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2020年1月26日 (日)

3707 最初に決断ありき2

素材の脱化石燃料が進んだとしても、GHGの大幅抑制が進む訳ではありません。それは、家電に囲まれ、雨に濡れずに車で移動する「便利過ぎる」私たちの生活スタイルを変えないからなのです。便利過ぎる生活スタイルを支える、便利過ぎる家電、自動運転まで視野に入って来た快適過ぎる車、冷暖房が完備された快適過ぎる住宅や職場、調理済みでレンチンだけでありつける超便利な食事、これらの利便が欲しい時にすぐ手にできる様にできる流通業などを機能させるためには、膨大な量のGHGの排出が前提となるのです。
これらにどの様な有効な網が掛けられるか、甚だ疑問でもあります。「炭素税」が、いくつかの国で提案されつつある有効な法制(税制)の一つでもあるのですが、これは間違いなく経済活動にブレーキとなる政策でもあります。炭素税こそ化石燃料を使う活動を直性抑制する仕組みだからです。しかし、採掘、製造、流通、廃棄までのGHG抑制に最も有効な手段の一つでもあるのは間違いないでしょう。つまり、私たちの選択肢は限られているという事です。経済成長を諦めて、GHG抑制に勤しむか、あるいは欲望のままに振舞って、温暖化と心中するかの二択です。現状維持が中立かと問われれば、温暖化にブレーキが掛けられないのですから後者を選んだ事になります。
最初に決断ありきとの表題にしたのは、私たちには前者の選択肢しかないと言いたかったからです。温暖化による災害を食い止めるには、この国の、最終的には全ての国々でGHG排出ゼロをゴールと定める必要があるのですが、問題は大多数の人々の豊かになりたい(便利で食べ物に困らない生活をしたい)という欲望を政策や法制で抑え込むことが可能か否かだと言えそうです。それが如何に難しいことであるかは、COPを何十回開催しても、不十分であいまいな削減目標の合意しか得られない状況一つを眺めても明らかです。スエーデンの元気のよい女の子の世代がCOP会議に出席する様な時代(数十年後)まで待たなければならないとすれば、結果的に私たち世代は、後の世代に、温暖化との心中を選んだ世代という烙印を押されることになるのでしょう。不便を楽しみ、便利さへは決別するという決断がいま必要です。

 

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2020年1月24日 (金)

3706  最初に決断ありき

人為的な温暖化効果ガス(GHG)の排出抑制になかなかゴールが見えません。原因ははっきりしています。それが、経済的繁栄と矛盾するかあるいは、それにブレーキをかける可能性を恐れているからです。それは、既に工業化に成功して繁栄を享受している先進国にも、あるいは今工業化を加速し、先進国に追いつこうとしている途上国も、あるいはそれに取り残されて今ガムシャラに経済力を高めようとしている国々にも共通した恐れでもあります。量としてみれば、GHGの排出源の大半が化石燃料起源のものであることは容易に想像がつきます。現在の経済の仕組みでは、先ずは石炭・石油・天然ガスを地下から掘り出すことが、経済活動のスタート地点でしょう。最初に産油国が経済の指標である石炭・石油・LNGマネーを手にする訳です。工業国では、その化石燃料を利用して、工業製品の原料としたり、発電や輸送に使って工業化マネーを手にすることになります。それを、世界中に張り巡らせた輸送ネットワークを使って、輸送を担うキャリアやAマゾンなどのディストリビュータが流通マネーを生み出す訳です。この全ての経済活動の過程で、残念ながら多量のGHGが排出されることになります。結局経済活動を活発にし、経済指標(例えばGDP)が成長すればするほどGHGも増え続けることになります。
つまりGHGの抑制には、先ずは経済活動のスタート物質である化石燃料から脱却する、つまりは脱化石燃料が最初のアプローチになります。工業原料としての化石燃料から、自然物であるバイオマスなどへの転換が必須です。だからと言って、プラスチックの原料を(本来食料であるべき)コーンなどの穀物に求めるべきではないことは明らかでしょう。そうでなくて、プラスチックの使用量を極端に減らすか、あるいは100%リサイクルの仕組みを作るかして、脱化石燃料を達成するしかないのです。
しかし、便利過ぎて安価なプラスチックに変わる素材はなかなか現れそうにもありません。先ずは、工業製品に使われるプラスチックの種類を極端に減らし、100%リサイクルの仕組みを確立すべきでしょう。例えば、複写機などの業界では、この動きはほぼ達成されていると考えて良いでしょう。しかし、家電や車など量の多い産業では、その兆候も限定的です。必要な法律は、製造した企業=メーカーが、廃製品の回収まで責任を負うものであることは間違いないでしょう。メーカーは、自社製品に使われている素材を熟知していますから、廃製品から外した部品を100%リサイクルするのも容易でしょう。プラスチック部品を外したら、それを洗浄・破砕し新しい部品の射出成型に回す訳です。続きます。

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2020年1月23日 (木)

3705  温暖化考2

近年のこの国の暖冬傾向は一応理解できたとはいえ、では南半球、とりわけ豪州の干ばつはどう考えたらよいのでしょうか。確かに、豪州の夏場は大陸を高圧帯が横断し、雨の少ない時期続きます。だからこそ、この大陸の中央部には荒涼たる平原や不毛の砂漠地帯が広がっている訳です。この高圧帯は、当然の事ながら南極大陸にデンと居座る極気団に起因するものではあるのですが、干ばつが長く続く理由としては、この高圧帯に南北方向の動きが殆ど無く、乾燥気候に変化が無いことが挙げられるでしょう。これが、北極気団と南極気団の大きな相違ではないかと見ています。
つまり、北極気団は確かに浮氷の縮小=海水温上昇による温暖化の結果縮小はしてはいますが、クローバ型の(ジェット気流)蛇行により、それなりに寒波も来るのですが、大陸に分厚い陸氷が載っている南極では、季節に関わらず比較的気温が安定しているので、ジェット気流の蛇行も限定的なので、その結果同じような気象条件が続いてしまうのでしょう。加えて、地殻変動からは隔離された様な古い大陸である豪州は、地表に凸凹が少なく、ジェット気流の蛇行やカルマンカ渦による低気圧を発生させて降雨をもたらす様な標高の高い山脈も存在しないのです。
その結果が、この数か月続いている豪州の干ばつと、山火事の頻発なのでしょう。この事と温暖化がどう関わるかですが、やはり高圧帯下の気温の上昇=湿度の極端な低下が干ばつの長期化と山火事発生の決定的な原因となっていることは間違いないでしょう。いわば、豪州の現状は、「山火事発生条件のしきい値」(温度と湿度から導かれるもので、ある気温以上、ある湿度以下の条件に風速を加味した係数)を大きく超えていると想像できるのです。しかし、残念なことに人類にこの三大条件をコントロールする能力は与えられていないため、私たちには発生した山火事に対し、消火活動を行う事しかできないのです。消極策ではありますが、私たちに残されている選択肢は、ひたすら温暖化効果ガスの発生を究極的にはゼロに抑え込む努力を重ねるしかないのでしょう。勿論、この干ばつ災害の裏返しとして、地球上の何処かでは逆の豪雨災害に見舞われている筈なのです。

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2020年1月21日 (火)

3704 温暖化考

異常な冬です。何しろ雪国のここ秋田で、平野部では積雪が完全にゼロですから。少し雪が降って積もったのは年末だけで、その後は少し雪が舞って白くなってもすぐ消えてしまう日が続いています。例年1月は、日中の気温が0℃+/-2℃程度の日が多く、田んぼには根雪が見られる季節なのですが、今年の田んぼは土色のままです。
原因が知りたくて、北極周辺のジェット気流の状態を調べてみました。その結果、今年は(も)どうやら北極気団のサイズが小さい様なのです。冬場、北極周辺には冷たい空気が沈降し、北極気団を形成します。その気団の周囲から吹き出す風は、コリオリの力により気団の周囲を巡る気流(ジェット気流)を作り出し、結果的には冷たい気団を閉じ込める働きをするのです。気団のサイズは、北緯40度以北を覆う程度なのですが、地形の影響を受けリング状の気流は、蛇行しクローバの葉の様な形状に歪むのです。その葉の部分が日本列島に下がって来たタイミングで、気象庁は「寒波襲来」を告げるのですが、今年はジェット気流の輪が小さく、日本に届いていない様なのです。
つまり、投稿者の結論としては、北極海の温暖化により、北極気団が弱く、サイズも小さくなった結果、寒波が日本に届いていないと見ています。そもそも、強い気団はほぼ真円形になっているのですが、最近の気団の形は楕円形になっている様なのです。しかも、その楕円の長径が日本には掛かっていないので、暖冬傾向が長く続いているのでしょう。北極圏の弱い気団の原因は、間違いなく温暖化です。夏場の浮氷は、近年は広い面積で消失してしまう結果、白夜の太陽光が間断なく海水を温め、結果として次の冬季に結氷が遅くなり、氷の厚みも薄くなる訳です。それは、北極圏の平均気温を押し上げ、気団を弱めることに繋がるのです。続きます。

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2020年1月18日 (土)

3703  過疎に勝つには3

過疎に勝つには、やはりどこまで行っても若者を引き付ける雇用の確保に尽きるでしょう。林業や漁業や農業あるいは建設業等は、いわゆる3Kの職業と呼ばれ、敬遠されてきたのでした。しかし、体が暑さ寒さに晒されることを除けば、近年はそれぞれの業界で機械化、自動化、IT化が進み、ゲームで育った世代には、それらの機器をオペレートする事への興味が湧くかも知れません。例えば、建設業ではドローンやレーザーを使った測量や3DのCADによる設計と、その後の工事における自動化された重機のオペレーション等、農業においても誤差数十センチの新世代のGPSによって、半自動で農地を耕作し、更には農作物の管理をドローンや衛星画像を利用して行うなどの新しい動きも活発になってきました。
更に温室内で全ての環境(温度、湿度、光量、炭酸ガス濃度等)を管理する形の農業もかなり盛んになってきた様です。勿論これからの時代、石油をがぶ飲みする、従来の温室農業やLED照明農業は廃れる運命にあります。自然の陽光や地熱あるいはCO2コントロール等の工夫を積み重ねた新しい温室農業が求められるでしょう。それは、これまでの3K職業としての農業の概念を覆すものとなるはずです。そこには、単に農業だけの知識だけではなく、工学やITやIoTなどの知識もいる筈なのです。ここにこそ、若者の活躍する場が広がっているのです。
林業でも単に樹木を木材として利用するだけではなく、バイオマスエネルギーやセルロースナノファイバーや工業材料としての圧縮木材など、多面的に利用することによって、伐採して山から降ろす際の「立米単価」も現状の倍以上に設定できるため、林業従事者にも十分な収入が期待できるでしょう。
農林業あれ、漁業であれ、建設業であれ、いずれの職業ししても、最終的にはそれが10年後、100年後までの「持続可能性」が十分高いことが求められます。そうでなければ、20世紀が石炭・石油の時代であった様に、新しい農林業、漁業や建設業も、アッという間に一時代の流行に終わってしまうかも知れないのです。

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2020年1月13日 (月)

3702  過疎に勝つには2

少し昔(投稿者が子供のころ)を思い返してみると、経済はほぼ地域完結型だったのです。つまり、地域で必要なモノ地域で生産され、消費されていたのです。その地域で生産できない、いわゆる工業製品はもちろん工業地帯で生産され・輸送されますが、食べ物や飲み物は勿論、日用品や軽工業品はほぼ100%地産地消であった訳です。
例えば、薪ストーブですが、その頃は鋳物でできたストーブなど見ることはなく、ほとんどがブリキのストーブでした。これだと、町の板金屋さんが屋根工事の合間や「夜なべ」でトンカン槌を振り上げれば、地域内で生産することが可能なのです。投稿者が生まれた町(全国各地の田舎町も同じでしょうが)には、こうした板金屋、鋳掛屋、鍛冶屋、桶屋、自転車屋、建具屋などがたいていは町内毎に散在し、地元のニーズを満たしていたのです。加えて、町の中心部には朝市が立ち、近郷からは農家の主婦が、野菜や農閑期に作った日用品などを、夏は手押しの4輪車やリヤカーで(冬は箱ソリ)で運んで来るのでした。
人口は、たぶん現在の倍くらいだったので、城下町で道狭い町の中や駅前には人通りが途切れることはなく、川向うの町の端に住んでいた投稿者は、30分ほどかけて町の中心部を抜けて、南の城山の麓にある小学校に通っていたのでした。しかし、ブラックホールの様な都会は、田舎町の人口を、悪魔の様に吸出し元々密度の高い都市の密度をさらに高めたのでした。結局、ブラックホールとしての都市機能が、その高すぎる密度に耐えられるなくなるか、あるいは決して望ましくはないのですが、大震災や大水害などで住めなくなるかのいずれかのタイミングでしか都市ブラックホールの引力が弱まる事は無さそうなのです。悲しい結論ですが、田舎町が本格的に過疎に打ち勝つには、地道な地産地消の努力を重ねつつも、都市の崩壊まで辛抱強く待つしかない、というのがここでの結論になりそうです。

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2020年1月10日 (金)

3701  過疎に勝つには

仕事で、A森県の山間部の村に出かける機会がありました。聞けば現在の人口は2千人余りとのことで、ピーク時のおよそ半分にまで減少中の様です。山間部のため農地も広くはなく、林業と農業、牧畜などが主な産業で、加えて昔からの建設土木業の企業がある程度です。観光資源も少なく、加熱している温泉施設やなぜかかなり古くに作られた「キリストさんのお墓」がある程度でした。例に漏れず少子高齢化が進み、村の中で出会う人の殆どは60代より上に見えました。とはいえ、考えてみればこの様な村や地域は、全国の山間地や離島の何処に行っても目に付くはずなのです。
しかし、良くよく観察してみると、この村には水量が豊富な3本の川が流れていて、山には先祖が植えた豊富な木があり、更に奥に行けば手つかずの天然の自然も残っているのです。山の木(バイオマス)と、豊富な川の水(水力)と、家畜し尿を使ったバイオガスなどを組み合わせた再生可能エネルギー源を利用すれば、たぶんこの村のかなりのエネルギーが自給できそうなことに気が付きます。そうなれば、これまで村民が外部の石油会社(最終的にはアラブのお金持ち)に支払っていたお金が、村内で回り始めることになるでしょう。少なめに見積もって、一戸当たり5万円としても、村内1000戸では5,000千万円程度の金額になるはずです。この金額が村内で回り始めれば、10-20人の新たな雇用も生み出せると試算できます。つまり、お金をできるだけ村から出さない工夫をすれば、その分を新たな雇用に向けることが可能であるという事なのです。
南ドイツにレッテンバッハ村という数千人の村がありますが、そこでは太陽工発電、ナタネ油から作る燃料、木材+バイオマス燃料、林業、農業、牧畜業を組み合わせて、ほぼエネルギーの自給と食料自給を達成したのですが、その仕組みを見学に来る観光客向けには村営のホテル建て、バイメタルの地域通貨まで作って、ほぼ「閉じた小さな経済圏」を作ってしまったのでした。
同様の仕組みが国内で実現できない筈はないでしょう。上記の村では、村長が一念発起し半分ボランティアでこの仕組み作りをけん引してきたのでした。その結果、子育てにも理想的な環境であることもあって、都会から若者も移住し始め、結果として人口も2倍に増えてきたのでした。この村のケースは、最初に述べたA森県の村の状況の真逆であることが分るでしょう。少子高齢化と過疎の悪循環を止めて、そのサイクルを逆転させるには、先ずは地域からお金を外に出さないで、その分を地域内の雇用に向ける工夫こそ必要な第一歩だと、日々確信する今日この頃です。

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2020年1月 7日 (火)

3700  装備に頼るな

3699で述べたように、山下りが避けられないとして、見通しが効かないルートを移動するのに、例えばGPSや最新式の装備(文明の利器)を使って新しいルートを探す方向もあるでしょう。一方で、足元をしっかりと確認しながら、一歩一歩元来たルートを引き返すという考え方もあるのでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、最新式の装備を駆使したとしても、それが全く未知のルートを指し示してくれる訳ではないという点です。つまり、未知のルートには、実は道などできておらず、自分で岩を避けたり、藪を切り開かなければならないかも知れないのです。いくらGPSを持っていたとしても、そのGPSには道など示されていないのかも知れませんし、そうこうしている間にGPSの電池(化石エネルギー?)が切れてしまうかも知れません。
いま私たちが手にしている文明の利器、電化製品や移動手段や化学製品などは、現在の(山の上の)生活を便利にするために作られ、使われていますが、それらは私たちの本来持っている能力を棄損しこそすれ、補強してくれるものでは決してないでしょう。具体的には、子供たちの平均体力は年々低下し、大人たちはと言えば生活習慣病に怯えながらも、洋風の食べ物を腹いっぱい食べるという「飽食生活」をやめることができないでいます。
そうではなくて、私たちは自身の基本的な生活能力を高めながら、文明の利器に頼り過ぎることなしに、自分自身の足でルートを踏みしめなければならないと思うのです。その時辿るべきルートは、霧に巻かれて見通しの効かない山頂部ではなく、これまで歩いてきたルートを戻り、見通しの良い山の中腹より下を目指すべきであるのは当然でしょう。勿論そこでは、山の上で享受してきた様な、物質的に豊かで、文明の利器に囲まれた生活は期待できないのでしょうが、たとえ物質的にはやや貧しくも少なくともココロ豊かに、ココロ安らかに、のんびり暮らせる生活が待っている筈なのです。私たちの今の便利でモノやエネルギーに溢れた生活が、如何に脆く、それを得る競争のために如何にリスクに囲まれているものであるか、昨今のきな臭い国際情勢を見るまでもなく、思い起こすべきでしょう。

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2020年1月 3日 (金)

3699  戻る勇気

同様の投稿を言葉を変えて何度か書いています。今の社会が視野狭窄で、ココロや幸福感を置き去りにしているとして、ではどうすれば良いかですが、当然の事ながら先ずは立ち止まって、できれば少し戻って何を為すべきか考えてみる必要があるでしょう。後戻りです。これまでは、進歩は100%良いことである、停滞や後戻り(退歩)は悪でしかないとの「前のめりの考え方」が社会を支配していました。しかし、進化の歴史を眺めても、人間社会の歴史を振り返っても、前進と停滞と時には後退を繰り返してきたはずです。時には、マンモスや恐竜の様に、環境の変化に対応できなかったために、絶滅してしまった生物も多かったはずです。
しかし、それでもなお人間が、自然が許容できるスピード以上に環境に悪影響を与えながら進歩を止めないのであれば、自然は、何らかの警告を与えないではおかないでしょう。近年の自然災害の多発もそうした「警告かあるいは罰」の一部なのだと考えるしかありません。自然は、強力な復元力あるいは「ホメオスタシス(恒常性)」を内在していますが、しかしそれを超えるような変化には対応できず、急速な変化ももたらすでしょう。これをカタストロフィー(破局)と呼びますが、これは後戻りできない変化であり、いわゆるフィードバックが効かない変化でもあるのです。破局が起こるのは、変化のスピードや度合いが限界(しきい値)を超えた時に起こります。
最新の科学者の研究からも、人間が引き起こした環境への(悪)影響が、今後の10年も同じペースで続くと仮定した場合、間違いなくこの環境変化の「破局」が引き起こされると警告されているのです。その最たるもので最初に起こる破局は間違いなく「温暖化の加速」でしょう。温暖化がこれまでのペースで進むのではなく、歯止めが効かなくなり加速し暴走するという警告なのです。人間で言えば、単に風邪をひいて39℃程度の発熱をするのではなく、40℃をはるかに超えて命に関わるほどの高温を発するという事でもあります。その事態は、体温がまだ30℃台だった時に、医者の警告を無視して働き(あるいは遊び)続けた結果の末路だと言えるでしょう。私たちは、まだ医療が効く症状のうちに、安静にして症状を鎮めるべきなのでしょう。10年前に戻っても、投稿者が社会に出た1970年代に戻っても、私たちはそれなりに豊かさや、少なくとも将来に対する夢が描けていたと振り返っています。私たち(登山者)は、登った山の山小屋(都会?)に長く留まる事は出来ず、必ず麓(田舎?)に下山しなければならないのです。私たちは、間違いなく「今の文明の頂上」に立っているのです。このまま、見通しの効かない濃霧の中を進み続ければ、間もなく切り立った崖に迷い込み、10年以内にはその崖から滑り落ちるとの警告を受けているのです。新年の(かなり暗い)展望でした。

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2020年1月 1日 (水)

3698 置き去り

さて新しい年です。3697の続きですが、新年らしいコメントも交えます。近視眼的なビジョンについて書きましたが、これを別の見方で喩えると、それは「置き去り」だとも説明出来るでしょうか。科学が何を置き去りにしてきたかと言えば、それは人間としてのココロや幸福感の様な気がします。それは、科学が常に人間の先を行かねばならない必然性を背負っているからに他なりません。もし、科学が過去に遡るだけのものであったと仮定すれば、それはすなわち考古学であり歴史学になってしまうでしょう。もはや常に時代の最先端を走らねばならない学問になってしまった科学にとって、人間のココロや幸福感などに構っている余裕などないのです。ガムシャラに突っ走るしかないのです。
政治の世界ではどうでしょう。その前に、今の政治は経済に引っ張られ過ぎているいることを指摘しない訳にはいかないでしょう。経済が回って初めて、政府は税金が入り、予算が立てられる訳です。従って、政治は経済界に忖度せざるを得ないし、逆に経済界も政治を意識しないではいられないのです。しかし、その経済は規模が余りにも拡大してしまったが故に、どうやら一人歩きを始めた様なのです。つまり、経済の主体である「お金」が自分自身を太らせるために、ガムシャラに経済に拍車を掛けているという事の様なのです。そのために、お金がお金を生むための仕掛けを作りまくりました。GAFAと呼ばれるジャイアントを筆頭に、似たような仕組みが世の中の経済をリードし、あるいは牛耳っているのです。
ガムシャラに走っていると、車に乗っていても気が付くように、速度が上がるにつれて視野が狭く、より遠くに視点を送るしかないのです。そうでないと、早い速度に対応するハンドル操作が遅れてしまうからです。科学ももはや経済的パフォーマンス抜きには存続が出来にくい時代に入ってしまった様です。つまり「視野狭窄の二乗」と言えるでしょうか。この掛け算は、ココロと幸福感をさらに後ろに置いて、更に加速してしまうのでしょうか。車を運転していると仮定して、終わりの無い加速が何を意味するか想像してみると、ハンドルでコントロールできなくなってカーブから飛び出すか、あるいは車が速度に耐えられなくなって破壊してしまうかのいずれかでしょう。動き出した車は、やがて止まらなければならないし、離陸した航空機は間違いなく着陸しなければならないのです。停止したり、着陸したりする先は、人間のココロであり、幸福感という大地なのだと言うしかないでしょう。新年からやや暗い論調になってしまいましたが、科学や経済がそのスピードを緩めて、足元を確認するだけで視野は急激に広くなるはずなのです。

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