出ますので、その焼却灰はやはり埋立て処分場に持ち込まれ、埋立て処理される運命にある訳です。
かくして、ある自治体が使っている埋立て処分場は年々不燃ゴミや焼却灰で埋まって行き、最後は満杯になってしまうのです。十分な広さの最終処分場が確保自治体では、手を打たなければ10年以内にも埋立てが出来なくなると言われ、日本全体でも20年以内には埋立て処理が行き詰ると予想されているのです。これは、ゴミを見えなくする社会の仕組みに欠陥があるから、としか言えない現象だと言えるでしょう。もし、昔の様に行政によるゴミ回収システムが整っていない時代であれば、自分が出したゴミは自分で何とかしなければならない時代であれば、人々はゴミをなるべく出さない様に行動する筈なのです。
方法は、ゴミをなるべく見える様にするしか見当たりません。海外では、ゴミ収集業者のストライキにより、例えば1週間以上ゴミの回収が滞ったなどというニュースが時々流れますが、その際には道路の両側に放置されたゴミが溢れかえるといった画像が流されました。ゴミを捨てた人々は、否応なしに自分が捨てたゴミと向き合わなければならなかった訳です。問題は問題として当事者が目で見て、それ(ゴミ問題)を認識する様に出来れば、ゴミも少しは減る様になるとは思いますが・・・。

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2019年8月 1日 (木)

3633 農学と工学

工学と農学(植物学を含む)の違いについて時々考えます。何より、両者のアプローチの方向が全く異なるのは間違いないでしょう。農学は、そもそも植物というものが存在し、その挙動を学ぶ事によって、植物がより元気になって、結果として収量が増える様に彼らの「ご機嫌取りの方法」を学問として固めたものでしょう。一方で工学とは、物理現象の原理を利用して、それを人間の役に立つ形で学問に仕立て上げたものであると言えるでしょう。
既に何億年もの進化の歴史があり、ほぼ完成形態の植物に学ぶ農学と、高々産業革命後の数百年の歴史しかない工学をそもそも比べることもおこがましいのですが、特に欠陥だらけの工学を学問と呼ぶ事にさえ抵抗感を感ずるのです。残念ながら、投稿者は道を間違えて「工学者(技術屋)」としてのキャリアを積んでしまったのですが、50歳過ぎにそれを反省して、取り敢えず技術屋はドロップアウトしたのでした。では何者になり得るのかを考え、模索を続ける中で、森羅万象を対象とする「環境学」にたどり着き、放送大学でこの方面の勉強をする事になったのでした。
環境学も、農学同様既にある地球環境について、その仕組みを学び、通底する原理やルールを学ぶ中で、ほぼ完成形態で存在する「(地球)環境」に学ぶべき事は多く、少しは真実に近づく事が出来たのでは、と感じています。
それに比べ、科学・技術で作り上げた近代文明は、それを作ってきた人間の浅千恵もあるのですが、完成形態とは程遠い欠陥だらけの間に合わせの感が拭えないのです。もし、今の文明が享受している科学・技術が完璧で完成されたものであると仮定すれば、世の中で起こっている製品に起因する事故などは起こり様がない筈なのです。ヒューマンエラーだって製品さえ完璧であれば、いわゆる「ポカ除け(フールプルーフ)」の仕掛けによって、未然に防止できる筈です。
繰り返しますが、両者の違いはアプローチの方向なのです。既に完成された自然の事象に学ぶ学問と、まだ確立されていない技術を、経済や利便性などの論理だけで安易に製品に仕立てて、使ってしまうと言う新しい(未完)の学問とはアプローチの方向が全く逆向きなのです。より重要なのは、前者である事は間違いないでしょう。そう思って、投稿者は技術屋を早めに卒業したのでした。今では、投稿者としては、科学・技術にはある種の疑いを抱きつつ接する様になりました。

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