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2020年5月24日 (日)

3765  新しい日常2

新しい日常のKWをたった一言で言うならば、それは「ゆとりのある暮らし」という事になるのでしょうか。逆に言えば、これまでの私たちの社会はさながら「詰め放題社会」であったとも言えそうです。例えば、交通システムです。数分間隔で発車する新幹線や山手線に憑りつかれた様に乗り込む乗客や休日の繁華街や電気屋街やテーマパークでは、肩と肩をぶつけながら歩く人々、あるいはノロノロにしか進まない都市「高速(鈍足?)」道路や何十キロも数珠繋ぎになる様な高速道路、一日に何度も配送するコンビニトラックや宅配便、席と席が接近してギュウギュウ詰めの外食産業、稼いでも稼いでも月々のローンやクレジットの支払いに消える給料、狭いオフィスにギュウギュウ詰めの職場環境、猫の額ほどの土地にギリギリに建てられた狭小住宅、あるいは目も眩む高さのタワマン等々、その例には事欠かないでしょう。
しかし、コロナ禍は確かにその流れに大きな一石を投じたようです。ガラガラの新幹線や高速道路、行列に並ぶ人と人との間隔もレストランやカフェのテーブルのレイアウトもゆったりになりましたし、映画館や劇場やアリーナなどの椅子席は1個飛ばしになるでしょうし、観客総立ちで狂ったように叫ぶイベントも大人しくなるでしょう。
つまり、高度成長期以降からこれまではさながら「お祭りモード」だったと思うのです。最初こそ、お祭りは休日や連休などと言ったオフだけに限られていましたが、近年は都会に行けば平日でも、まるでお祭りの様な騒ぎが見られるでしょう。一度に千人が横断する交差点や、ゾロゾロと人の流れが途切れない何とか銀座や何とか横丁や何とか寺の参道、あるいは都会のラッシュ並みのテーマパークなどなど、至るところが毎日お祭りモードになっています。
そうではなくて、新しい日常には「ゆとり」こそが必要なのです。物理的な距離(Phisical distance)も重要ですが、何より心のゆとり(余裕、余白)も同様に重要でしょう。ネットが騒ぐから、他の人々が殺到するから、あるいはマスコミが騒ぐからといった理由だけで行動する、付和雷同が減れば、ココロのゆとりも増えてくると思うのです。「ゆとり」と「せわしさ」は、間違いなく逆比例するのですから。

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