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2019年12月31日 (火)

3697  危険なビジョン2

科学者の視野狭窄より酷いのが、いわゆる「政治屋」のそれでしょう。彼らには、目先の選挙での勝利しか見えておらず、取りあえずは有権者の「直観に訴える言葉を連呼」するしか能がないのです。その主張は、現在の危機を煽りながら、少しはマシに聞こえる政見を抽象的な言葉でガナリ散らす訳です。その中身は、主に景気を良くし、そのおこぼれが庶民にも及ぶ様に聞こえるものである場合が殆どです。つまり、出発点が現在か少し前の過去をあげつらい、自分の主張がさも最善である様に論を展開する訳です。
自分たち世代だけが、化石エネルギーや短期間の好景気を享受しさえすれば、そのツケを後の世代に回そうがどうなろうが「知った事ではない」という態度は厳に慎むべきなのです。政治屋は、まさにそうした「現世代エゴ」に付け込む輩だという事ができます。それをポピュリズム政治と呼ぶ人も居ます。
そうではなくて、私たちはまず将来あるべき社会の姿(ビジョン)を描いてみるなのべきでしょう。しかも、そのビジョンは自分たち世代を超えて、次世代かそれ以降の世代の幸福を見据えるべきなのです。そうでないと、現世代のエゴに陥るからなのです。現世代のビジョンが正しかったかどうかは、現在が未来の歴史になった時に検証されるのでしょう。その意味で、間に平成という時代を挟んで、昭和がかなり遠くなってしまった今、改めて昭和という時代を、戦争前後に分けて反省を込めて振り返ってみるべきだと思うのです。戦後の時代を、バブルという狂乱の時代でさらに二つに分ける必要があるかも知れません。すなわち、戦争に突き進んで言った「軍部狂気の時代」、兎に角、大きいことは良いことであり、先ず右肩上がりありきで24時間戦い続けた「高度成長期」、実態の伴わない価値?の膨張に狂喜乱舞し、それがある日突然破裂した「バブル崩壊後の時代」の三時代です。
投稿者は、戦前の時代は直接には知りませんが、残りの昭和時代を知る者として、いずれもが、今しか見ていない危険なビジョン(視野狭窄)の時代だったと振り返っています。何より、それらが間違いなく「持続可能ではない」時代だったことがそれを証明している筈です。野心に満ちた国土拡大も、終わりの無い成長も、実態を伴わない価値だけの泡やその泡の破裂も、それを受けての何とかミクスも全て、今しか見ていない近視眼的なビジョンに立脚しているのです。さらに続きます。

 

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2019年12月30日 (月)

3696 危険なビジョン

科学者が、来るべき未来を予測する場面も多いのでしょうが、それはロクな事にならないのは歴史が物語るところでもあります。というのも、およそ科学者という存在は、自分の研究分野以外は殆ど目に入らない、視野が狭い人達だからです。勿論、自分の研究分野は他の誰よりも深く掘り下げ、綿密に研究していることでしょう。しかし、ビジュアル的にも想像できる様に、穴を深く掘れば掘るほど、周りの景色は見えない筈です。周りは自分が掘った穴の壁だけで、ほかに見えるのは、上の方にポッカリと小さく見える空だけでしょう。
科学者たちは、結果的に見れば多くの危険なモノを考え出し、技術者たちがそれを実用化してきました。ノーベルのダイナマイトは言うに及ばず、アインシュタインから始まりオッペンハイマーのプロジェクトで完成を見た原水爆、V.ブラウンを嚆矢とするミサイル、ライフル銃における螺旋状の溝は、銃における命中率と殺傷能力を飛躍的に向上させましたが、それを発明したのは誰だったでしょうか。いずれにしても、それらは人類を豊かにするどころか、非常に危険な発明や発見であった訳です。
何かに例えるとするなら、科学者やそれをサポートした技術者は、いわば「競馬馬」だと言えるかも知れません。競馬馬には、左右の競合相手が見えにくいように(前だけが見えるように)種々の目隠し(ブリンカーの様なもの)が装着されます。科学者は、自分の研究が論文として認められる様に、穴の中でさらに横穴を掘り続け、技術者はそれらの研究成果を金儲けにつなげるために日夜走り続けるのです。
しかし、彼らに決定的に欠けているのは、世界や森羅万象を眺める広い視野だと思うのです。同様に欠けているのは、長い進化や文明の歴史を振り返る長いレンジの視野(歴史観)だとも思うのです。残念ながら、科学的な立場に立ちながら、同時に広い視野や歴史観を持っていると思われる人物は、寡聞にして殆ど知りません。それを一人の人間で実現するのは、たぶん人間の脳の処理能力の限界を超えているからかも知れません。だからこそ、とりわけ一分野に秀でた人は、他の事が見えなくなって危ない方向に走ってしまうのだと思っています。続きます。

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2019年12月22日 (日)

3695 リケン国家2

愚痴りついでに、カンリョウに関しても書いておきましょう。彼らは、確かに選抜されてお役人になった賢い人たちの集団ではあります。若い間は、比較的安い給料で長時間残業を厭わず、根回しや稟議のワザを磨き、そして徐々に出世の階段を登って行ったのでしょう。フルイに掛けられながら、本当に賢いか、または立ち回りが上手いホンの一握りの人達が、お役所のトップに立てるのです。
さて、そのトップに立った人たちは勿論、残念ながらレースから脱落してしまった人たちも、定年が見えてくるとソワソワしだします。つまりはセカンドキャリア(天下りとも呼ばれます)が気になってくるからです。天下りと呼ばれるには、それなりの理由があります。つまり、民に対して官は許認可権を持っていますので、立場としては上(彼らがお上と呼ばれる所以です)になる訳です。官から転じて民の重役や経営層になるので天下りという言葉がぴったり馴染むのでしょう。
問題は、天下り前の官での立場が上であるほど、官に影響力を残したまま天下ることになります。官での最高位は、いわゆる事務次官でしょう。政治のトップと直に接触する立場でもあります。彼らが美味しい立場に天下りした例は、枚挙に暇がないでしょう。もちろん、民で手柄を上げるためには、前職での力関係が残っている間に、許認可権限を自分が天下った企業に甘くしてもらう必要があります。従って、官僚は伏線として、自分が天下るであろう業界に有利になるルールの緩和を画策し、それを政治家に「ささやく」のです。かくして、この国の「灰色の規制緩和」が横行することに繋がるのです。そしてそれが、官の権限(というリケン)が民に移行した瞬間になるのです。
手柄を握った天下り経営者は、自分の手柄を広げるためについついやり過ぎてしまいがちです。つまりは「オーバーラン」です。例えば、お役所において昔部下だった官僚を動かして、自分が天下った業界をさらに有利にしようと立ち回るのが一番ありがちな行動パターンでしょうか。目に余る行動は、さすがにマスコミ沙汰になりますが、水面下のこうした動きは、多くの場合お国のパワーを削いできたことでしょう。直接的には、国の予算を膨らませて、それを自分が天下った企業や業界に誘導する作戦が考えられます。つまりは、医療・介護や金融・保険や教育や防衛といった分野で予算の分捕り合戦が展開される訳です。かくして、天下り官僚のリケン欲を満足させるためにお国の予算は膨らみ続け、結果として借金は膨張し続け、天下った官僚の懐は潤うことになるのです。彼らは、数年で別のミニ天下りを繰り返し、大きな額の退職金も手にする訳です。以上、貧乏な一庶民の怒りを含んだ愚痴でした。このブログは、批判を目的とはしていないので、ここらで矛を収めることにします。

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2019年12月20日 (金)

3694  リケン国家

少し、怒りの混じった愚痴です。表題のリケンとは、言わずのがなですが、頻繁にニュースになる、立場を利用した「利権」の事です。多くの利権は、ある人が一定の権限を有する立場になった際に転がり込みます。転がり込むという言い方は、その利権に群がる輩たちが、権限を握った人を担ぎ上げることによって、自動的に利権を行使することをグイグイと押し付けてくることによって生まれるからです。もちろん、その人が好んでその様な立場になりたいと望む場合もありますし、順番が回ってきてその様な立場になってしまうこともあるでしょう。
いずれにしても、この国では、大きな(公共)工事やエネルギー関連産業や運輸行政や教育産業や医療産業や枚挙に暇がありませんが、つまりは全ての行政組織に絡んで、利権が存在するのです。いわゆる疑獄事件の歴史を遡ると、江戸時代の「代官と越後屋」の小判を敷き詰めた菓子折(単なる時代劇の描写です)による贈収賄が思い浮かびますが、当然それ以前の貴族が幅を利かせていた時代にもあったはずです。投稿者の記憶が確かな高度成長期以降でも、明確に記憶に残っている造船疑獄事件、ロッキード疑獄事件などを大とすると、行政や大企業レベルでの中規模、地方紙にしか載らない市町村と中小企業が絡む小口まで含めると、全ての金額の大きな取引の周りに、何かしらの利権が渦巻いているとしか思えないのです。
その利権に対して陰で暗躍するのが、表向きは政治家を名乗る「政治屋」だといえるでしょう。もちろん政治家を志した時、多くの人は高邁な理想を掲げていたかも知れませんが、実際に議員の椅子を確保すると、多くの誘惑に晒されることになるのでしょう。歴史を振り返ってみても、清貧を貫いた政治家や大企業の経営者が非常に数少ない事実を見れば、多くの政治屋や大企業の経営層が、黒ではないにしても「灰色」の利権に関わった可能性は高いのです。まさに、この国は、発展途上国並みの「リケン国家」であることは認めざるを得ないでしょう。それも、これも、利権で終結した「J民党」の50年体制がいまだに存在し続けていること、離合集散を繰り返す弱小野党がそれを切り崩せないでいる政(マツリゴト)に罪を求めるしかないのですが、同時にその政に無関心な私たちにこそ最大の罪があることは認めざるを得ないでしょう。

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2019年12月15日 (日)

3693  人工林

投稿者は山に登りますが、その際この国の山林を眺めると、多くの地域では照葉樹林と、明らかに人工林と分かる針葉樹林がモザイクの様に入り混じっています。針葉樹林の多くは、戦後に植樹された用材としてスギ、ヒノキ、ヒバ、製紙用のツガなどですがこれらの林の弱点の一つは、密に植林されていて、個々の木の根張りが不十分な点にあります。さらに、常緑樹であるがゆえに落葉する量が少なく、林床の腐植層が薄いのです。そのため、強い台風で容易に倒れ、また大雨によって表土が流され土石流や最悪の場合は斜面崩壊も起こりやすいのです。
しかし、歴史をさかのぼると私たちの子孫は、山に分け入り照葉樹も植林していた様なのです。それは、沢筋の洪水や土石流を防ぎ、林床の腐植を厚くして水持ちを良くすることによって、干ばつの際の水不足をも防ぐ唯一の方法だったからでした。それらの照葉樹の樹種は、地域毎に異なりますが、実に多様なのです。この国の国土の概ね2/3は森林で、その半分弱は人工林で占められています。しかし、文献によると天然林と呼ばれている照葉樹林や針葉樹林の約半分は人の手によって植林されたとも言われているのです。針葉樹林は間違いなく用材用でしょうから、なるべく里に近くて切り出し易い場所(里山)に植林され、一方奥山にも分け入って、水源涵養のために照葉樹も植林されたと想像できます。
しかし、戦後復興のためとは言え、計画性も無くひたすら植え続けられた針葉樹林は、今災害が起こるたびに牙をむいて、被害を増長している訳です。いま三陸海岸では、カキ養殖をしている人が先に立って、水源涵養と海産資源の確保のために照葉樹を植林する地道な活動が続いています。それを単なる善行と眺めずに、水害に襲われた地域の人々もぜひ、氾濫した河川の上流や流域部に水源涵養林(人工の照葉樹林)を増やして欲しいものだと願っています。つまりは、近い将来に、これが「緑のダム」になるからです。それがまさに、現世代から未来の子孫への「緑の贈り物」にもなるのです。

 

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2019年12月11日 (水)

3692 災害列島2

仕事では郡山へ行きました。訪問した一つの企業が、実は台風19号の水害で被災していたのでした。その企業がある工業団地は、阿武隈川の一つの支流の傍にあり、運悪くその川の堤防が越水・決壊し、かなりの高い水位で広いエリアが浸水したのでした。その企業の工場は、道路レベルからは、1mほど土盛りをしているのですが、それでも床上1mほどの冠水があったとのことでした。いくつかの重要な生産設備が使えなくなり、完全な復旧までには年を越しそうだと嘆いていました。
少し時間があったので、堤防の決壊現場を見に行きました。すでに、新しく土盛りやのり面の補強は完了していましたが、不思議だったのはそこが何の変哲もない緩やかなカーブの内側だったことでした。流速が速まった川の流れは、通常はカーブの外側の堤防をアタックすると思うのですが、実際に決壊したのは内側の堤防だったのです。メカニズムは良く分かりませんが、たぶん先ず一番低い場所で越水が始まり、その水流で堤防の土砂が徐々に崩れて決壊に至ったのかも知れません。決壊の長さは、50mほどだったのですが、その周辺を水浸しにするには十分だったのでしょう。そのエリアでは、過去にも浸水を起こした様で、残念ながらその時の対策が十分ではなかったと思われます。
この国は、大小の河の沖積平野に人口が密集していますが、沖積平野は何も河口にだけ「ある訳でもなく、内陸の平野もやはり谷が急に開けた場所に点在しているのです。郡山エリアも、東西を山並みの囲まれ、その間を流れる阿武隈川とその支流が度々の氾濫を繰り返してできた沖積平野そのものですから、100年に一度の豪雨が発生すると、氾濫原に再度水が入り込む訳です。山々が急峻で、人々がかつての氾濫原に密集して住んでいるこの国では、実のところ何処で洪水が発生してもおかしくないのです。まさに、谷筋や内陸平野や河口の沖積平野に住居を構えている全ての人々が、水害のリスクに晒されていると考えるしかないのでしょう。水害の点だけから見ても、この国は間違いなく「災害列島」なのですが、これに地震、津波、台風による風害、落雷や竜巻など、自然災害のタネは数多く転がっているのですが、災害列島の何乗になるか考えるだけでも気が遠くなります。

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2019年12月 8日 (日)

3691  事前疎開

ヒトは必要に迫られなければ行動しない存在の様です。それは、動物としての本能の様なものでしょう。そもそも、脳は動物が危険を避け、生き延びて、子孫をより多く残すように進化してきたはずです。つまりは、周りの状況を判断して、それにより良く対応するための行動を決める器官だった訳です。「だった」と書いたのは、ヒトにおいては脳はさらに巨大に進化し、計画したり、将来を予測するまでになってきたからなのです。
しかし、そうではあってもなお人の脳には、安全バイアス(または正常性バイアス)という「癖」があって、事態が急変しても自分の命が危険に晒される直前まで行動を起こそうとしない傾向にあります。1週間続いたNスぺの災害シミュレーション番組では、その安全バイアスを何とか突き動かして、不安感に訴えるという意味では、なかなか思い切った企画ではあったとは思います。しかし、たぶん人は1週間も経ってしまえば、そんなことはすっかり忘れて、また気楽な日常に帰っていくのでしょう。とは言っても、南海・東南海のトラフに蓄積された歪が日々増大し、Xデーが日々迫ってきている事実に変わりはないでしょう。
やはり、私たちは脳の高次機能である予測する能力を最大限生かし、「事」が発生する前に行動を起こすべきだと思うのです。田舎に実家があって、年老いた親がそこで暮らしている人はとてつもなくラッキーでしょう。子供がすでに自立しているとか、定年前後であるとか一定の年齢に達しているのであれば、早めに仕事にケリをつけてUターンが出来易い条件を持っているからです。田舎に人々が戻れば、事前発生的に仕事も生まれるでしょう。町や村にも賑わいが戻れば、田舎暮らしもそれほど捨てたものでもないでしょう。投稿者も還暦到達を機に、生まれ故郷にUターンした一人ですが、残念ながら連れ合いの親を含め、親はかなり前に亡くなってはいますが、兄弟姉妹を含めた親類縁者や同級生などはそれなりに居ますので、年に数回は冠婚葬祭などで引っ張り出されます。Uターン後に新た作った人間関係、あるいは新たに掘り起こしたそれなりの仕事も続けています。中部地方にあった以前住んでいた家は処分しましたし、年金もありますので、故郷で新たに土地を購入して、小さな終の棲家も建てました。いわば、「事前疎開」を実行してみた訳です。確かに、東北地方の冬は厳しいのですが、自然には恵まれていますので、春から秋にかけては山歩きを楽しみ、ストレスの少ない快適な日々を過ごしています。

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2019年12月 7日 (土)

3690 災害列島⇒災害疎開

Nスぺの首都直下型地震の想定ドラマは衝撃的な映像の連続でした。一見華やかで、便利な都市空間は、大地震や堤防破壊による水害で、如何に大きな犠牲が出るかのシミュレーションという意味で、今回のドラマは映画並みの迫力ではありました。もちろん、今回のドラマは最悪ケースを集めたドラマでしょうから、実際の「次の関東大震災」あるいは「東南海地震」では、もう少し控えめな被害とはなるのでしょうが、多くの物的、人的被害が避けられないことには変わりはないでしょう。
少し前、この国はいくつかの豪雨や台風の直撃で風水害に関しては、かなりしっかりと経験させられてしまいました。豪雨災害では、この国の広い地域で、表土は花崗岩の風化した「真砂土」で覆われていて、山崩れが起きやすいことを改めて突き付けられましたし、コンパクトですが強力な風台風では、多くの電柱がなぎ倒されて、長期停電を余儀なくされました。これから多発すると予想される「超大型台風」では、広い流域面積に降る大量の雨によって、並みのダムが無力になるほどの洪水が引き起こされることが証明されてしまったのでした。
災害列島とも呼ばれるこの国では、これに地震被害の想定が加わる訳です。一番怖いのは、地震と水害の合わせ技です。海洋で発生する地震に津波は付き物ですが、直下型地震であっても、都市部においては流動化現象で地下水が上がってくるタイプの水害や、あるいは堤防の流動化破壊でゼロメートル近いの洪水被害も考えなければならないでしょう。悪いことには、被害が想定される地域には、人口が密集していることを忘れるべきではないでしょう。とりわけ、東京、名古屋、大阪地域への人口集中は、世界でも類を見ないほどのレベルなのです。
これに対応する方策はかなり限定されます。先ずは何はなくとも「災害疎開」をすぐ始めるべきでしょう。首都直下型地震では、直撃で何万人も亡くなり、それより一桁多いケガ人が出て、更にその二桁多い数の帰宅困難者が予想されますが、それを救助する側に回る人たち自身も「被災者」である訳で、救助に当たる人数も出来ることも限定されるでしょう。結果的には、直撃は避けられた避難者であっても、救助の手が届かずに亡くなってしまう可能性も非常に高いのです。田舎には、十分なスペースがあり、特に山沿いでは空き家が目立ち耕作放棄地も年々広がっているのが現状です。投稿者が住むA田県では、なんと毎年人口が1万人ずつ減っているのです。同様の状況の道県も多いでしょうから、うまく誘導すれば年間数十万人単位の「災害疎開」も十分可能でしょう。都会の片隅で、為すべきことも少なく老いていくよりも、自分の小さな畑を耕し、自分の食べ物を自分で作って生きていく生活がどれほど生き甲斐に繋がるか想像してみてください。都会に住む人々の祖先の多くも、つい数十年前までは田舎に住んで、そんなつましい生活を送っていたのですから、地縁血縁をたどれば十分実現可能でしょう。

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2019年12月 6日 (金)

3689  R100その2

次に資源のR100を考えてみます。製造業にしても、サービス業にしてもエネルギーを使い、資源を消費しながら活動を続けています。どの様な資源であっても、それが「地下資源」である限りにおいては、その資源が枯渇していき、製品やサービスの「消費後」は、必ずゴミ=廃棄物を残さずにおかないでしょう。「我が社は、あるいは我が家は、絶対にゴミを出しません」言い切れる企業や家庭は存在しないでしょう。時たま、例外的に絶対にゴミを捨てない住宅が存在しますが、そのような家は「ゴミ屋敷」と呼ばれて好奇の目に晒されるだけでしょう。
しかし、全てのゴミは元を質せばそれは資源だったはずです。食べ物だった残飯やパルプから作った紙製品以外の形のあるゴミの殆どは、間違いなく地下資源から作られたモノでしょう。包装ゴミの大部分を占めるプラスチックゴミは、元は石油ですし、それが金属である場合は地下から掘り出したものに違いありません。
もちろん、割合からすればささやかですが、それなりの量の廃棄物はリサイクルのために回収されてはいますが、プラスチックの包装ゴミが、再度包装原料にリサイクルされる訳ではありません。いくつかの種類のプラスチックが混じったリサイクル原料は、もっとグレードの低い混合プラスチック材として、例えばプラスチックのパレットや車止めなどの限られた用途にしかリサイクルできないのです。PETは例外的にPETに戻される割合が80%を超えるプラスチックですが、それにしたってR100にはまだ距離がありそうです。ましてや、他の材種のプラスチックにおいておや・・・でしょう。
結局、ここでも3688で述べたエネルギーと同じ構図が見えてきます。つまり、現在の社会で流通し消費され、廃棄される資源量をそのままにして、リサイクル率だけを上げようとするのは、明らかに間違いなのです。そうではなくて、先ずは社会活動を維持するための資源消費量を最低限まで絞り込む努力が必須なのです。とりわけ、大量生産・大量消費のトレンドの中で、どんどん(不必要に)過剰になった「包装」は、製品の消費後は間違いなくゴミに変わる訳で、簡易包装は極限まで進めるべきでしょう。その上で、その他の資源消費を必要かつ最小限に抑え込むライフスタイルを確立すべきです。勿体ないとか、LOHASだとか、エコバッグだとか、断捨離だとか、シンプルライフなどという言葉を、その年だけの「流行語」に終わらせてはならないのです。R100の「基本のき」は、先ずはモノ=資源を減らしたり、無くしたりすることから始めるべきでしょう。

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2019年12月 5日 (木)

3688 R100

環境人間にとって、「R100」は理想であり、最も心地よい響きを持つ言葉です。つまり、エネルギーで言えば100%再生可能型エネルギーで賄うこと、製品であれば100%リサイクル原料を使っていることを意味します。決して「映画用語」ではありませんので念のため。さて、まずはエネルギーのR100ですが、これを実現しているのは例えば、ZEHとかZEBとか呼ばれる、建物内で使用するエネルギーを、建物自体に組み込まれた再エネ(例えば太陽光発電)で賄い、トータルとして外からのエネルギー供給無しで自律的に運用できる仕組みになります。もちろん、蓄電池を使って昼間の余剰分を蓄電しておき、夜間や雨天の日にそれを使う「完全自立」のシステムも、余剰分は売電し、必要な時は買電で賄って、差し引きゼロと考えるシステムもあり得るでしょう。
厳しく定義すれば前者、ゆるく考えれば公社もZEHやZEBと呼んで構わないでしょう。しかし、ZEHやZEBのキモは、住宅やビルを現状のままとして、エネルギーだけをR100に切り替えることではないのです。それは、利便性やエネルギーの使用レベルを現在のままにして、ダバダバのエネルギーに支えられた欠陥のあるZEHやZEBと呼ぶしかないのです。そうではなくて、まずはエネルギーの使用レベルを最低限まで絞り込む努力が必要でしょう。例えば、建物の断熱性を北欧並みに上げてやれば、夏場の冷房負荷も最低レベルで済むはずなのです。同様に、太陽光を照明にも利用し、太陽熱を熱源として使えば、サイズの小さな太陽光発電システムで十分間に合うでしょう。
というのも、大規模な太陽光発電システムの場合、それを工場で製造する際に、無視できない量の環境負荷を出すことになるからです。つまり、建物のライフサイクル全体を通じて眺めた場合、建物性能や省エネ、太陽光(熱)などを総合的にデザインしない限り、真のZEHやZEBには程遠いものと断ずるしかないからなのです。先ずは、建築屋とエネルギー屋と環境屋が一致協力して、理想的なZEHやZEBを建ててみる事でしょう。それをひな型として、ハウスメーカーや建設業がコピーしていけば、やがてこの国の家やビルのR100化が進むのです。

 

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2019年12月 2日 (月)

3687  企業連携による地域活性化

仕事で八戸へ行く機会がありました。出かけた企業の担当者が、ついでに市内を回ってくれましたが、海岸部の「工場地帯」はなかなかの景観だったのです。浅学で申し訳ないのですが、八戸と言えば、時々漁業に関連したニュースに顔を出すだけの街だと思っていましたが、実際は北東北随一の工業都市だったのでした。基本となる発電所があり、鉄鋼・金属関係、セメント、造船所、精密工業、電機・電子に加え、もちろん食品加工業もあります。意外だったのは、既に斜陽産業ととなって久しい造船所が、ケミカルタンカーに特化する戦略が功奏する中で、結構多忙を極めているとの説明だでした。地方には、意外なほど産業が生き残って活動を続けているのです。
しかし、考えてみなければならないのは、地域の活性化の基本は、いわゆるコンビナートの様な、有機的な企業間の連携にあると思うのです。つまり、足し算の1+1=2ではなく、掛け算で2以上にできるのが企業連携です。例えば、ある企業が原材料を購入し、部品に仕上げて大手企業に出荷しているとしましょう。原材料その他の変動費20で仕入れ、100の製品を出荷していると想定します。しかし、この企業が半製品の形で隣接する企業に渡し、その企業が最終製品に仕上げる場合、50を半製品で売り、地域のその企業がさらに付加価値を付けて最終製品に仕上げて出荷する訳で、出荷額は間違いなく100以上になるはずです。お金も地域内で回る量が増えて、地域経済も潤うでしょう。もちろん、地域内でモノを動かす限りにおいては、輸送に関わるエネルギーやコストもミニマムで済むので、いわゆる「環境効率」も改善することになります。
投稿者が考えるには、地域の疲弊は、地域の人、モノ、カネ全てについての慢性的な赤字体質からくると思うのです。先ずは、地域内にある資源に着目し、それらを活用して生き残っている伝統的産業群に目を向けるべきでしょう。かなり細くなったとはいえ、地域内には細々としかし脈々とそれらの産業がつながってきているはずなのです。それらの産業の連携を考える中で、地域で生み出す「総付加価値」の拡大を考えて行けば、地域に入りその中で回るお金が増え、同時に地域から出ていくお金が減ることになり収支が改善する筈なのです。その結果、人口の流出という人の赤字も減ってくるのでしょう。

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