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2020年2月25日 (火)

3717  機能を売る3

しつこい様ですが、機能売りの実例をもう少し眺めてみようと思います。モノ売りと機能売りの違いを見てみましょう。モノ売りとは、製品を代価を受け取って(殆どの場合はお金)消費者に売り渡すことですが、一方で機能売りの例としてはレンタカーなどが挙げられます。つまり、レンタカーを借りる客は、空港から目的地まで移動するという機能を購入する訳です。勿論、電化製品なども購入する目的は、その製品が発揮する機能を買うのは同じですが、購入するという行為は、そのモノ自体を買い取る行為である点がレンタルやリースとは事なるのです。
車について考えるなら、機能だけを買う場合と買取の場合の違いは、鳥の目で見ればこの国の駐車場に大きな差が出てくる筈です。つまり、車を買い取る場合は使わない時間帯は駐車場に止めている訳で、一方リースの場合は店舗に戻っているので、私たちが移動に使う車の全体の台数を大幅に減らすことが可能なのです。車の台数が減れば、車を作るために必要な資源や製造に必要なエネルギーを節約できますし、それらが最終的にスクラップにになった時に発生するごみも減らせるでしょう。
住宅に関しても同様の事が言えそうです。住宅は車以上に事態は深刻です。つまり、空き住宅が増え続ける一方、住宅メーカーは宅地を開発して新築住宅やマンションを作り続けているのです。快適な住宅に住みたいという欲求や事情は、実は年代家族構成ごとに異なります。独身者、妻帯者、子供の数、老齢期に加えて職業の状況などで人生のフェイズも生活スタイルも異なるからです。であるならば、広いj住宅が必要な時期に狭い戸建て住宅やマンションを購入したり、老齢期に広すぎる家に住んでいたりといった無駄が生じない様な住宅供給システムを考え出すべきでしょう。それには、賃貸しと、買い取りでも必要な場合の買い替えが容易とする様な法制、税制上の改正も必要となるでしょう。
いずれにしてもこの国ではマイカーとかマイホームと呼んで、モノを買い取って所有する事に価値を見出す「貧乏性」の国民が多い様なのです。機能売り、機能買いのシステムをもう一度デザインし直すことが無駄なモノを作らない=廃棄物を減らす第一歩の様な気がします。

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2020年2月24日 (月)

3716 機能を売る2

3715の続きです。機能とはそもそも何かを時々考えます。機能は勝手に生まれたものではなく、よくよく考えると誰かの、何らかのニーズに基づいて生まれているでしょう。もし、何の意味もない機能があったとしても、誰もそれを使おうとはしないのでやがて消えてしまいます。進化論で言うところの「用不用説」を思い起こせば良いでしょう。ニーズのある機能を実現するには、形の有無に関わりませんが何らかの構造が必要です。例えば、釘を打ちたいという言うニーズに対しては、金槌という構造が提供する、一定の重さがある硬いもので釘の頭を打つという機能が定義できる訳です。
さて、企業の機能ですが、やはり市場に一定の割合で存在するニーズに応える製品なりサービスなりを提供する枠割があるのでしょう。その機能を提供するために、構造すなわち会社組織なり工場なりが必要となる訳です。しかしながら、3715の例ではありませんが、巨大化した工場はひたすら効率よくモノを大量に作り続け、それを市場に「押し出す」機能にまい進してしまった結果、市場のニーズから外れても、勝手に機能を発揮し続けるという盲目的な行動をしがちなのです。それは、兎にも角にも、工場は市場とは隔離された場所であることに最大の問題点があると思うのです。今や市場のニーズの把握は、自社の本社部門ではなく、大規模な流通業であったり、ネット販売業者だったり、市場調査専門会社に任されたりしているでしょう。もはや工場は、動き続けモノを生み出し続ける「馬車馬」と化しているというしかありません。
メーカーは、先ずは市場のニーズに正対して向き合わなければならないのです。理想的には、車は客が注文を入れてから車の生産に着手すべきでしょう、かつて洋服を作る際には、ティラーでの寸法取りから始め、その後布地の裁断、仮縫い+調整があり、最後に縫製が行われた様に、全ての製品がティラーメイドになれば、作り過ぎによる廃棄のムダも皆無になるでしょうし、製造の度に顧客のニーズの再確認ができるので、ニーズと工場機能を完全に一致させることができる筈です。
勿論、そうなればモノ造りの効率はガクンと悪化する事は避けられません。製品やサービスの単価が2倍になってもおかしくはありません。値段が2倍になれば、当然の事ながら消費者は購入機会を半分には減らさなければならいでしょう。しかし、その分消費者はお金を使う事に慎重になって、絶対に必要なモノやサービスだけを購入する行動になる筈なのです。この状況を俯瞰してみれば、結果としてモノやサービスの流通は半分になりながら、一方で市場を巡るお金の総量はあまり変わらないのです。それを受け入れることができるなら、豊かさはあまり変わらないままで、資源やエネルギーの消費(=環境負荷)だけは大幅に削減される社会の実現も夢ではありません。さらに続きます。

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2020年2月22日 (土)

3715  機能を売る

FBにもアップしましたが、在宅の場合は必ず行く散歩で目にする、県内最大の企業であるT社の工場を眺めるたびに思うことがあります。この企業の創業は、母親の実家にも近い海辺の工場でした。物心ついた時には真っ黒いフェライトコアを作る専業メーカーだったと記憶しています。従妹の何人かはこの工場に勤めていて、黒くて硬いフェライト部品を何の役に立つかと不思議に思っていた様な気がします。小学生の頃、機械少年であった投稿者は、よくモノを分解して中の構造を見たがっていました。そのフェライトが実際に使われているのを目にしたのは、フェライトに銅線が巻かれたラジオのアンテナを目にした時だったのです。フェライトは、磁力を良く通す物質だったのです。
この企業はその後、磁気の応用製品である、磁気テープ(カセットテープなど)や家電品に組み込まれる磁気関連部品、そしてパソコンの主要部品であるHDなどで一定のシェアを獲得していきました。コンシューマプロダクトであるカセットテープでは、TVコマーシャルまで打って、かなりのシェアも取ったはずです。その中で、部品屋からの脱却を志向し、家電製品の開発にも着手したのでした。つまり、企業名がメジャーになる中で、それまでのモノ(部品)売り企業から機能売り企業への脱皮を図ろうと画策したと想像できます。
しかし、1990年代に投入した加湿器で火災事故を出すに至って、コンシューマプロダクトのリスクを強く認識せざるを得なかった様なのです。つまり、事故を起こした際の、それも人命に関わる様な事故は、企業イメージを決定的に貶めるからです。加湿器は、冬場だけに使い、暖かくなるとぞんざいに扱われて納戸の奥に放り込まれている筈です。内部には隙間から入った埃が溜まり、再通電される場合には漏電のリスクが高まる製品でもあります。悪いことに、この企業が売る出したのは電気ヒーターでスチームを発生させるタイプだったのです。このタイプは大電流を流しますので、水切れや漏電で火災を引き起こす潜在的なリスクを抱えているのです。
この種の製品は、コンシューマプロダクトの開発に手慣れた家電メーカーの守備範囲だったのですかが、きっと必要な安全装置が不十分だったのでしょう。モノ売り企業が機能売り企業へ脱皮するのはかなり困難を伴うという事の証左でしょうか。続きます。

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2020年2月21日 (金)

3714 新型ウィルス私見

報道によるとウィルスが接触感染や飛沫感染以外(エアロゾル)でも感染する可能性があるのだとか。もし低温の状態で、エアロゾルに付着した休眠状態のウィルスが数十時間あるいは数日間「生きていることができる」なら、それは例えば黄砂などに乗ってC国から日本に飛来する可能性も出てくるかもしれないのです。そもそも黄砂は単なる細かい砂粒などではなく、内陸部の石炭火力発電所や工場や車の排気ガスなども混じったエアロゾル状態になっているでしょう。だからこそ、そのエアロゾルジェット気流に乗って日本まで届くのです。勿論、そんなエアロゾル+ウィルスが感染を広げるにはある程度の「密度」も必要でしょう。しかし、黄砂は時には視界を悪くするほどの濃度になって飛来することもありますし、そもそもヒトは試算によると平均15立米ほどの空気を呼吸をしていますので、エアロゾル粒子に付着したウィルスを多数吸い込む場合だって起こるかも知れません。
スタートはホンの数個であっても、それがヒトの気道に付着し、乾燥状態から湿潤状態に「解放」されたウィルス達が、喉や肺の粘膜で急激に増殖を始めたとしても不思議ではないでしょう。H港風邪やSペイン風邪やRシア風邪などが人間の接触以外に季節風(西風)に乗って急速に東方に伝染を広げていったと考えてもあまり無理は無さそうです。悪いことに、5ミクロン以下の大きさのエアロゾル+ウィルスは、軌道の繊毛に捕捉はされず、肺の奥深くまで到達するのです。
確かに飛沫感染は、数メートルも距離を取ってあれば防げるかも知れません。しかし、エアロゾル感染が確かにあると仮定すれば、今の世の中は至るところで空調を使っていますので、ダクトによって保菌者からのウィルスが同じ空気を吸っている人たちに感染しないではおかないでしょう。異なる階であっても同じビル、同じ病院、同じ鉄道車両やバスの中、同じ飛行機や客船の中などなど、エアロゾル感染の可能性は無限に広がる多くなるはずなのです。残念ながら、普通のマスクでは、せき飛沫は防げたとしても、ウィルスと同等か少し大きいだけのエアロゾルをシャットアウトは出来ません。それどころか、全く問題なく素通りしてしまう筈です。
ウィルスが付着したエアロゾルは、空気中ではブラウン運動によって長期間浮遊し続けるため、降雨でもない限りなかなか消失しない性質も持っていますから、雨が多くなる初夏にでもならないと少なくはならないでしょう。ましてや、乾燥状態が続く上記の様な密閉空間ではリスクは長く残ってしまうでしょう。この(エアロゾル感染の)可能性が極めて低いことを祈るばかりです。

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2020年2月20日 (木)

3713  群れて住むリスク~思考実験

群れて住むリスクは感染症以外にもありそうです。3712でも触れましたが、生物学的な過密のリスクもその一つでしょう。過密な状態に晒された生物は、アフリカのイナゴの様に個体密度が上がると突然習性が変化して集団行動を始め、地域の植物を食い尽くし、結果として大量死を迎えると言った例もある様に、過密状態の生物は正常ではいられなくなる様なのです。
これは、兎にも角にも過密からくるストレスに起因すると考えるしかありません。人間でも、例えば非常に狭い場所に、多数の人が押し込められると数時間経たずにパニックを起こしてしまうでしょう。その限界密度は、多分人の密度と接触時間に加え環境条件の関数となるのでしょうが、その種の研究や論文をあまり見たことがありません。いずれにしても、例えば過半数の人が正常な精神状態を保てなくなる限界値が知りたいものです。それが分れば、例えば満員電車の限界密度も理論的に説明できるかも知れません。時々、投稿者が所用で東京に出かけた際に運悪く朝夕のラッシュ時に電車に乗る羽目になった時には、全く生きた心地がしません。
ここで考えて提案したいのはストレスの閾値です。生き物や人は、過密によるストレスが限界(閾値)を超えると突然パニックを起こしたり狂いだしたりするものの様なのです。勿論、その閾値は個体(各人)毎に異なるのでしょうが、平均的に見て過半数が正常でなくなるあたりから、集団としての正常性も失われると想像できます。例えば3人の宇宙飛行士が、数年かけて火星まで往復する思考実験をしてみましょう。密閉され動きも制限された狭い宇宙船の内部を想像すると、3人の間の距離感と一緒に過ごす長い時間の経過を想像すると、彼らの間には並々ならぬストレス状態が生まれることでしょう。どんなに訓練を受けていようと、所詮普通の人間でもある飛行士たちもやがては人間関係のストレスに耐えきれず、加えて宇宙空間に放り出されたという絶対的孤独感もありやがて誰かが発狂し、更に別の一人も狂いだすでしょう。あまり時間を経ないでついに3人目も同様に・・・。これはつまりはストレス死と呼ぶべきでしょう。投稿者の思考実験の結果では、スペースシャトル程度の大きさの宇宙船ごときで、火星への往復などできっこないと断言しておきます。それほど、ヒトは脳が複雑であるが故に、逆にストレスによる脳の障害(継続的なパニック状態)にはかなり弱い存在だと思うのです。ぜひ適当な距離を保ってまばらに暮らしましょう。TV番組の「Pツンと一軒家」が人気の所以です。

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2020年2月16日 (日)

3712  群れて住むリスク

久し振りの投稿です。前回の投稿以降の10日間に、新型ウイルスの広がりも新しい段階に入った様です。患者数が少ない時には、感染源を特定し患者と接触者を隔離すれば、それ以上の拡散が防げたのですが、今や患者は慣性経路さえも不明なままに、数だけが増え続けている状況です。いわゆるパンデミックの前段階、エンデミックかエピデミックに入りつつあるという事でしょう。過去のこの種のウィルス性疾患の大流行の例を見るまでもなく、ウィルスは大都会の様な人口密集地域で爆発的に拡散するのです。その極限状態を見せてくれたのが、言わずもがなですがあの巨大客船での集団感染だと言えます。あの狭い船内に3000人以上の人々が詰め込まれ、濃密に接触せざるを得ない状況では、乗員・乗客間の急速な流行は不可避でしょう。
その意味で、東京は世界でも屈指の人口密集地域であることは間違いなく、エンデミックやエピデミックのリスクが世界でも最も高い地域であると断言できるでしょう。如何に東京が清潔な都市であると言い張っても、ウィルスが飛沫感染することを考えれば、広がりを食い止めることに関しては、何の気休めにもならないでしょう。投稿者が取り分け注目しているのは、密閉空間である建物や乗り物に使われている「循環型の空調システム」です。部屋や乗り物の空間は、殆ど密閉されている上、温度調節された空気が繰り返し循環されるのです。その中には、空中を浮遊するウィルスが付着した飛沫も含まれている筈なのです。
ところで何故人々は都市に群れて住みたがるのでしょうか。確かに、都会の生活は便利で、文化やスポーツのイベントに溢れており、美食が集まり、職に就く機会も多いでしょう。しかしながら、高すぎる住居費や通勤のための時間や費用、何より人々が濃密に接触し続けることにより、都市部での多くの伝染性疾患のリスクは、過密からくる精神的なストレスによる免疫力の低下も加わり、増大する一方だと思うのです。人々は、何時になったら、あるいはどうやったら都市が持つ強大な引力から抜け出せるのでしょうか。それとも都市は、抜け出せないブラックホールの様なものなのでしょうか。気象の激甚化による水害や大規模地震や津波のリスクも指摘される中、都市から田舎への人口逆流の流れが待たれます。

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2020年2月 6日 (木)

3711  Tランプ対Gレタ?

先のダボス会議以前にも、Tイッター上では、老齢のリーダーとティーンエイジャー少女との応酬が続いていました。単純化すれば、それは経済を取るか、環境を取るかの世代間の論争の様に見えます。しかしながら、冷静に考えてみれば自明ですが、私たちは経済と環境のいずれとも心中する訳にはいかないでしょう。極論に走るならば、「環境のためには命も惜しくない」などと口走る「環境原理主義者」を増やすことにもなるかも知れません。一方で、自国の経済発展のためならば、負け組を作ることや環境上犠牲はやむを得ないとする「経済至上主義」も全くいただけません。
ならばどうするかですが、先ずは環境のためならば、私たちはどこまで欲望を抑えることができるか、あるいは抑えるべきかの議論が必要でしょう。先進国では、車を利用しての自由な移動が保証されていて、車メーカーは1台でも多くの車を市場に押し出そうと、日々努力を重ねてはいます。航空機メーカーやエアラインも同様の努力を行っています。しかし、あの9.11事件が起こった直後には、航空機を使った旅行客は60%以上も激減した事実がありますし、今回のコロナウィルスの蔓延でも、後日振り返ってみるならば、地域によっては数十%の旅客数の減少が確認できるでしょう。つまりこのことは、私たちは自身の生命のリスクを避けるためならば、不要不急の物見遊山の旅行は我慢できるという事の証左でもあります。一方で、私たちは「環境のリスク」のために同様の行動ができるかと問われれば、現状ではたぶん無理でしょう。
というのも、凡そ環境上のリスクというものは、今日明日にでも命に関わるものではないからです。少なくとも、現世代の大人たちが生きている間は、どうにか環境は持ちこたえてくれるだろう、との楽観的な見方が支配的だからです。Gレタ世代にしてみれば、その楽観主義が許せないのでしょうし、一方では、上手く立ち回ればもう一期リーダーの椅子に座ることができて、その後数年も生きれば御の字のTランプはと言えば、環境負荷を垂れ流しながら、B国を強く豊かな国のままに維持する事しか頭に無いのでしょう。私たち(現世代)にできる事はと言えば、限りなくGレタの方に寄った妥協案を示し、それを実行して見せるしか道は無さそうに思えるのです。何故なら、未来の事は未来世代に任せるしか、」現世代に選択肢は許されていないからなのです。繰り返しになりますが、B国のネイティブ(かつてはIンデアンなどと呼ばれていましたが)の教えの様に、私たちには7世代後の人達の幸福を考えて今決断し、それを実行するためにじっと我慢するしかないのです。

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2020年2月 5日 (水)

3710  空飛ぶ車

何度も書きますが、このブログは批判を目的とはしていません。なので、以下は単なる独り言とでも考えてください。先日、福島県のK山市の近郊でヘリが不時着してしまいました。実際は、墜落と不時着の中間の状況だった様です。パイロットによれば、ヘリが突風にあおられてしまったのだとか。投稿者もその前日まで、同市に滞在していましたので、確かに冬型になってかなり風が強くなってきたことは感じていましたが、それは冬季としては異常に強い風とも言えない程度だったと感じました。しかし、事は心臓手術という緊急事態でもあったので、やや強い風だったにも関わらず当日飛行を決行したのでしょう。
さて、空飛ぶ車が実現したとして、持ち主がそれを通勤に使いたいと考えたと仮定しましょう。さて、彼(彼女)が、風が少し強い朝に起きだして、会社に出かけようとして、風の強さにたじろいだとして、意を決して空飛ぶ車に乗り込んだ状況を想像してみると、たぶんその朝には、空飛ぶ車が起こした複数の事故のニュースが駆け巡る事でしょう。一体この国で、晴れて視界も良く、風も安心して空を飛べるような日が何日あるというのでしょう。地域にもよりますが、たぶん半分もないのでないかと想像しています。
つまり、大前提として空飛ぶ車などに「実用性は無い」と断言できるのです。すっ飛ばす快感が欲しくて、大型バイクを制限速度を大幅に超えるスピードで走り回る「スピード狂」の輩は空飛ぶ車に飛びつくかも知れませんが、乗っている人の命は勿論、地上で何の罪もない人達の貰い事故を想像する時、空飛ぶ車には実用性は無いどころか「危険でもある」と言うしかないでしょう。それでもどうしても、空飛ぶ車を作ったり、飛ばしたりしたりしたいのであれば、閉鎖したゴルフ場などの限られた空域を使って、レジャーとして楽しむ分には反対はしませんが、間違っても市街地や人里で飛ばす事は認めるべきではありません。それよりなにより、企業は貴重な人材とお金を、こんな「お遊び車(飛行機)」の開発などに使うべきではないでしょう。荷物のドローン配送と人が乗るための空飛ぶ車では、求められる信頼性のレベルが数段(数十段?)異なるのです。もし、空飛ぶ車を開発した企業が、それを売り出すために「航空局?」に申請を出したとしても、安全性の審査でかなりのダメ出しを受ける筈なのです。それらを全部盛り込んだとすれば、重くて飛べない「空飛ぶ車」が出来上がってしまうでしょう。それは、現状の軽飛行機や地上を走る車と何も違わないシロモノになってしまう筈なのです。悪いことは申しません。お金と人材と時間の無駄使いです。空飛ぶ車の開発など今すぐ諦めましょう。

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2020年2月 3日 (月)

3709 恒常性

恒常性はホメオスタシスとも呼ばれますが、生命が持っている仕組みだと言われています。その意味で、地球にも備わっている恒常性の様な現象ゆえに地球自体を生命体と考えている学者も少なからずいる様です。それが科学的にも正しいか、あるいは単なる比喩なのかは別にして、生命体の恒常性には限界があるのは間違いないでしょう。例えば、私たちの恒常性の証である、一定に保たれている体温ですが、病気になれば39℃や40℃に上がってしまうこともありますし、残念ながら寿命が尽きてしまった場合には、遺体はやがて周囲の温度と同じになってしまうでしょう。
地球の気温も似た様なものでしょう。恒常性を崩すほどの急激な環境負荷は、気温の恒常性を狂わせてしまう筈なのです。夏が異常に暑く、また冬が例年になく異常に暖かいのも、こうした恒常性の狂いによるものだと考える学者が多くなっています。こうした異常の原因は、実は単純ではなく、大気中の水蒸気や温暖化効果ガスの濃度、森林伐採や乾燥化による陸上の生物相の変化、プランクトンの発生や現象などによる海洋変化、海表面から深海に巡る海洋循環、地球表面や海や氷や雲の太陽光の反射率(アルベド)、太陽の活動レベルや地球の軌道の変化や歳差運動などなど、素人の投稿者が思いつくだけでも気が遠くなるほどのファクターの関数になっているのです。
つまり、気候の異常変動を軽減するためだけを考えても、その方策も単に省エネ・省資源だけでは済まない事は明らかでしょう。それほど、私たち人類が地球環境に対して行ってきた悪行によって、地球が受けた傷は甚大であったという事だと思うのです。今地球環境に与えている負荷を突然ゼロにできたとしても、温暖化や気象の異常が直ちにストップするかは甚だ疑問だというしかありません。ほぼ全ての現象には限度(しきい値)が存在し、しかも慣性が働くことは日常経験する様に明らかでしょう。地球環境や気候変動にしきい値が存在すると仮定して、もしかすると私たちはその(後戻りできない)限界を突破してしまったかも知れませんし、そうであればそれがどの様な(恒常性激変の)酷い結果を招くかは、私たちは歴史的にもまだ一度も経験していないのです。残念ながら。

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2020年2月 2日 (日)

3708  最初に決断ありき3

そもそも現状を是認し、それに流されるのは論外として、国や社会として目指すべき目標があったとして、それを実現するには多分3つの要素が必要です。能力、行動に加えて環境です。能力(能力のある人材)が然るべき方向に向かって行動し、それを支える環境があれば目標に到達できる筈なのです。
しかし、残念ながらこの国にはそもそも国家百年の計は勿論、すぐ先10年後のビジョンさえ描けていない様に見えます。それは兎にも角にもこの国が「単年度予算制」であり、行政はそれを使い切り、それが次年度の予算立案の前提となっている(実績主義)システムが制約となっているからだと言えます。つまり、実績が無い新たな事業や予算は、いくらそれが素晴らしいものでも、なかなか前に進める事は出来ないでしょうし、ましてや10年後、20年後に実を結ぶかも知れない事業など、そもそも俎上すらされない訳です。つまり、どうやらこの国では、政治家も官僚も市民でさえ、国家百年の計を巡らし、それに近づこうとする意欲さえ起らない寂しい国だと言うしかなさそうなのです。
決断をするためには、先ずは青写真(目標)とそれを実現する「決断」が必要なのです。勿論、その目標は「正しい」ものである必要がありますが、それが正しいかどうかを判断する「正しい価値基準」が前提であるのは当然でしょう。しかし、正しい価値判断≒正義と仮定するならば、そもそも「一体誰にとっての正義か」という根本的な問題に直面することになるでしょう。そこに、エゴが入り込む余地が出てくるのです。つまり、極端に言うなら、先進国にとっての正義が、ほぼ間違いなく途上国の災難である様に、北の国々と南の国々では利害が対立することも多いのです。社会においても、生活に困っていない社会集団と、そうでない人々との格差・利害の不一致も大きいでしょう。
これを回避するには、視点を現在に固定するのではなく、地球全体更にはまだ見ぬ次の時代も視野に入れて判断・決断する必要があると思うのです。このブログでも何度も書きましたが、私たちは百年後も持続可能な地球環境を可能とする正義、7世代後の人々の安寧を願っての正義を「決断の際の正義」と定めて行動するしかないのでしょう。

 

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