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2020年5月29日 (金)

3767  社会のゆとり

工学の常識でもあるのですが、一般に硬いものは脆いのです。アルミを打ったり曲げたりすると簡単に変形しますが、焼きの入った鋼の刃物は、刃こぼれしたり折れたりするでしょう。変形したり、曲がったりできるのは、材料を構成する結晶そのものが柔らかく変形しやすかったリ、あるいは結晶間に柔らかい組織が介在するからです。
さて、社会の柔軟性です。都市社会を眺めてみると、社会構造の中の柔軟性が極端に低くなってしまったと言うしかない状況だと思っています。かつて下町に残っていた(人情とも呼ばれる)共助の精神や仕組みも、地方からの流入住民割合の増加によってほぼ失われてしまったと言えるでしょう、典型的には大規模団地に見られる極端な高齢化によって、その傾向に拍車が掛かることも間違いないでしょう。この様なゆとりの無い社会を、大規模な自然災害(地震や津波や水害)または、今回の様な疫病災害が襲った場合、脆い社会は一気に崩壊に危機に直面することになります。都市では多くの住人は、賃貸住宅に住んでいますから、短い期間であっても収入が途切れてしまうと、そこを追い出されます。つまり、都市社会は巨大な自転車の様なものに例えられるかも知れません。自転車は、止まると倒れてしまうものだからです。
田舎の暮らしはかなり異なります。先ず、多くの人々は、自分の所有する家に住んでいます。少し郊外に行けば、多くの家々では自家消費する程度の畑を耕しています。古いコミュニティが残っている地区では、近所同士がモノを融通しあいますし、人間関係も密です。つまり、知らんぷりが出来ないのです。15年ほど前、新潟県の山間地が大地震(中越地震)に見舞われたことがありましたが、すぐに近隣地域からの手厚い支援の手が差し伸べられた様な記憶があります。3.11の震災や津波被害だって、もし原発事故が重ならなければ、かなりのスピードで復興が進んだことでしょう。
コロナ禍で顕著になった、都市社会の脆さですが、もし追い打ちをかける形で他の自然災害に襲われた場合を想定すれば、狭い避難所に多数の人達が、まだ終息しない新型コロナの影に怯えつつひしめいているという「地獄絵」がどうしても想像されてしまうのです。

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2020年5月27日 (水)

3766  アフターコロナ

何か大きな災害や事故・事件が一応おさまりつつある時期を指して「アフター○○」と呼んだりします。例えば、先の大震災・津波災害の後には「アフター311」などと呼ばれました。さてアフターコロナです。勿論、今回のコロナ禍は爆発的な感染拡大期こそ一段落したとはいえ、これから第2波や3波が来るのでしょうから、むしろコロナとの長期戦が始まったばかりというしかなさそうです。長期戦と書きましたが、新型にせよ旧型にせよ私たちは、ウィルスをせん滅する事とはでいません。私たちには、コロナと共存し、それに慣れていくしか道しか無いのです。かつて猛威を奮ったウィルス達、例えばSARSやMERSも今は、宿主となっている動物達の中に潜伏し、今のワクチンが効かなくなる様な「変異」の準備をしている事でしょう。
私たちが、過去のウィルス病や感染症の経験に学ぶべきなのは、取りあえずは肺炎の重症化のメカニズムを解明し、有効な対症薬を確保しておくことと、ワクチン開発の短縮化のノウハウを蓄えておくことぐらいし無さそうなのです。今のワクチン開発の主流は、生ワクチンや弱毒化ワクチンではなく、無害なウィルスの殻に新型ウィルスのRNAの一部を入れたものだそうですが、その手順を確立しておくという事です。
さて、医学の話はさておき、私たち市民にできるアフターコロナです。それはアフターコロナ後の暮らし方の修正でしょうか。3765では、そのKWを「ゆとり」であるとしましたが、もう一つ書くとすれば、それは「集中から分散へ」だと見ています。つまり、新幹線で結ばれた太平洋沿岸の「トランクベルト」への人口・産業・文化などの集積は、いかなるウィルスとの共存でも不利に働くでしょうし、大震災や津波や豪雨災害にも脆弱性を抱えたままになるからです。それこそリモートワークが可能な産業こそ、地方に出ていくべきでしょうし、モノ造り産業にしても、地方には空き地のままの工業団地も多い事ですから、自動化・少人化をさらに進めた最新式の工場に脱皮するチャンスと捉えるべきでしょう。ここで重要点は、大規模な工場を作るのではなく、分散したいくつかの中小規模工場のグループとすることです。それによって災害にも強くなり、BCPの可能性も高まる先ずなのです。

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2020年5月24日 (日)

3765  新しい日常2

新しい日常のKWをたった一言で言うならば、それは「ゆとりのある暮らし」という事になるのでしょうか。逆に言えば、これまでの私たちの社会はさながら「詰め放題社会」であったとも言えそうです。例えば、交通システムです。数分間隔で発車する新幹線や山手線に憑りつかれた様に乗り込む乗客や休日の繁華街や電気屋街やテーマパークでは、肩と肩をぶつけながら歩く人々、あるいはノロノロにしか進まない都市「高速(鈍足?)」道路や何十キロも数珠繋ぎになる様な高速道路、一日に何度も配送するコンビニトラックや宅配便、席と席が接近してギュウギュウ詰めの外食産業、稼いでも稼いでも月々のローンやクレジットの支払いに消える給料、狭いオフィスにギュウギュウ詰めの職場環境、猫の額ほどの土地にギリギリに建てられた狭小住宅、あるいは目も眩む高さのタワマン等々、その例には事欠かないでしょう。
しかし、コロナ禍は確かにその流れに大きな一石を投じたようです。ガラガラの新幹線や高速道路、行列に並ぶ人と人との間隔もレストランやカフェのテーブルのレイアウトもゆったりになりましたし、映画館や劇場やアリーナなどの椅子席は1個飛ばしになるでしょうし、観客総立ちで狂ったように叫ぶイベントも大人しくなるでしょう。
つまり、高度成長期以降からこれまではさながら「お祭りモード」だったと思うのです。最初こそ、お祭りは休日や連休などと言ったオフだけに限られていましたが、近年は都会に行けば平日でも、まるでお祭りの様な騒ぎが見られるでしょう。一度に千人が横断する交差点や、ゾロゾロと人の流れが途切れない何とか銀座や何とか横丁や何とか寺の参道、あるいは都会のラッシュ並みのテーマパークなどなど、至るところが毎日お祭りモードになっています。
そうではなくて、新しい日常には「ゆとり」こそが必要なのです。物理的な距離(Phisical distance)も重要ですが、何より心のゆとり(余裕、余白)も同様に重要でしょう。ネットが騒ぐから、他の人々が殺到するから、あるいはマスコミが騒ぐからといった理由だけで行動する、付和雷同が減れば、ココロのゆとりも増えてくると思うのです。「ゆとり」と「せわしさ」は、間違いなく逆比例するのですから。

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2020年5月22日 (金)

3764  新しい日常

新型コロナウィルスの症状に有効な薬が承認され、ワクチンが開発されたら、私たちの日常は、コロナ以前の様に、「浮かれた」ものに戻るのでしょうか。多分、10年後であればそうなるかも知れません。つまり、社会は土地バブルがはじけて痛い目にあっても、その後ITバブルが起き、それが一段落してもインバウンドバブルや五輪バブルで沸き返る訳ですから、バブルに付ける薬は無いと思うべきでしょう。
さて、新しい日常です。ウィルスは、そこここに潜んでいて、何時変質して伝染性かつ強毒性になって牙をむくか分からないことは、今度のCOVID-19の蔓延で世界中に知れ渡る事となりました。ジビエ料理の食材となる野生動物は、そうしたウィルスの宿主となっていることも十分理解されたはずです。つまり、これまでもインフルエンザ対策として行っていた衛生面の注意に加え、なんとなく人との距離を保ち、食べ物には十分火を通して、身の周りの目には見えないウィルスを減らしておけば、取りあえずは爆発的な感染だけは防げるでしょう。
いずれにしても、医療研究者に期待したいのは、ウィルス一般の複製の機序を解明していただき、それを阻害する薬を開発して貰う事です。たとえウィルスに感染しても、気道や気管支や肺での増殖を抑え込めれば、どの様なタイプの「新型ウィルス」が現れても、そんなに恐れる必要は無くなります。その上で、今回のウィルス禍で明らかになった、社会にとっての不要不急の活動や必要かつ十分な生活レベルを認識した上で、社会を挙げて新しい日常を作り上げる必要があると思うのです。

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2020年5月21日 (木)

3763  移動のエネルギー

今回のコロナ禍は、私たちが如何に頻繁に移動する生き物であるかという事を改めて認識させてくれました。それは、自粛によって人の動きが極端に抑制されてしまったことで、期せずして表面化してしまったのです。例えば、この国の人移動の「動脈」であった新幹線が、ガラガラの空席のまま徒に往復する姿を見れば、感覚的にもその異常さが際立つでしょう。東海道新幹線は、夏のピーク時には1日当たりなんと400本以上が運転されているというではありませんか。ターミナル駅では、数分毎に発着を繰り返すというまさに超過密ダイヤです。
根拠の無い推定ですが、これまで新幹線の座席を埋めて来たのは、多分半分ほどがビジネスでの移動で、残りは旅行のための旅行(物見遊山)だったと見ています。しかし今回の自粛によって、前者は8割以上減、後者はほぼゼロになった筈なのです。新幹線1本が東京から大阪に移動するのには凡そ1万kwhの電力が必要です。勿論一度に1000人以上の乗客を運べる鉄道は、航空機や車に比べれば、はるかに省エネの移動手段ではありますが、この電力は我が家の3年分の電力量に相当するのです。それが1日に400本ですから、なんと家一軒分の電力換算では1200年分を一日で消費する計算になります。勿論、新幹線網は全国に広がっていますので、その一桁以上の年数になる訳です。
更に、鉄道には在来線もあり、加えて船や航空機やトラックやバスや車での輸送や移動に費やすエネルギーたるや、気が遠くなるほどの天文学的数字になるでしょう。資源エネ庁のデータによれば、運輸部門のエネルギー消費は、全エネルギー消費量の1/4程度にも上るとか。その8割を輸入される化石燃料(石油、石炭、天然ガス)で賄われているのです。人の移動だけでも、今の半分になれば多分この国の消費エネルギーは10%は減るでしょう。移動半分・エネルギー消費半分とは言っても、例えば1970年代の中盤程度の生活に戻るだけですから、その時代を経験している投稿者世代にとっては容易に想像できる時代でもあります。そんなに不便でも、そんなに不自由でも、ましてや不幸ではなかったと振り返っています。むしろ、将来の夢があって、明るくウキウキした時代でもあったのです。移動やましてやエネルギー消費量と人々の幸福度は比例しないどころか、もしかすると逆比例している可能性もありそうです。

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2020年5月20日 (水)

3762 コロナという「生き物?」

(コロナ)ウィルスは、生物学的な意味では「生き物」ではありません。DNAという生き物としての設計図を持っていませんし、他の生物に取り付かない限り単独では増殖も出来ないからです。しかし、太古の時代から、つまりは生き物が地球上に誕生して以降、ウィルスは生物と共に「生き」、時には、生物内に取り込まれながら、しかし巧みに変容しながら生き物の免疫システムを掻い潜って生き延びてきた訳です。
ポイントは、ウィルスの持つ忍者の様な変わり身の早さでしょうか。免疫システムは、ウィルスの外皮の凸凹を認識して、それが(既知の)ウィルスであるか否かを判定し、Yesであれば速やかに攻撃して駆逐する訳ですが、未知のウィルスの場合は、それを見逃し、体内での増殖(=感染)を許してしまう事態になるのです。ウィルスは、その外表面の性状の変化によって、同じような症状、例えば上気道に取り付いて、発熱や咳の症状を引き起こしたりするありふれたコロナウイルスであっても、新たな「型」となって、新たな流行を生み出すことが可能となるのです。
しかし、ウィルスの種類によっては、肺の内部にまで入り込んで症状を引きおこす、今度の新型ィルスの様な種類があることが厄介の原因となっている様です。SARSやMERSといった肺炎ウィルスがその類に当たります。肺の奥深くに存在する肺胞は、血液と空気の酸素⇔二酸化炭素交換を司る重要な器官であり、それが炎症を起こした時の症状は、まるで溺れている人が感じている「息苦しさ」と同じであろうと想像しています。つまり、酸素が豊富な空気を呼吸していながら、溺れている様なものなのでしょう。
我々の免疫システムが、自らの力で或いはワクチンの助けを借りながら、一日も早く新型ウィルスへの免疫を獲得する日を待ちたいと思いますが、一方でこの種のウィルスは、次には「新々型ウィルス」へと変容する機会を虎視眈々と狙っているのも間違いない事実であることは銘記すべきでしょう。まるで、生物とも呼べないウィルスが意志を持っているかの様です。

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2020年5月18日 (月)

3761  近自然学の立場2

紹介が後になってしまいましたが、「近自然学」とはスイス在住のY脇正俊が提唱した、人間社会と自然との関わり方を説明する概念を論ずるもので、具体的には自然と人間社会との境界、林地や草原や河原や里山などの人間の手が入った自然を近自然と定義しています。その中で、人間が用いて良い技術は、いわゆるローテクを基本に据えますので、当然の事ながら使える(使って良い)エネルギー源も規模の小さな再エネに限定されることになります。その意味では、大型の風力発電やメガソーラー発電などは否定されます。一方で、戸別の屋根ソーラー発電は問題無しとする立場です。
近自然学のもう一つの立場として、人間社会と自然を広く捉えて、問題の所在を考えるという点があります。つまり、洪水が発生するから堤防を高く、厚く補強するのがこれまでの人間社会中心の治水の考え方だとすれば、近自然学的な立場から見ると、洪水が起こるのは山の保水力が低いことが理由であり、針葉樹中心の林業ではなく、広葉樹や針葉樹と広葉樹のとの混交林とすることによって、林床の保水力を高めることができ、合わせて根を深く張る広葉樹によって、広い面積の倒木を防止できると考えるのです。
人間社会だけからの視点では、自然は制御しがたく、それと付き合うのは面倒だと考えがちになりますが、一方で我々のご先祖様たちは人力だけを使って、しかし気が遠くなるくらいの長い年月を費やして、山に木を植え、棚田を起こし、防風林や防砂林を増やし続けて来た筈なのです。それは決して人間と自然との戦いなどではなく、自然に寄り添い自然と共生するための「近自然の整備」に他ならない行動だと言えるでしょう。結局、近自然学のエッセンスとは、自然を良く知り、人間社会と自然との距離を近く保ちながら、しかし自然に与える負荷は最小限に抑え込むという「持続可能な共生関係」を重視するという立場に立つ学問だと言えそうです。

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2020年5月14日 (木)

3760 近自然学の立場

余りメジャーではありませんが、近自然学の立場は、投稿者の考えに非常に近いため、注目してきました。その考え方は、天然自然と人間の活動に境界を想定し、特に人間の活動に近い自然を「近自然」と呼び、それを自然との折り合いがつくレベルで利用しようとするもので、基本的にはその使用で環境への相当の負荷を与えるハイテクを否定し、ローテクを基本に据えようとするものです。例えば、その製造に相当の資源やエネルギーを消費する太陽光発電は否定しますが、一方で太陽熱の利用は奨励します。里山や森林の材としての持続的利用は歓迎しますが、バイオマスを直接的に燃焼させて行う大規模なバイオマス発電は否定するのです。
つまり、あくまで自然を持続的な形で利用するとは否定はしないのですが、自然を何か一つの「資源」であるかの様に扱い、自然から「収奪」することは許さないという立場なのです。その意味で都市は、人間が一度全ての自然を完全に破壊してから、改めてコンクリートや鉄や、アスファルトで、街や商工業地域を建設し、オマケとしてささやかな自然っぽい公園や緑地などを「建設」した場所ということになるのでしょう。
田舎では、水田などの農業は、稲作が始まって以降数千年も続いている地域もあるのでしょうから、近自然的な営みであると言えるのでしょうが、近自然学からは、諸外国で行われている様な、地下深くの化石水や河川水を過剰に使った灌漑農業は否定されるべきでしょう。何故なら、これらの「反近自然的」な農業は、数年乃至は数十年内に、水資源の枯渇によって息詰まることが明らかだからです。自然から補給される量以上の水使用は、自然からの水資源の収奪に他ならないのです。
近自然学も投稿者の立場も同じですが、私たちは、自然と人間社会の間の距離を縮め、必要最小限のレベルかつ「持続可能な形で自然を利用させて貰う」以外にないと思うのです。当然のことながら、わたしたちのご先祖はその様に暮らして来た筈ですが、戦後取り分け高度成長期以降の人間の驕りは、どうやら限度をかなり越えているというしかなさそうです。

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2020年5月12日 (火)

3759 コロナ雑感

今回のコロナ禍に限らず、凡そ災害というものは、平常時には水面下に隠れていた岩礁(問題点)を露わにする様です。自然災害による社会活動の減速や停止は、多分破壊されたインフラの復旧や仮設住宅などの整備によって正常化しますので、被害者もある程度の見通しが立ちます。災害列島でもあるこの国は、地震・津波、火山や洪水に至るまで、数多くの多様な自然災害を経験してきましたので。災害訓練もそれなりに行われてもいて、ある面では慣れてもいるでしょう。しかし、今回の様な病原菌・ウィルスによる「人為的な」活動の停止に関しては、これまで想定も予行演習も行われておらず、想定外だったのです。それが極端に表れたのが、医療システムと経済活動ではないかと見ています。
医療面で言えば、この国の病院が持つベッド数は、世界でもトップレベルの充実度だと言えます。しかしそれは主に、高齢者など重篤ではないが動きづらい患者が長い期間入院生活を送るためのベッドであり、いわゆる感染症に対応した個室や陰圧室ではない訳です。そのため、今回のコロナ禍では、苦し紛れとも言えるPCR検査数の抑制によって、重症者のみを選別するという「日本式」の陽性者検出策を取ったのでした。それは、諸外国の様に取りあえず陽性者を発見し、急造の病院に隔離するという方式に比べ、軽症の陽性者を市中に放置するのでオーバーシュートのリスクも高いのですが、この国の国民が得意な「規律を守る」特性と何故か低いまま推移している死亡率に助けられて、いわゆる医療の底の浅さによる医療崩壊は起こしていないのは思わぬラッキーとしか言えないでしょう。
一方、3759でも言及した様に、ストックの極端に少ないフロー経済社会は、今回の様な「経済の急ブレーキ」には極端な弱さ露呈してしまった様です。ヒト、モノ、カネの流れが突然止まったしまった今の経済社会は、何しろストックが極端に少ない訳ですから、在庫がすぐに底を尽き、モノ不足が生ずる訳ですが、幸いにも食料生産や物流の減速は限定的だったので、見かけ上ではマスク不足以外のモノ不足騒ぎは避けられました。しかし、出口のフン詰まりによる問題、例えば学校の休校になどによる食材のダブつき、石油の値崩れ、極端なヒトの移動の制限、同様に殆どのサービス業の活動停止(抑制)などに伴う、今の経済の底の浅さを露呈してしまったのは否めません。これを絵として描くなら、確かに経済の海は広大な広がりを見せてはきたのですが、その海は浅く、水面下には多くの岩礁(課題)が見え隠れしている様として表現できそうです。その浅い海を、岩礁をどうにか避けながら巨大なタンカーや貨物船や客船がひっきりなしに往来しているという絵です。

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2020年5月11日 (月)

3758  フロー社会

昨今のフリーズしつつある社会の状況を見るにつけ、今の時代は、ストックを軽視したフロー社会になってしまった様な気がします。兎に角、ヒト、モノ、カネが常に動き続けなければ社会活動が成り立たなくなっているのです。今回のコロナショックでは、その流れを強制的に急停止する事が要請された訳で、社会のあらゆるエリアで混乱が生じています。フローを前提にデザインされた社会では、例えば石油です。この国の石油のストックは、多分6か月以上はあるのでしょうが、このストックは決して「ローリングストック」ではなく、いわばイザという場合の貯金という意味合いです。例えば戦争などが理由で、産油国からの輸入がストップしても沈静化するまでは国内の石油供給のストップが避けられる訳です。これは、前の石油ショックから学んだ知恵でもあったのです。
しかし、今回のコロナショックは逆の意味で石油ショックです。つまり、ガソリンが売れなくて出口が詰まってしまった状況なのです。出口が詰まれば、石油流通も滞り、結果的には製油所も動かせず、そこに原油を運ぶタンカーも止まってしまい、結果としては石油の採掘場もバルブを絞らざるを得ないのです。つまり、石油の流れ(フロー)が滞ってしまい、システムの機能不全が生じているのです。どこかの石油市場では、価格がマイナスを付けたとか。つまり、産油国なり企業は、お金を払うので原油を引き取ってくれと懇願している状況なのです。
同様の事は、基本的な食料需給を除いては、全てのヒト、モノ、カネに関わるセクターで生じている事でしょう。少し事情が異なるのは、情報産業でしょうか。ヒト、モノ、カネがあまり動かない状況で、情報は逆に活発にやり取りされる筈です。何故なら、今の状況では人々は家に籠もりながら、しかし情報には餓えているからです。しかし、ヒト、モノ、カネのフローが伴わない情報だけの移動や消費は空しいもので、やがて人々は情報だけの流れに飽いてくることでしょう。情報だけでは目や耳という二感は満足するかも知れませんが、味覚や触覚や嗅覚などの三感やそれが関わる欲求は充足されないからです。実際の匂いも感じられるパソコンや画像の中の物体に触ったり味わったりする事が出来る機械などは、多分今後も出来ないでしょう。つまり、二感と三感との間のせめぎあいにより、人々は強いストレスを感ずる筈なのです。
フローの話から少しズレましたが、いずれにしても今の時代、社会の仕組みは全て、ヒト、モノ、カネのフローを前提に設計されているため、今回のコロナショックはそれを一時的に止めてみる「壮大な社会実験」をしていると考えてみる必要がありそうなのです。

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2020年5月10日 (日)

3757 ISSの退役

ISS(国際宇宙ステーション)は、長い間人類の夢であり続けました。B国を主体に、世界各国の多くの宇宙飛行士や科学者を送り込んで、多くの宇宙空間での作業や無重力下の実験を可能としてきたのです。地上では実現できない完璧な合金を作ったり、重力下では合成できない薬剤を作ったり、植物やメダカなどの動物を無重力下で育てる実験などなどです。しかし、それらの実験の全てを実行するに当たっては、とてつもない金額の予算が必要だった筈です。何しろ、宇宙飛行士の往復の運賃だけでも、それこそ「天文学的」な額に上るでしょう。加えて、絶対に故障しない金やダイヤモンド並みに高額な機材が必要です。宇宙飛行士の滞在に必要な光熱費や食費などもバカにできないほど高価だと想像しています。
しかし、宇宙飛行士がISSから地上に持ち帰ったものは?と改めて問われれば、それらの研究成果が何か重要な民生品に利用されて、製品化されたなどという話は寡聞にしてついぞ耳にしたことがありません。成果主義という視点から見れば、これまでISSで費やされた予算の殆どが「無駄カネ」だったと切り捨てられても仕方がないでしょう。
一方で地上に目を転ずれば、世界中でコロナ禍で痛めつけられている現状があります。地上の問題の山積を放置して、これ以上見果てぬ夢である宇宙空間に無駄なお金を捨てるのは許されない「贅沢」だと思っているのは投稿者だけではないでしょう。ISSの最初のモジュールが打ち上げられてから既に20年以上経過しています。強い宇宙線や紫外線に直接晒されるISSは、劣化も進んでいるでしょうし、宇宙飛行士の安全という面でも問題がありそうです。
私たちは、ソロソロ見果てぬ宇宙への夢を捨てて、足元に山積している問題点の解決に向けて、国際協力もしながらしっかり取り組むべき時期に来ていると思うのです。これ以上子供たちの宇宙への夢を「煽る」べきではありません。そうではなくて、足元の(いわゆる環境問題を主とする)問題に着目し、それを解決するための知恵を出し合うために、社会の力を集中する努力を必要があるのです。ぜひ近い内にISS(宇宙アパート)を空き家にしたいものです。

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2020年5月 9日 (土)

3756  ゴールの無い駅伝

考えてみれば当然すぎる事ですが、私たちの体は両親からの贈り物です。その両親も、その親たちから体を授かりました。つまりは、地球上に1個の生命体が誕生してから連綿とつながる命のリレーの駅伝ランナーの一人として、今タスキを掛けながら走って(歩いて)いる訳です。勿論、ヒト等に比べれば、もっと長いリレーを行っている生き物(例えば植物や原始的な生物)も数多い事でしょう。そう思えば、今自分がここに生きて(生かされて)いることが何か奇跡的な事のようにも思えてきます。
勿論、何らかの理由(結婚しないとか、子供が出来ないなどの理由)で自分の代、または子供の代でこの命のリレーが途切れてしまう場合もあるでしょう。むしろ、現代社会では、特に強い理由も無しに、独身を通す人たちの割合が増えている様です。結婚し、子孫を残すことだけが人生の目的ではありませんが、取り分け経済的な理由で未婚者が多いのであれば、それは社会的な不幸と言うしかないでしょう。社会とは、人々が寄り添って生きることによって、より生き易くなるための仕組みであった筈なのですが、それが今は逆に多くの制約の原因になっているのは、もはや人類の不幸と言うしかないでしょう。
かといって、Aフリカ諸国の様に、計画性の無い多産社会となってしまっては、食う事に追われてしまい個々人の福祉などは犠牲にならざるを得ないでしょうし、社会をデザインするのもなかなかに難しい作業ではあります。勿論、上記の意味においては人類は当然として、生き物全ては皆兄弟と呼んでも構わないでしょうから、ある家の(あるいはある民族の)血筋が途絶えてしまったとしても、生物の長い歴史の中では、取るに足らない話なのかも知れませんが・・・。ともあれ、最近駅伝ランナーの一人としての自分を意識する様になったのは、もしかすると歳を重ねた所為なのでしょうか。

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2020年5月 7日 (木)

3755 旅行と旅

旅行と旅の違いについて時々考えます。投稿者の中では、前者は到着地でのレジャーが目的であり、その移動過程は単に手段でしかないと想像しています。旅行で利用した列車や飛行機の中での数時間の出来事など殆ど記憶にも残らないでしょう。一方で、後者は移動の過程そのものが楽しみであり、旅の徒然に見・聞き、味わうものが全て旅の記憶として長く残ると思うのです。
さて、現代社会での生活を、旅行や旅に例えてみましょう。旅行の様に慌ただしい生活をおくっている人達は、毎日が列車や飛行機での移動時の様な、味気ない生活を送っているのではないかと同情せざるを得ません。通勤時のすし詰め電車に乗っても、かわりばえのしない車窓の風景と下手をすれば毎日同じ車両に乗り合わせる何人かの「顔馴染み」を見ても、何の感慨も感じていない可能性もあるでしょう。何故なら、通勤は職場に向かうための「移動手段」でしかなく、毎日毎日通勤をわざわざ「旅」として楽しむ余裕など無いのかも知れません。
しかし、人生そのものも含め、私たちは日々旅の途中にあると考えた方が、精神的には気が楽になりそうな気がします。人生の究極の目的など無いか、あっても多くの場合は「夢」に終わってしまうものでしょう。もうすぐお迎えが来る間際、自分の人生はどうやら「人並みには幸せだった」と振り返ることが出来れば、それで十分でしょう。たとえ何らかの事情があって、やや人並みからは外れた場合でも、その人なりに幸福を感ずることが出来れば、それでも十分な筈だとも思います。
そう考えれば、旅行は目的に向かって能動的に行動することが求められますが、目的を達してしまえばそれでオシマイですが、一方で旅は日々の出来事を味わい、できれば楽しむことが目的(の様なもの)ですから、どちらかと言えば成り行き任せで、受け身で行動すれば良いだけです。その中で、自分が生き易い様に、工夫して「戦う・逃げる・耐える」というモードを切り替えながら、旅路をゆっくりと(自分のペースを守って)進むだけだと思うのです。できれば楽しみながら・・・。

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2020年5月 6日 (水)

3754  再エネ100

東北地方の再エネ率 (デマンド/発電量)が一時的にですが65%に達した様です。定常的でも50%はかなり超えている筈です。F島では、原発など建設しなくても奥只見の水力だけで自給率100%だった訳で、加えてA森、A田、Y形の海岸線に立ち並ぶ風車群が加わって、地域の自給率を高め続けてきたのでした。
勿論、現在の路線のままでも、ジワジワと再エネは増え続けるのでしょうが、ポストコロナ後の産業構造として、サービス業への過度な集中から、「実業」へのシフトは加速する必要があるのでは無いかと思うのです。サービス業とは、荒っぽく言えば、「コトを提供し消費させる」産業なのですが、一方で実業とは「モノを生産し、提供しそれを消費させる」産業だと定義しておきます。当然の事ながら、サービスの提供においても、モノやエネルギーは消費します。運送業や旅行業などが好例でしょう。モノや人を運ぶにも多大な人件費を中心としたコストやエネルギーの消費が伴うでしょう。
サービス業が不要な産業であるなどと主張するつもりは毛頭なく、今の社会には不可欠なのですが、しかししかし、割合にして2/3もの労働者を従事させる産業ではないと言っているだけなのです。サービス産業の充実のため、どれだけ1次産業や2次産業の労働力が吸い上げられ、それらの産業が衰退してきたかを思い出すべきでしょう。これらの産業は人手不足故に、廃業や海外生産を余儀なくされ、衰退を続けて来たのです。
再エネ産業こそ、地域産業として適する産業の一つだと言えるでしょう。何故なら、それは「地産地消」産業の代表だからです。地産地消産業とは、言葉を代えるとお金が地域内でグルグル回る仕組みだとも言えるでしょう。お金が回れば、地域に人が増えて、活気も戻るという循環に入るでしょう。T京一極集中から地方分散の流れも定着する筈なのです。コロナ禍は、再エネ100をテコに、同時に地方分散も加速させる千載一遇のチャンスだと思うのです。

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2020年5月 5日 (火)

3753 新しい生活様式

コロナ禍に対応するにはなんでも「新しい生活様式」が必要なのだとか。学者先生の定義は、色々な例を挙げているが、何の事は無い「8割おじさん」の数字を実現する様に行動することを求めているだけなのです。そんな事は、実は田舎ではとっくに実行済だと言いたい。つまり、投稿者が今住んでいるA田県とT京都を比較してみると、人口密度で言えば、後者が70倍も「密」なのです。逆に言えば、前者の人口密度は後者のたった1.4%に過ぎないという事になります。
8割おじさんの提言に従うとして、数字的にはT京都の人口密度を現在の2割まで減ずれば、それは実現可能でしょう。しかし、現在首都圏に住んでいる人たちの10人の内8人が地方に移り住むというのは、なかなか想像できない光景でしょう。一方で、例えばA田県では毎年1%(約1万人)割合で人口が減り続けている現実があります。その半数は、高齢者が亡くなる数ですが、残りは首都圏への進学や就職による転出によるものです。他方で、首都圏といえども高度成長期に地方から首都圏に移り住んだ人たちも高齢者となり、首都圏の高齢者施設や高齢者病院に「密」に詰め込まれ始めてもいるのです。その様な施設が、次々に新型コロナのクラスター源になったことは、日々のニュースでも伝えられてきました。
高齢者にとって、では何処が済み易いかと問われば、言わずもがなですがまだ縁故者も住んでいるだろう出身地(田舎)でしょう。それらの人達が、残りの人生を過ごすために田舎に「戻り」空き家を埋める様になれば、たとえそれが高齢者であっても、地方は活性化し、それらの人達を介護する若い世代も同時に移り住む流れも作りだすでしょう。
ここでの結論としては、専門家や国が推奨する「新しい生活様式」の実現など実は簡単な話で、つまりは「田舎に帰ろう」というキャッチフレーズ一言で済むと言っておきます。

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2020年5月 2日 (土)

3752  自粛慣れ社会

コロナ自粛期間がさらに1か月間延長されそうです。世の中は、いわゆる自粛疲れが蔓延している様ですので、多分多くの人々がウンザリしている事でしょう。しかし、ものは考えようです。つまり、コロナ自粛とは、生きていくための最低限の活動を要求している訳で、それ以外の「余計な」活動は、コロナ感染のリスクを高めるという理由で、私たちがそれを自発的に制限することを要請しているのです。
さて、何が必要最低限で、何が余計な事であるかは、実は各人の価値観によってかなりの開きがあるとは想像しています。つまり、毎日の様にグルメな外食を楽しみ、連休毎に出歩き、長い休みには海外旅行を楽しんでいた向きには、今の自粛は多分息が詰まり、耐えられない「自粛疲れ」の状態に陥っているのは間違いないでしょう。
しかし、極端な例ですが家業として、牛や豚などの家畜を飼っていて、あるいは農家が栽培や収穫に手の掛かる作物を育てている人たちしてみれば、今「自粛」と呼ばれている活動レベルなどまさに造作もない話でしょう。彼らにしてみれば、年に1,2度の泊りがけの旅行や娘、息子家族の里帰りさえあるなら、毎日の朝から夕方までの単調な作業には十分耐えられるのでしょう。また、家畜の飼育には、家畜の出産や成長など、農作物には収穫・出荷という楽しみやイベントもあるでしょうから、必ずしも「単調な作業」でもないのかも知れません。
つまり、サービス業従事者やサラリーマンの様に、ほぼ決まり切った労働の代価として給料を得ている人たちは、給料の代償としてかなりのストレスを感じている可能性があり、その補償(Conpensation)として、何等かの或いは複数の「息抜き」を求めている可能性がありそうなのです。これは、投稿者の経験でもあるのですが・・・。その息抜きを、コロナ自粛で制限されることが、すなわち自粛疲れに繋がっていると想像しています。それらの息抜きには、バチンコ、競馬、コンサート鑑賞などのレジャーやイベントの「消費」も含まれるでしょうし、飲み会などの人同士の交流も含まれるでしょう。それらの「息抜き」のほぼ全てに自粛を求められる訳ですから息が詰まり疲れるのでしょう。
環境人間である投稿者が、密かにコロナ自粛後に期待しているのは、人々の「余計な活動」による消費レベルが下がり、より穏やかな日常生活に落ち着く事なのです。つまり、それはいわゆる消費社会のレベルを下げる事に繋がり、結果として資源の節約や環境負荷を下げる事にもなると期待しているのです。その状態を自粛慣れと呼ぶなら、ぜひ世界中の(特に先進国)には、「自粛慣れ社会」にソフトランディングすることを期待しますし、途上国には徒に先進国を模倣するのでなく、自国の伝統的な暮らしでの必要最小限のレベルを再確認して貰いたいのです。

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