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2020年4月28日 (火)

3751 カタストロフィー

バブルは必ず崩壊します。それを理論的に説明するのが「カタストロフィー(破局)理論」です。文字だけでは説明できにくいのですが、1枚の紙を富士山の様に、頂点が出来る様に歪ませる場合を想像してみてください。必ず、折り重なる部分が出来る筈です。きっちり折り畳まないで、ゆるく歪ませたままにしておくと、「破局の曲面」が準備できます。歪ませた部分は、上からみると必ずオーバーハングのある谷になる筈です。
ところで、人々は何か目的のある行動をしようとする際、安全な斜面を登るのではなく、ショートカットをしてより近いルートを取ろうとしがちです。そのより近いルートを選択すると、どうしてもオーバーハングのある場合が多いのですが、その際人は足元をつい見てしまい「怖気づく」のです。木登りをしている子供も同様でしょう。登る時は、兎に角高い枝に登りたくて夢中で木に取り付きますが、少し高い枝に乗ってつい下を見てしまった途端、怖くなって手足が動かくなくなるでしょう。
経済活動も全く事情は同じです。強気で相場を張っていた投資家が、何かのきっかけ、例えばある投資信託会社の経営不振や今回の様な感染症の流行や自然災害などで、急に弱気になって資金を引き揚げてしまうとします。この弱気の連鎖が経済的破局に繋がる事は、多くの歴史が物語ってもいるでしょう。
今、多くの国々や社会では、新型コロナウィルス渦の中で、殆どの活動が先の見えない状況の中で「弱気」に陥っている筈です。それは、ついつい自分や社会の足元を見てしまっているからであって、視線を上や横に向けて、より安全なルートを模索することから始めるべきなのでしょう。場合によっては、下を見ない様にしながらジリジリと後ずさりしなければならないかも知れません。それは、10年前や30年前のレベルに生活の質を戻さなければならないことを意味するかも知れませんが、その選択肢しかないのであればそれも致し方ないでしょう。つまり、無理に突き進んで破局を迎えてしまい全てを失ってしまうか、あるいは後ずさりして3割カットの水準で踏みとどまるかの選択という意味です。食量の3割を無駄に捨ててしまっているこの国では、食生活の分野であれば7割の水準でも現在と同じレベルを保ちながら、しかし破局は回避できることを意味しているのです。破局を回避するのは、結局は私たちの心の持ち方に掛かっていると言えそうです。

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2020年4月24日 (金)

3750 コロナフィルター

コロナショックという「自然災害?」は、世の中をフィルターに掛けてみた様な現象を多く出現させました。例えば、人々の収入ですが、安定的に給料を得ている公務員を頂上とすると、次に比較的大きな企業に雇用されている給与生活者が来ますが、自粛によって不要不急とされた(サービス)産業の自営業者や従事者は正規・非正規に関わらず、コロナフィルターで振るい落されてしまう事が白日の下に晒された格好です。同様に、通常の免疫力を持つ健常者と、基礎疾患を持つ人々や免疫力が低下してしまった高齢者も完全にコロナフィルターを使えば分離可能です。前者は、ウィルスに感染しても軽症で済み、速やかに復活できますが、後者は重症化が免れず運が悪い場合には寿命を縮める事態にもなり兼ねないからです。
つまりコロナフィルターは、現代の社会活動を維持する上で必須の職業(それに従事する人々)と不要不急な職業(それに従事する人々)を明確に分けましたし、言い方は悪いのですが、社会活動に必要な人々とそうでもない人々をも分けてしまう事になりそうなのです。さらに言えば、感染症的に見た健常者と少し体の弱った人たちをも分けてしまったのです。何しろ職業で言えば、今度の特措法に従った自治体レベルで、営業の自粛を求められた業種とそうではないとされた業種では、公文書レベルで明確にフィルタリングされてしまったのですから。
コロナフィルターから見れば、人だけを運ぶ大量輸送システムでさえ不要不急の仕組みではないとされましたし、中でも観光業こそ全く不要不急の社会活動ではないと切り捨てられたのでした。しかし、考えてみればお役所まで新設して、観光業の拡大を煽って、海外からのインバウンド客が何千万人を超えたとか、さも官邸の手柄の様に自慢げに報道させてきたのは、今の政府ではありませんか。勿論、それは閣僚たちのアイデアなどではなく、彼らを担ぎ上げる「賢い?」取り巻き達の進言であったことは間違いないでしょう。しかし、コロナフィルターはそんな姑息な政策さえも篩に掛けてしまいました。感染の急拡大に直面して、慌てて打ち出した(不潔でできの悪い)マスク配布作戦も、ゴタゴタした支援金配布作戦も全て後手に回ってしまった事もこのフィルターから漏れ落ちてしまいそうな状況です。
3.11の震災でもそうだった様に、大きな災害は多くの人々や社会構造をフィルターに掛けてしまうものの様です。今回のコロナフィルターは、取り分け私たち生き方や社会の在り方を問うものになったと思うのです。今回のコロナ禍が一段落した時にこそ、私たちは今後の社会活動に必要不可欠の生業と、そうではない不要不急の生業を明確に分けて眺め、将来の社会の姿はどうあるべきかを改めて考え直さなけれなならないと感じた次第です。

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2020年4月23日 (木)

3749  都市山小屋論

振り返って自分のブログの原稿を眺めると、2006年には「○○論」とか「○○の法則」といったタイトルで、環境問題に関してかなりの数のブログを書いていた様です。その中で、我ながら「都市山小屋論」は今読んでもそれなりに(客観的にも)正しかった様に思われます。
それは、現代社会構造、取り分け都市に種々の機能が集積してしまった状況を「山小屋」に例えてみたものでした。投稿者は山好きですので、国内だけですが多くの山々に登ってきました。殆どの名が知れた山の山頂付近には山小屋が建てられていますが、その山小屋を運営するためには、ほぼ全ての資材や食料を麓から運び上げねばなりません。その方法としては、強力と呼ばれる人たちが人力で運び上げるか、多くの場合はヘリコプターやブルドーザの様な文明の利器を使う場合もあるでしょう。いずれにしても標高が高い場所に建てられた小屋では、飲み水の類までも運び上げ、不要になった容器やごみやし尿の類まで、麓に降ろさなければならないのです。
一方で、都市も山小屋と事情が何ら異なる訳ではありません。アスファルトとコンクリートに覆われた都市では、都市を動かすのに必要な物資、食料や燃料、電力、ガス、水道水に至るまで、海外や周辺地域から運び込まなければ、1日として社会生活が続かないでしょう。その意味で、都市と山小屋の相似性は明らかなのです。国内でも、道県レベルでは、食料やエネルギー自給率が100%を大きく超えている地域も多い事でしょう。例えば、東北の多くの県では食料自給率が200%を大きく超えていますし、福島県では、只見川水系の水力発電だけで県内の電力需要が賄えているにも関わらず、沿岸に首都圏向けに原子力発電所を設置され、あの原発事故に見舞われたのでした。それは、都市という山小屋生活を支えるために田舎が払った(払わされた)犠牲だったとも言えるでしょう。
山小屋が狭くとも便利で快適で済み易いという向きには反対はしませんが、標高の高い場所の山小屋の周りには草木すら無く、岩だらけの場所も多いのです。しかし、人本来の快適でココロ安らかな生活の場所は、緑深い麓や里のこそあると思うのです。若い時期に都市という山小屋に住むのは仕方がないのでしょうが、歳をとって(老齢者になって)までも住み続ける場所ではないと、(田舎にUターンした)投稿者は思うのです。そして、この都市山小屋論を再び書いているという訳なのです。

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2020年4月22日 (水)

3748  旅客機論

14年ほど前になりますが、3747と同じタイトルである「祭りの後論」を書いた前後に、この旅客機論を書いていたことを思い出しましたので再度同じタイトルで考えてみます。これは、私たちが今住んでいる社会を「飛行中の旅客機」に例えたものです。旅客機は、それ自体ほぼ完ぺきに数時間の生活をサポートするミニ社会でもあります。つまりは、かなり或いはそれなりに快適な衣食住が確保されている訳です。しかし考えてみれば、旅客機は積み込まれた燃料や食料・水の量を超えて飛び続けることなどできない相談でしょう。燃料が切れる前にどこかの空港に着陸しなければなりませんし、もし食べ物や飲み物が無くなったら客からブーイングが出る事でしょう。
しかし、私たちが暮らす地球上では、燃料(化石燃料)の限界が指摘され続けているにも関わらず、旅客機のスピード(=経済規模)をさらに上げて、景気を持ち上げようとする政府が多いのは事実でしょう。どの政府も、多分そのリーダーがその椅子に座り続けるのは、歴史の中の数年間だけなので、取りあえずは旅客機の窓から見る景色が普通に流れている限りにおいては、パイロットに加速を指示しても不安は持たないでしょう。しかし、旅客機の残り燃料(石油の埋蔵量)は有限であり、つまりは残りの航続距離も有限なのです。
私たちには大きくは二つの選択肢が残されていると言えるでしょう。その一、現状の速度を維持するかさらに加速して燃料が切れるまで飛び続けるか、その二、速度を落としてできる限り近くの空港にどうにか着陸する準備を始める、という二つです。前者の選択肢を選ぶ場合、残念ながら燃料切れが近づくと、速度と高度は急速に落ち、最悪の場合は地上にハードランディングすることにもなるでしょう。多くの犠牲者を覚悟しなければなりません。しかし、後者の場合には、どうにか乗客の命だけは助かるでしょうが、乗客のQOL(生活の質)は大きく低下させざるを得ません。地球上には、石油などの資源も食料も有限量しか残されていないからです。
一方で後者の選択肢では、着陸した場所(自分たちが住む地域や国)の周囲で、農業を行って食料を得て、林業などでバイオマス燃料を得て、太陽光や風力発電などでエネルギーを得るという質素でささやかな生活であれば、生き残った乗客の生活を支える事は十分可能でしょう。モノや食料が潤沢で快適な生活を送り続けて破局的な未来を迎えるか、あるいは速やかに質素な生活を志向しながら、農林業と再生可能型エネルギーを拡大する着陸態勢に入るか早急に選択をしなければならない時代に入っているのです。今回のコロナショックが、もしかすると後者の選択(軟着陸のシナリオ)の引き金になるかも知れないという予感はあります。

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2020年4月21日 (火)

3747  祭りの後論

3746での「お祭り騒ぎ」に関連して、このブログを始めたごく初期(2006年夏)も同様の事を書いていた様なのですが、再度同じタイトルで考察しておきます。
さて、世の中には多くのお祭りがあります。素朴な村祭りから、全国から観光客を集める豪華絢爛たる祭りまで、その幅は広いのですが、共通しているのは、祭りはたった1日か長くても数日で終わるという点です。祭りが開催される地域では、どの家でも年に一度の祭りを祝い、晴れ着を着たり、酒やご馳走を準備して贅沢をしたりする訳です。
しかし、祭りが終われば地域や各家庭は日常に戻り、静かな日常生活に戻るのです。その状況をこの国では、祭りの日を「ハレの日」、その日以外の普通の日を「ケの日」呼んできました。とはいながら、現代の生活を眺めると、毎日がまるでハレの日の様だとも言えるかも知れません。つまり、投稿者の子供時代はたとえ中華そば1杯でも、いわゆる外食の機会など年に何度もなかったものです。さらに言えば、凡そケーキなどと名がつく食べ物には、年に1-2回くらいしかお目に掛からなかったのです。例えば誕生日かクリスマスなどです。それが、今の時代には週1回か、下手をすれば日常的に外食を楽しみ、ケーキを頬張っているではありませんか。つまり食生活だけを見ても、かつての暮らしと比べると、今は毎日がハレの日になった様な状況だとも言えるでしょう。
その結果何が起こったかと言えば、栄養過多による生活習慣病が年配者は勿論、年少者や若い世代にも蔓延してきたのです。今一度、私たちは毎日がお祭り様な「異常な時代」に生きているとの認識が必要だと思うのです。祭りの時期には、皆が興奮に浮かれアドレナリンを出し続けて、つい正常な状態を忘れがちになるものです。インバウンドバブルも五輪バブルも豪華クルーズも間違いなく「お祭り」なのです。私たちは、その祭りの後の「あるべき日常生活」に思い至らなくてならないでしょう。足るを知り、贅沢を戒めつつ、一方でココロ安らかな日常生活を取り戻さなければならないのです。亡くなってしまった人や職を失ってしまった方々には申し訳ない言い方かも知れませんが、もしかするとコロナショックは、その祭りの興奮を鎮めるために、天が注いだ冷や水なのかも知れません。お祭りを年がら年中続ける訳にはいきませんし、資源も地球環境もそれを許さないでしょう。今こそ、祭り(異常興奮)の後の日常(正常)を取り戻すことを真剣に考えるべき時期だと思うのです。

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2020年4月20日 (月)

3746  ハシャギ過ぎ

今回のコロナショックは、インバウンド旅行者や五輪ではしゃいでいたこの国や多くの観光立国に冷や水を掛けたことは間違いないでしょう。冷や水どころか、氷水を注いだ上に冷風を送って完全凍結させてしまったという表現の方が良いかも知れません。観光が、「不要不急」の行動ではないことは誰が考えても明白でしょう。その観光需要を、新たな役所まで作って煽り、年々1000万人単位で増加させようと目論んだ、今の政策が正しくなかった事は、コロナショックで多くの観光産業や外食産業の企業が倒れ、そのかなりの数が多分再起不能に陥ることに事によって証明されるでしょう。大量のホテルの建設ラッシュ、高速道路に溢れた観光バス、増便・臨時便の好況に沸き返った航空産業、雨後の竹の子の様に増えた旅行代理店などは一体何処に行くのでしょう。
記憶によれば、あの9.11の事件後は、確か航空旅客が半分以下に落ち込み、世界の旅客機の内約2,500機が、B国のMojabe 砂漠の飛行場にフェリーされ、エンジンにカバーを掛けられて長く休眠したのでした。その時は、幸いにもテロの脅威が去った後は航空旅客数はV字回復したのですが、コロナショックは多分長期間、少なくとも1年以上、長ければ数年は続く景気の停滞期と見なければならないでしょう。
批判は好みませんが、それもこれも、AB氏とその取り巻きが推進してきた、「底の浅い」景気刺激策に原因が見つけられるでしょうし、それに乗っかって、底の浅い他力本願の経済活動でハシャギ過ぎたこの国の経済界や庶民も同罪だというしかなさそうなのです。コロナショックで芯まで凍結してしまったこの国の経済が、やがて少しずつ融け出して10年後くらいにやっと安定的な日常生活を取り戻して今の時代を振り返る時、観光客の数倍増や五輪開催に飽き足らず、やれIRだのといったお祭り騒ぎに浮かれていた私たちの「空騒ぎ」を苦々しく思うことでしょう。それは、土地バブルや債券バブルの崩壊を振り返って抱いたあの苦々しい感情と全く同じものです。

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2020年4月19日 (日)

3745 共生

感染症に長く取り組んできた医師、Y本太郎氏の言葉が染みた。本来は、野生動物の中だけで「生きて」来たウィルスが、人間の世界に入り易くなったのは、人による自然破壊が進み、野生と人間界の距離が縮まってしまった事が原因だと・・・。そのため、何十年に一度だった新型ウィルスによる感染症の大流行が、近年は10年に一度ほどの頻度となってしまったと指摘していました。確かに、日本でもかつては奥山に棲んでい居たはずのクマやカモシカやイノシシやサルたちが、頻繁に里に姿を見せる様になっています。それは、奥山と里の間にあった筈の「里山」に薪や山菜採取のために人が入らなくなった結果、里山に奥山並みに木や藪が繁茂してしまった事が主な理由でしょう。
深い藪は、野生動物が里に近づくのを隠してくれ、里に住む人たちがついうっかりと晒してしまった残飯や干し柿や野菜などの美味しい食べ物が、その味を知ってしまった野生動物たちを引き付け続ける事にもなったのです。野生動物たちは、長らく彼らの間に広がった各種の病原菌や病気にもどうにか付き合って、共生して来た筈なのです。つまりは、自然の免疫力を培ってきたのです。しかしながら、単純に清潔志向に凝り固まって、基本的な免疫力を鍛えることを怠った私たちは、新しい病原菌とりわけ新しいウィルスへの免疫力は低い水準のままとなってしまいました。
医学には全くの素人ではある投稿者ですが、今私たちに必要な事は、先ずは免疫力を鍛えなおす事だとハッキリと言えます。基本的な免疫力は、バランスの取れた食生活、適度の運動と十分な睡眠、つまりは規則正しい生活リズムで暮らしていれば自然と身につくものだと思うのですが、とりわけ都会でのストレスフルで不規則な生活とグルメ志向や楽しければ良しとする余暇の過ごし方を見るにつけ、私たちの免疫力レベルは、かなり低くなっていたことは想像に難くないのです。より高い免疫力を備えて、(戦うのではなく)新たな感染症と共生する事こそが、私たちの取るべき正しい態度なのでしょう。

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2020年4月17日 (金)

3744 緊急事態拡大

緊急事態宣言が全国に拡大されました。とはいっても、田舎の暮らしは元々「三密」などとは無縁で、この地域でも感染は外から来た人や、感染地域へ出かけて行ってウィルスを貰って来たの人達とその周辺で、合計でも十数人小さなクラスターで留まっている様です。県の対応も、「宣言がとうとう出されたか、仕方がない週明けにでも対応を考えてみよう。」といった程度です。
いつも思うのですが、何かを決めて始めるのは号令一つなので比較的簡単な事ですが、ではそれをいつ止めるのかは非常に難しい問題だと思うのです。例えば、外食産業の営業自粛や時短を、どのタイミング解除できるのかは大問題でしょう。経済活動の低下を感染拡大防止との間でのせめぎあいは、立場によって態度が大きく異なるでしょう。つまり、自粛を要請して感染を抑え込みたい行政側と、自粛を要請されてジワジワと経済的に追い詰められる側とのせめぎあいです。自粛解除を早まれば、感染の再拡大が待ち受けているでしょうし、かと言って解除が遅れれば、経済的損失=将来世代への借金が雪だるま式に増大するでしょう。各人に10万円を支給すると国が決定しても、結局はN銀がお札の印刷を増やすだけですから、国の負債となり、将来世代がそれを税金で埋めわせるだけのことで、天からお金が降ってくる訳でもありません。
こうなれば、兎に角、感染しても重篤な症状を抑え込める様な既存の薬を特定し、感染しても少なくとも死亡に至らない対症療法を確立するしかないと思うのです。その過程で、そうは言いながら基礎疾患がある人や高齢者は、症状が重篤になり、不幸にして亡くなる人もある程度は出るでしょう。しかし、考えてみれば新型コロナが出なかった場合でも、高齢者施設では人知れず、インフルエンザや普通の風邪或いは誤嚥性肺炎で、少なくない人たちが亡くなって居た筈なのです。その数は、ひどい年では年間数千人規模、ある時期には一日平均50人ほどになったこともあるくらいなのです。死亡率を見る限りにおいては、新型も在来型のインフルもそれほどの差は無いと言えるでしょう。勿論、側聞によれば新型コロナに感染した場合は若い人でもかなりのつらい症状に襲われる様で、体側の防衛反応もこれまでのインフルより強烈になる様ではあります。とは言いながら、事態がここまでくれば症状を軽減する「対症薬」を一日も早く認可し、あとは自然感染の成り行きに任せて、結果としての集団免疫を作り出すしか方策は無さそうだと見ています。もはや囲い込みは勿論、自粛による抑え込み策だって長続きなど出来相談ないのですから。

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2020年4月16日 (木)

3743 集団免疫4

集団免疫への更なる素人考察です。この国のコロナ対策は、他国に比べればかなり受け身で抑制的だと言えるでしょう。お隣のK国で行っている様な、ドライブスルーによるPCR検査への対応や遅まきながらもやっと始まった軽症陽性者向けの宿泊施設の提供など、後手後手に回っている様にしか見えません。しかし、その一方で感染者数の割には、亡くなる方の数(死亡率)がIタリアや全世界の平均(6%オーバー)に比べて約2%とかなり低くなっているのは一体どの様なカラクリに拠るのでしょうか。
単純に考えれば、医療体制が整っていて、重症化する人の割合が低いという事が考えられます。とは言いながら、感染者数が急に増えた自治体が右往左往する様子を見るにつけ、医療体制が充実しているとはとても言えそうもない様です。その他に考えられるのは、この国に特有な条件、例えば幼年期における、ポリオやBCGや4種混合などの各種予防接種の実施率の高さが考えられそうです。勿論これらの予防接種が問題のコロナ型ウィルスに対する直接な免疫を作る訳ではないのでしょうが、免疫力全般という意味では「免疫の地力」が上がっている可能性は高いと推定しても良さそうです。それでなければ、欧米で大きな図体をした人たちが、バタバタと新型コロナウィルスの餌食になる理由が説明できないでしょう。ウィルスを擬人化して考えれば、ウィルスが宿主である人間を殺してしまう事態までは「想定」はしていないと考えられます。事実、ヒトと同様に鳥や豚にも取り付くインフルエンザウィルスは、彼らを殺すことなく「共存」を続けているではありませんか。
これらのウィルス媒介動物には、自然に集団免疫が出来ていると考えられるでしょう。理由はハッキリとは分かりませんが、想像するに狭い国土に人々が「密」に暮らし、そこに大勢の観光客が押し寄せる国でもあるこの国は、知らずしらずの内に、いくつかのウィルス起源の病気が感染し、知らないうちに集団免疫が形成されていると考えても不自然ではないでしょう。この国では、日頃から「三密行動」に晒されており、集団免疫が出来易い環境にあると言えそうです。以上、勝手な素人評論家の仮説でした。

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2020年4月15日 (水)

3742 社会的生き物

ヒトは、サルやアリやハチと同じ?様に社会的な生き物の代表です。つまり、単独では多分生きていけない生き物だと思うのです。確かに孤島に流れ着いた漂流者?や奥山に住む仙人の様に、孤独に耐え、あるいは孤独を愛する人も少数は存在するのでしょうが、何らかの理由で完全に社会との関係が切れてしまった人は、多分正気では居られなくなると想像しています。社会的生物というものは、モノの授受は勿論ですが、とりわけ情報交換や相互コミュニケーションが重要な行動ファクターになると見ています。サルは、毛づくろいなどのボディタッチや鳴き声、顔の表情などで、アリはニオイと触角でボディタッチ、ハチはハチダンスなどでコミュニケーションを図っているのでしょう。
生き物としての人は「ヒト」とカタカナで表記しますが、社会的存在としての人は「人間(人と人との間)」と表記する様に、人は結構密に暮らすのが好きな様です。それが究極まで進んだのが、都市での暮らしだと言えます。田舎の町では、人々は基本は一戸建ての家に住んでいますが、土地に制約の多い都会では、多くの人々が集合住宅に住まざるを得ません。コロナ災害後は、再度「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」が注目されていますが、感染症防止という文脈では、都会でのソーシャルディスタンスは狭すぎると言えそうです。ラッシュ時の満員電車では究極の「密着」状態でしょうし、混んだ喫茶店や外食店の中ではもし感染した人が混じっていれば、病原菌やウィルスが飛び交っている事でしょう。
そこに、病原菌やウィルス達は目を付けてきたのでしょう。つまり、群れを作る野生の渡り鳥、多頭飼いされる豚などの家畜、同じく群れを作るシカやイノシシなどの動物間を渡り歩き、その間に変容を繰り返し、太古の時代からウィルスという「生物と無生物の中間の存在」として遺伝子を温存してきたのでしょう。ヒトが互いの接触を好む社会的生き物であり続ける限り、ウィルスも変容を繰り返しながら、新たな「新型ウィルス」として我々の前に多分10年ごとに現れるのでしょう。群れるのは人間の性だとすれば、これは防ぎようがありません。

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2020年4月14日 (火)

3741  弱い者イジメ

災害というものは何時も社会の弱者を炙り出すものの様です。社会の構成員には、持ち家があり貯蓄もそれなりに持ちながら、安定的な職業で収入を得て暮らしている人も少なからず居ます。でもその一方で殆ど蓄えも無く、家賃を払いながら、日々の暮らしに汲々としている人たちも多い事でしょう。その最下層には、日雇いのアルバイトをしながらネットカフェなどで寝泊まりしている人たちも少なからず居る様です。水害や地震では、主に住居が破壊されて住む場所が無くなった人たちが災害難民として避難所や仮設住宅を求めますが、一方で今回のコロナ災害の様な感染症による災害では、先ずは蓄えが無く、日々の収入(日銭)を暮らしを立てている小規模サービス業やその従業員が狙い撃ちにされている状況です。これらのサービス業は、日々の稼ぎを仕入れや家賃や労務費に回して成り立っていますから、「サービスを受ける行為の自粛」が一番応える事になります。
一方で、コロナ災害は体力(=免疫力)の弱い、基礎疾患を持つ人々や高齢者を狙い撃ちにして、悲しい事に彼らの内の少なくない人たちを死に至らしめたりもします。元々体力(免疫力)が弱っている人たちに、病原菌やウィルスが取り付くと、あっという間に重症化してしまうのです。即ち、彼らが身体的な災害弱者という訳です。免疫力は、体力の余裕の中でこそ有効に働きますが、その余裕がない場合感染・発病のしきい値は非常に低くなるのでしょう。
結局、経済的に弱い人達は経済的に、体力的に弱い人達には症状を以って苦しめるのが感染症災害だと言えそうです。彼のB国では、社会的人種に絡む弱者(黒人層やヒスパニック層など)がコロナ災害での選択的犠牲者になっている様ですから、事態はさらに深刻です。欧米でもかなりの国々で亡くなってしまう人数が、千人単位で日々増え続けるニュースを目にするにつけ、それらの国々の弱い部分が露呈されている様に見えます。つまり、社会的弱者は元々経済的にも体力的にも脆弱な状態に置かれていた筈で、コロナ災害も含め種々の災害とは、それらを白日の下に晒すものだとも言える様です。

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2020年4月13日 (月)

3740  病因(院?)

病院とは、自らの免疫力や治癒力で病気を克服できなかった人たちが駆け込む場所と言えます。かつては、人々は自宅で病気と闘い、医師は往診で対応してはずです。しかし、人々が都市に集中して住む様になって以降は、病人は病院へ駆け込み、必要によって入院をする様に変わってきたのでした。確かに、医者一人が診れる患者の数は画期的に増加し、その意味で「医療効率」も格段に上がったのでしょう。
しかし、外科的な患者はさておき、いわゆる感染症患者が病院に駆け込むことによって、病院は院内感染の温床となり得る時代にも入ったと言えるでしょう。インフルエンザや風疹などのウイルス性の疾患は勿論、接触や飛沫感染によって感染する病気の数は数えきれないと思います。いまや病院=病因の時代になってしまったと言えるかも知れません。少し前の話題ですが、病院内で薬剤への耐性を獲得した細菌=多剤耐性細菌(MRSA等)が問題になったことがありましたが、今のところ感染が目立たなくなっただけで、必ずしもそれが解決された訳でもないでしょう。
病気を克服する根本は、東洋医学の基本ともなっている陰陽や経絡・経穴の刺激などの体のバランスを復元させるアプローチだと思うのです。体の(健康の)バランスが取れてさえいれば、細菌やウィルスなどによってそれが僅かに崩されても、元通りのバランスを取り戻せる筈なのです。それを免疫力などとも呼びますが、病気は免疫力で治すしかないのです。西洋医学で用いる薬剤は基本的には対症療法に過ぎないでしょう。
人類は、有史以降度々重大な感染症の嵐に襲われてきたはずです。とりわけ、人々が都市に群れて暮らすようになって以降は、A・カミュの「ペスト」などでも描かれている様に、人口の何割もの人々が亡くなる様な感染症の嵐が何度も吹き荒れたのでした。近年でも、「何とか風邪」と呼ばれたいわゆるインフルエンザやSARSやMERSなどのウィルス性感冒の流行が記憶に新しいところです。しかし、基本的にはやはり最後は、それぞれの社会や国が「集団免疫」を獲得するまで、一つの感染症が終息する事はないのですから、今回のコロナショックも行き着く所まで行くしかなさそうなのです。何は無くとも、日頃から免疫力に資する食生活や運動などの生活習慣を培っておきたいものです。

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2020年4月 9日 (木)

3739  8割減

緊急事態宣言のキモは、人と人同士の接触を8割減らす事なのだとか。ウィルス禍が、人と人が群れて暮らすことによって増幅されるのであれば、都市生活そのものが、諸悪の根源だとも言えるのでしょう。便利であるが故に、人々は都市に群れて住む様になってきました。ある時期(高度成長期)からは、郊外の大規模団地や高いビルやタワマンや地下街をニョキニョキと建て、それを複雑な鉄道やアリの巣のごとき地下鉄や立体的な高速道路でつなぎ、郊外と都心間に信じられないくらいの人の流れを作り出したのでした。高速道路と新幹線網は、都市と地方間の人の流れも圧倒的に増やして来たのでした。
私たちは戦後の復興から今日まで一貫して、この国の首都や中核都市に、まさに「三密」と言われる典型的な光景を作り出したのでした。例えば、秋葉原や巣鴨や浅草やアメ横などで人とぶつからないで歩くのは困難でしょう。とりわけ朝夕の、密閉された満員電車の密集度合いや密な接触は、ウィルスの温床以外の何者でもないでしょう。3736で立てた感染力=「万有引力との相似仮説」が大体正しいとするなら、今回の特措法の目標である、人と人の接触を8割減らすには、人々の移動やゆくゆくは都市の人口密度を少なくとも現在の半分以下には下げる必要がありそうです。つまり、0.5x0.5=0.25ですから、半分より少し減らせば、引力≒感染力8割減である0.2に届くという計算です。
都市から田舎への人口の逆流は、しかし一気呵成には進まないでしょう。仕事と住居の問題を同時に解決しなければならないからです。新卒で田舎から都会に移り住む場合には比較的容易でしょう。職は事前に決まっているでしょうし、単身者が住む場所を見つけるのも比較的楽でしょう。しかし、今都会に住んでいる人が田舎に移り住むのは大変です。その中で、年金暮らしの高齢者であればまだ何とかなりそうです。田舎の空き家を安く斡旋する様な仕組みさえあれば、田舎なら年金だけで暮らすことも可能でしょう。結局、今都会暮らしをしている人たちの田舎との「地縁」がまだつながっているうちにこそ、田舎へのUターンがし易いのだと見ています。勿論、地縁が無くとも田舎側に受け入れ態勢があるのならIターンでもOKでしょう。ウィルス災害でも地震や風水害などの自然災害でも、都会にはそれに耐えて受け入れられるシェルターなど絶対構築できないのです。

 

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2020年4月 8日 (水)

3738 過剰反応2

コロナ対応で過剰反応を余儀なくされたのは、打つ手が後手後手に回ったからの様な気がします。日本より遅く流行が始まり急速に感染が広がった国々に比べれば、クルーズ船という「先行汚染スポット」を抱えていたという事情があったにせよ、海に囲まれているという恵まれた条件を生かして、水際で感染を抑え込むという作戦は、効奏してきた様にも見えていました。しかし、感染経路が特定できないといういわゆる市中感染が顕著になって来た時点で、欧州のいくつかの国やB国などの急速感染国のパターンに近づいたと判断すべきだったのでしょう。
つまり、これまでの水際作戦と感染経路の特定とその分断を図るという作戦に早々に見切りをつけて、市中感染の拡大に着手すべきだったという事です。例えば、クルーズ船を除く国内感染者の数が、1000人、あるいは2000人といった大台に乗ったタイミングを、IタリアやSペインやFランスといった感染加速国での同じ感染規模のタイミングと重ね合わせてみることで、最近の東京の感染拡大の予測が出来た筈なのです。この国には、何故か日本は他の国とは違う、といった根拠のない確信がまかり通っている様にも思えます。つまり、PCR検査数が少ない事が理由で、表面化した陽性者が少なかったという表面上の数字を、さながら真の陽性者も少ない事と同一視して、若者の外出を抑制しなかったツケが今回ってきたという事だと思うのです。
過剰反応は褒められた事ではありませんが、かといって戦時中のの様にやがて「神風が吹く筈だ」といった根拠のない楽観論はもっといただけません。
自動制御の分野では、変化が起こってから制御を始めるのでは、制御カーブからの逸脱(オーバーシュート)が生ずるのはイロハのイの常識です。一方では、感染の急拡大に対して同じオーバーシュートという言葉を使って警鐘を発しておきながら、緩い自粛の呼びかけだけしか発せず、明確な行動制限を行わなかったのは明らかに失策だったと言えるでしょう。オーバーシュートの現実を目の前にして、今慌てて制御(強い要請)を始めても、平均的潜伏期間である2週間のタイムラグは如何ともしがたく、私たちは過去2週間分のオーバーシュートを指をくわえて眺めるしかないのでしょう。事実として、東京では、陽性者が1000人から倍の2000人になるまでは10日要しましたが、それが4000人となるまでは僅か6日という様に加速中なのです。この国には、過剰反応を起こさぬように、予め手を打つ「転ばぬ先の杖」という良い諺があることを思い起こすべきでしょう。

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2020年4月 7日 (火)

3737 過剰反応?

コロナショックに関しては、どうも過剰反応の様な気がしてならない。勿論、全くの素人である投稿者の感想など全くあてにはならないが、たとえば生物学者のF岡伸一もその様にコメントしているので意を強くしている次第である。つまり、新型とはいえ今回のCVID-19も所詮「普通」のコロナウィルスと変わるところはない筈で、感染率や致死率などに差異はあるのでしょうが、荒っぽく言えばSARSやMERSと大同小異なのではないかと思うのです。もし、過去に流行性のインフルエンザに罹患して、不幸にして亡くなってしまった人をカウントし、感染者との比率(つまりは致死率)のデータあるとすれば、高齢者や基礎疾患のあるグループで見れば、実は大差がなかったりするのかも知れません。事実としても、SARSの方が重症率や致死率はかなり高かったのでした。
早急に必要な行動は、先ずは重症化を軽減する「既存薬」の特定作業でしょう。すでにいくつかの薬の治験が行われてはいる様ですが、マスクの全戸配布や経済対策の前に、何はさておいても国や民間の総力を挙げて、治験の結果を得るために努力を傾けるべきでしょう。残念ながら、免疫の低くなった高齢者層の重症化や死亡率が高くなる傾向は、如何ともしがたいでしょう。いわば、その様にして私たちのご先祖の多くもウィルスによる「スクリーニング」によって、寿命よりはやや早めに亡くなってしまった筈なのです。今の時代、確かに70歳で亡くなったコメディアンは早逝というしかないのでしょうが、かっては古希と呼ばれた年齢まで生きられたと考えれば、致し方ないと考えるしかないのでしょう。冷たい言い方の様ですが、実のところ投稿者自身も彼と同年代であり他人事とは考えてはいないのです。
東京都がホテルを借り上げて、軽症の陽性者を隔離する予定の様ですが、一つの正解でしょう。安静にして、通常の栄養を摂取すれば、通常の免疫力がある人であれば回復してめでたく免疫を獲得するでしょうから。勿論、隠れ陽性者や軽症者が歩き回って、免疫力の低い高齢者や基礎疾患のある人たちを広く巻き込んではなりませんが、これほど感染が拡大してしまったら、逆に免疫力が弱い人達を隔離する作戦に変更した方が正しくなるかも知れないのです。この様な人たちはウィルスを持っていませんので、暇になった旅館業などは喜んで宿泊を引き受けてくれるでしょうから不景気対策にもなるでしょう。基礎疾患のある人たちは間違いなく医療機関にお世話になっているでしょうから、把握も容易でしょう。問題は高齢者ですが、先ずは覚悟を決めてあとは治療薬やワクチンが出来るのを期待して待つしかないのでしょうね。無責任な様ですが・・・。

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2020年4月 6日 (月)

3736  人口密度

感染症が人口密度に応じた速度て拡散していくことは自明です。人から人にうつる病気が感染症ですから、人と人の距離が近いほど感染が広がりやすい訳で、人口密度の高い国、とりわけその都市部は感染の「巣」になり易いでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、感染症の広がりは人口密度に「比例」するのでないという点です。引力の法則からの単純な類推でも、引力(感染力)は距離の自乗に反比例しますから、単純な幾何計算でも人口密度が2倍になれば、人と人との距離が半分になる訳で、感染の広がりスピードは4倍になる計算です。ちなみに投稿者が住んでいる東北のA県では人口はほぼ100万人ですが、感染者は今のところ10人レベルに留まっています。一方で東京はと言えば、人口は1300万人を大きく超えていますから、感染数はA県の100倍(1000人)以上になっても不思議はない筈です。この類推がかなり正しい事は、東京の感染者累計がすでにほぼ900人に上っている事でも分るでしょう。
この国の首都の一極集中の度合いが、世界でもトップクラスであることは、かなり以前から指摘はされているのですが、それが解消するどころかますます酷くなる一方というのが現状でしょう。この春も、新規就労者や大学などの入学者が大挙して東京に向かった筈です。感染のリスクはさらに拡大した訳です。
コロナショックなどの感染症も一つの災害と考えれば、人口の集中は他の災害の被害をも増幅するはずです。例えば、関東を含む太平洋沿岸岸で起こるであろう次の震災です。また例えば、台風による高潮や集中豪雨による水害です。つまり、過密都市には災害の際に大勢の人たちが避難できる十分なスペースが無いのです。参考になるのは、戦時中に首都空襲が頻発した際に行われた疎開でしょうか。いまの時代、田舎には多くの空き家とガラガラの学校が目立ちます。ここでの結論としては、ソロソロ国の政策として、都市機能と人口の計画的疎開を真面目に考えてみるべき時期ではあると提言しておきましょう。

 

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2020年4月 3日 (金)

3735 サービス業2

かつて(投稿者の子ども時代)、人々は自分でできる事は全て自分でこなしていました。モノやお金が余り出回っていなかったあの時代、サービス業などと言っても思い浮かぶのは、床屋さんくらいのものだったのです。自宅から小学校に通う2㎞ほどの町の中心部の道すがらでも、覚えているのは数件の飲食業(そば屋と町で唯一の喫茶店)、洋品店、町に2軒しかなかった本屋の内の1軒、お菓子屋、自転車店などがパラパラと目に付く程度、そういえば少し横丁に反れると町で唯一の古い映画館がありました。あとは、トタン屋根屋さんが、何でも直してくれる鋳掛屋も兼業していたり、八百屋や魚屋やメガネを扱う時計屋や2軒あった小さなパチンコ屋が目に付く程度だったのです。
子供の頃習った社会科の記憶では、サービス業(いわゆる第三次産業)は、就労人口の1/3程度だった様な気がしますが、それが今の時代(2015年の統計)ではなんと7割以上にもなってしまった様なのです。割合として劇的に減少したのは、当然の事ながら第一次(主として農林水産業)、第二次産業(主として製造業)です。体力的にきついこれらの産業に比べれば、いわゆるサービス業は、手も汚れず体力的にも比較的楽な「商売」だと言えるでしょう。加えて、製造業などに比べれば、いわゆる原材料の仕入れも限定的でしょう。サービス業とは、いわばお金を貰って顧客の手足として、痒いところに手が届く様な「サービス(もてなし)」を提供する産業だと言えそうです。
しかし、非常時や災害発生後やそれに続く経済停滞時には、サービスを提供する側も被害者になってしまうのですから、それ(サービス)どころではなくなる訳です。コロナショックなどは、サービスを提供する従事者自身が感染のリスクに晒されますし、感染クラスターの起点にもなってしまうので、サービスの提供を「自粛」するしかないでしょう。つまり、サービス業は非常時には自粛できる、自粛させられる「脆い産業」であるとも言えるのです。
サービスを受ける側である私たちにできる自衛策としては、できる限りサービス業に依存しない生活を心掛ける事でしょうか。つまりは、取りあえず自分出来そうな事は自分でやってみるという事に尽きるでしょう。サービス業の従事者だって、かつては見様見真似の素人から出発した筈です。素人細工も数を重ねれば、徐々に商売人の様な出来栄えのセルフサービス(DIY)も可能となるでしょう。必要なモノは少しの道具とかなりの「根気」だけです。ぜひ、このコロナショックの機会に「セルフサービス業」を起業しましょう。やがては、それで他の人からお金がいただけるレベルまで技量アップができるかも知れません。

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2020年4月 2日 (木)

3734 サービス業

今回のコロナショックによる社会不安は、いわゆるサービス業について考えさせるものでもある様です。人は、どんな状況になっても食べて、寝て、排せつしない訳にはいかないでしょう。そのためには、食料や最低限の日用品の生産や配送・供給だけは不可欠な社会活動なのでしょう。一方、その様な生命維持に不可欠な活動ではない「モノの授受を伴わないサービス業」に関しては、当面はそれが無くとも生き延びる事が出来るため、真っ先に仕事が無くなる職業でもあります。具体的には、接客業やエンタメ産業、外食残業や観光・旅行・宿泊業などなどです。
サービス業の最大の特徴は、日銭で回っている産業であるという点でしょうか。毎日店を開け、固定客やフリの客が入り、料金を貰ってそれを人件費や翌日の仕入れに回してその事業が継続していきます。その事業が成り立つためには、いわゆる稼働率が最重要なファクターでしょう。例えば、旅客機やタクシーやバス・鉄道など旅客輸送業が成り立つためには、稼働時間の間で一定の率以上の客が利用する必要があるのは間違いありません。そうでなければ、燃料代や電気代や人件費や設備のメンテナンスなどの経費が稼げないのです。ざっと言えば、旅客機やバスなどの不特定多数の旅客を相手にする事業では、平均的には2/3以上の席が埋まっていないと商売としては成り立たないでしょう。
さて、サービス業です。サービス業は、いわば社会の余裕の中でこそ成り立つ産業ではないかと密かに思っています。人々に余裕がなかった時代(例えば戦後しばらくの時期)、旅行などは年に1,2回の一大イベントでしたし、外食なども何かのご褒美などのタイミングでしか楽しめませんでした。震災・原発事故ショックや今回のコロナショックの様に、社会の余裕がすっ飛んでしまう様な時代には、当然の事ながら社会の余裕も消えてしまう訳ですから、真っ先に不況の波に襲われる筈なのです。日銭で回っている産業などは、まさに日々の収入が消える訳ですから、仕入れも出来ず従業員の人件費もその日から払えなくなる訳です。ここでの結論は、社会に絶対必要なサービス業とそうでもないサービス業とは、社会と色分けして考えて行かなければならないでしょう。そうでなければ、ショックが続いている限り、その様な産業の損失分を税金を使って補っていく必要があるのですが、それが長く続けられる訳ではないでしょう。社会に必要な余裕部分のサービス業と、明らかにバブルとなっているサービス業は、社会としてしっかりと切り分けて進む必要があると思うのです。残念ながら、今回のコロナショックで切り捨てられる産業が出るのは致し方ありません。続きます。

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2020年4月 1日 (水)

3733  傾斜死亡率2

投稿者が3732で勝手に定義した傾斜死亡率ですが、ネットはすぐ「最適な言葉」を提案してくるものの様です。それは、「ブーマー・リムーバー(boomer remover)」というものです。直接的な意味は、ベビーブーマー(=団塊世代)を取り除くもの、などという意味ですが、確かに団塊世代は古希の大台にのってきましたので、今度のウィルスがその様な世代を「狙い撃ち」していることを上手く言い当てているとは思います。
しかし、敢えて裏の意味を憶測するなら、戦後頑張ってGDPを拡大し続けてきたブーマー世代は、今や「(現役世代から見て)社会の邪魔者」になってしまったとも読めるかも知れないのです。つまり、ブーマー世代が払った年金の積立金のかなりの部分は、それ以前の積立金をあまり払っていない世代の年金に消えてしまっていますから、ブーマー世代の年金のかなりの部分は、現役世代の積立金が使われてもいるのです。加えて、医療・介護にかかる国家支出(税金)は膨大な額に上っていますから、二重の意味で現役世代を苦しめている訳です。
その世代が、とりわけ基礎疾患のある高齢者から選択的に狙い撃ちされる訳ですから、穿った見方をすれば密かにそれを歓迎している人達、つまりは、年金の維持や介護医療費の天井知らずの上昇に頭を痛めている人達も居ない訳ではないでしょう。それも含めて皮肉ったのが、ブーマー・リムーバーという言葉なのだと思います。投稿者は、ブーマー直後世代でもあるので、ブーマーの気持ちも現役世代の気持ちの両方が理解できる立場だと思って居ます。その上で感ずるのは、少なくともベッドに括り付けられてまで100歳まで生きたいとはとても思えず、足腰が元気な内に超新型ウィルスか、心臓病等でアッと言う間にこの世とおさらばしたいという想いです。国民的コメディアンの肺炎死は確かに残念ですが、人生は70-80年生きれば十分でしょう。増してや、彼の様に自由奔放に生きられれば尚更です。もはや「新型コロナ、来るなら来い」という心境です。まだ百名山もコンプリートしておらず、少し命が惜しい年齢ではありますが・・・。

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