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2020年6月23日 (火)

3779  休稿

世の中に何の影響もありませんが、明日からトレッキング遠征のため当分休稿です。

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3778  終活2

この歳(間もなく古希)になると、人生の締めくくり方を時々考えます。百名山を踏破してしまうと、当面の大きな目標も無くなり、燃え尽き症候群になるかも知れません。取りあえずは、鳥海登山100回などと新しい目標を立てて、それなりに生きていくのでしょうが、やはり何かしらの「自分が生きた証」を残したいとも考えるのです。「それ」は何らかの形で、後の人々の役に立ち、「あって良かった」と思われる様な形のあるものを残すのが理想ではあります。実は、「それ」には今のところ、2つの候補があります。
一つ目は、デシカント冷房機です。デシカント(乾燥剤)を使って、部屋の空気の湿度を連続的に下げて、一方では超音波加湿器で加湿をして気温を下げるものです。デシカントを使った除湿器と言う製品は今でも販売されてはいますが、投稿者が考えているのは、デシカントの再生を電熱ではなく、太陽熱で行うもので、デシカントや熱交換器はやや大きくはなりますが、必要な電力は送風機やローター用の小さなモーター用だけなので、数十ワット程度で済むでしょう。太陽熱は、内部を黒く塗った簡単なガラス箱で得られますから、1kw程度の消費電力のいわゆるエアコンに比べれば、1/10以下の電力で涼しさが得られることになります。しかも、太陽がカンカン照りの日ほど、部屋の温度を下げる事が出来るの訳です。
もう一つは、ペレットフィーダーの開発です。あまりメジャーではありませんが、ペレット燃料が手に入り、冬季にストーブ暖房が必要な地域では、ペレットストーブがジワジワと普及しています。しかし、投稿者自身もペレットストーブの試作をしてみましたが、鉛筆の消しゴムの様な形(円筒形)のペレットを定量送る仕掛けが結構大変なのです。一般には、螺旋のフィーダーで送るタイプが殆ど(全部)の様ですが、投稿者が考えているのはペレットを縦向きに並べ替えて、細いステンレスのパイプの中を送る様なフィーダーなのです。これで何が良いかですが、例えば既存の薪ストーブの横に小さな穴を明ければ、薪ストーブが即ペレットストーブに早変わりする訳です。新しくペレットストーブを開発する場合でも、ストーブ本体とフィーダーを別置きにすることができ、薄型デザインのストーブも実現でき、火事に対する安全性も向上するのです。
今2つ目の開発プロジェクトは動き始めていますが、前者は残念ながらまだ頭の中にしかありません。先ずは百名山を踏破して、仕事もグンと減って毎日が日曜日になったら本格的に取り組むつもりです。

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2020年6月20日 (土)

3777  ミニ終活?

古希を目前にして、同年代の知人のFB投稿をみて、自分も「終活的な事」を始めようと思いました。手始めは小さなことから、です。先ずは、長年購読していた環境関係の雑誌の継続案内が来ましたので、次号で打ち切りにすることにしました。3年毎の自動継続で申し込んでいましたが、貧乏な身には結構な出費にもなります。確かに、最新の環境関連の情報は入りますが、企業人でもない身には、フンフンと言う感じで読み流していた様な気がします。少し寂しい気はしますが、環境人間を志して以降の十数年間の購読にピリオドを打ったのでした。
終活の第2弾は、百名山の踏破コンプリートです。年齢が若い内にと、体力的にハードな山は殆ど潰したのですが、コンプリートまでにはまだ15個残っています。天気が悪かったなどの理由で、再度登りたい山もありますから、今年と来年くらいには何とか踏破したいと密かに考えています。百名山踏破の終盤に向けて、先ずは来週からアクセスの大変な九州シリーズをコンプリートする遠征に出る予定です。
既に完了したこともあります。40数年ぶりで故郷にUターンして、少しローンは組みましたが、終の棲家となるコンパクトな家を建てました。家から鳥海山が見える場所に土地を求めましたので、その日の天気と仕事の予定を眺め、無風快晴で仕事が入っていない日に(大体月に2回程度)はお山に登る事が出来る生活を送っています。
それと、こともの頃遊んだ小高い丘陵地に、市が開いた墓地を買いました。数回の売り出しの内の最終回でしたが、団塊の世代の旺盛な需要?で、10区画以下しか残って居らず、墓石タイプの条件の付いていない最後の区画を何とか購入する事が出来ました。ギリギリ滑り込みセーフです。
パソコンの始末は結構大変です。古くなって、起動時にガタピシと音が大きくなったデスクトップパソコンを諦め、一応最新のノートパソコンに乗り換えて、データ移行も完了しましたが本体の処分はまだです。また、仕事用の持ち歩きノートパソコンもあり、数百GBに膨らんだデータを調べて、残すデータと捨てるデータの選別が大変です。とは言いながら、残したデータを家族が閲覧・参照するとも思えないので、多分写真データ以外は全てごみ箱に入れて消去する事になるのでしょう。
さて、15年ほど続けているブログと、8年になるFBのタイムラインはどうすべきでしょうか。今から悩ましい問題ではあります。

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2020年6月17日 (水)

3776 お金とは2

お金は、3775で考えたように、価値交換の媒介手段であり、それ以外の何者でもなかった筈なのですが、近年はお金自体が価値そのものであり、それを如何に多く所有するかに人生の目的であるかの様に考えていると思われる輩が増えた様な気がします。ある調査で、実際の年収と幸福度の関係について調査しか結果を見ましたが、450万円ほどの年収に最大の幸福度の山があり、それ以上ではプラトー(高原)状態が続き、それ以上の高額所得者ではむしろ幸福度は低下していく傾向が見られたようです。
生活していく上で、あまり過不足のない所得があり、しかしそれなりに若くて、将来の所得の向上も期待される立場の人たちは、確かに幸福度は高そうです。つまりは「右肩上がりの幸福」です。しかし、そんな立場になったことはありませんが、必要以上の高額所得者は、結局はそれを「守ろうとするストレス」も掛かってくると想像され、結局幸福感にはつながらない様に想像してしまいます。
くり返しますが、お金は価値交換の手段でありそれ自体が生きる上での価値を代表するものではありませんし、ましてや幸福度の物差しにはなり得ません。大切な事は、お金を介してか、出来ればそれを介さずに、人生の生き甲斐=幸福を手に入れる事だと思うのです。取りあえずは、若いうちに中古でボロでも自分の家を手に入れて「住」を安定させるべきでしょう。その上で、普通に食べて、少しの貯蓄が出来る程度の収入を得て、家族が増えたり、やや余裕が出来たら住宅をステップアップさせれば良いだけです。借金は将来の所得が人質に取られている様なものなので、なるべく少ない抑えたいものです。間違っても、一生掛かっても返済できないほどの額のローンを組んで、小ぎれいだけれど狭い都会のマンションなど買わない様にしたいものです。若い人たちが家族を持って、子供をのびのび育てたいのであれば、やはり住むべきは自然の環境が良くて、住と食の安い田舎でしょう。人生に最重要なものは、先ずはストレスの少ない質の良い生活であり、十分ではないにしてもお金はそれを支える手段の一つに過ぎないのです。

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2020年6月15日 (月)

3775  お金とは

この表題では何度か書いてきた様な気がしますが、確認も含めて再度取り上げます。貝や加工された石が貨幣の代わりに使われていた時代から、人々はモノの価値を示すシンボルが必要だった様です。鋳造貨幣が作られる時代には、想像するに広い地域間での船やラクダを使った交易も盛んになってきたことでしょう。しかし、あくまでも貨幣はモノの価値を表すシンボルではあって、モノの価値以上の値を示す事は無かった筈です。つまり、モノとの価値交換手段としての貨幣であり続ける限りにおいては、と言う意味です。
しかし、ある時期以降紙幣が印刷されるに至って、その原則に変化が生じて来たのでした。インフレになれば、政府はせっせと紙幣を印刷を繰り返し、見かけ上のモノの値段は右肩上がりになるでしょう。一方で、経済活動が盛んになるにつれて、株や債券も発行される様になり、実態経済以上の紙幣を含む「有価証券」が大量発行される様にもなったのでした。さらには、まだ掘り出されていない地下資源や農産物などに対しても、先物取引で値を付けて、その権利まで売り買いする始末です。
モノの不足していた時代、援助と言えば食料などのモノ(現物支給)が主体でした。しかし、今の時代、コロナ禍で困窮している人にも、そうでない人にも「お金」が支給されます。今や、お金が万能の「お金の時代」になったと言うしかありません。爪に火を灯す苦労をして蓄えた結果財を成した人も居るのでしょうが、宝くじで或いは時代の波に乗って、ラッキーをつかみ成金的に財を築いた人の方が多いのでしょう。
たとえそうではあっても、ここではやはり私たちはモノや実体(現物)に拘るべきだと主張したいのです。いくらお金があっても、もし誰もモノを売ってくれなくなれば、それはただの印刷された紙片の束に過ぎないでしょうし、当然の事ながらお金で腹は膨れません。お金を墓に持ち込んでも仕方がないでしょう。少しばかりの財(お金)が手元のあるなら、やはりそれを世のため人のために使って、満足感に浸りながら人生を閉じたいと思う様になった今日この頃です。残念ながら、強くそう思うほどの財は今のところ手元にありませんが・・・。

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2020年6月12日 (金)

3774  コロナ後2(経済から人へ)

今の野党が与党であった時期に「コンクリートから人へ」といったキャッチフレーズが持て囃されました。その類型で言えば、コロナ後は「経済から人へ」となるべきだと投稿者は思っています。そもそも、経済とは人間社会が上手く機能するための手段として、発展した来たはずですが、近年はその規模が、もはや人知の及ぶ範囲を超えて膨張してしまった様な感があります。極端に喩えるならば、巨大な生き物(或いはモンスター)に成長してしまった様でもあります。
勿論、その経済モンスターも膨らみ過ぎて自ら破裂する場合(いわゆるバブルの崩壊です)もあるのですが、それが喉元を過ぎるとまた新たなバブルが膨らんでくるのが常でした。かなり前では石油バブル、造船バブルもありましたが、近年は不動産バブル、株・債券バブル、ITバブルなどと手を変え品を変えてバブルは繰り返すのです。計画経済ではない、自由主義経済下では、誰かが小さなバブルを仕掛けてたんまり儲けても、ルールを守っている限りにおいては違法ではありません。柳の下の2匹目3匹目のドジョウを狙って、別の誰かが同様のビジネスで後を追い、次第に世の中全体がお祭りムードとなって浮かれ出して、やがて大きなバブルを巻き起こすのでしょう。
しかし、私たちはここで「経済活動は手段であって目的ではない」という事実を確認しなければならないと思うのです。経済活動を通じて財を成し、それなりの財産を持つことが、現代の成功者であるとの20世紀型の価値観は、今世紀に入ってかなりの時間経過した現在でも殆ど変わってはいないのです。20世紀を通じて、経済といる手段が「完全に目的化」してしまったと見るしかありませんが、その価値観に私たちはまだしがみついているのです。言わずもがなですが、社会の主人公は、経済(お金)ではなく人でしょう。お金が余り無くとも、人は人らしく生きる事は十分可能でしょう。但し、それは完全に経済化した都市空間では実現は出来ない相談です。それは、地方(田舎)でしか実現できないのです。それは、経済がまだ手段っぽく残っている地域でしか考えられない価値観だからです。ここで提案する「経済から人へ」は、別の言葉に代えて、例えば「都市から地方へ」、と言ってしまっても殆ど意味は変わりません。

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2020年6月11日 (木)

3773 コロナ後

今度の新型のコロナウィルスは、感染力や毒性の強さ(=重症化率や致死率の高さ)において、SARAやMERSを上回り、社会取り分け経済活動に多大なインパクトを与えました。過去を眺めてもスペイン風邪ほどではないにせよ、香港風邪とは並ぶほどのインパクトの大きさだと言えそうです。古くは、インフルエンザの流行に関しては、自然免疫=集団免疫任せでしたが、近年ののインフルエンザの大流行に関しては、ある程度「型」を予想した上でワクチン接種や対症薬の投与で何とか乗り切って来たのでしょうが、今度の新型ウィルスや今後現れるであろう「新新型」ウィルスへは、また新たな対処方法を編み出さなければならないでしょう。
しかし、いずれにしても今度のコロナ禍は、これまでの(20世紀型の)社会の仕組みに大きな警鐘を与えたことは間違いないでしょう。それは、大規模システムとその集約化への警鐘です。大規模化して集中化を図れば、物事の効率は高まり、経済活動の規模も拡大し、より大きなお金が動く(経済が拡大し景気が良くなる)という20世紀の神話に基づいています。しかし、それは新型コロナウィルスの「思う壺」だとも言えるでしょう。ウィルス達は、渡り鳥、豚(または野生動物)、ヒトの間で感染を繰り返し、その感染に伴う変異を利用して牙(毒性)を磨いてきました。とは言いながら、ウィルス達は宿主を皆殺しにはしないでしょう。それは、ウィルス自身の消滅に繋がるからです。宿主は、生かさず、殺さずという戦略です。
いずれにしても、コロナ後の社会の在り方については、ここで立ち止まって冷静に考えてみるべきであることは明確です。Withコロナ下で、とても社会が20世紀型の価値観を維持できるとは思えないからです。ならばどうすべきかですが、結論は自明でしょう。20世紀型=大規模型=都市型社会を少し前に引き戻す事です。少し前とは具体的には、高度成長期の「ある時期以前」と言っておきましょう。勿論、高度成長期以前、つまりは戦後の荒廃期に戻ることはできませんが、例えば1970年代の中盤、具体的にはこの国のエネルギー消費量が現在の約半分であった時期はポイントとして頭に置くべきでしょう。描くべき未来の姿を、過去と重ねるのには異論もあるでしょうが、闇雲に前に進むことは、結果としてカオスや破局を意味することも多いのです。長期レンジであるべき社会の青写真を描き、しっかりとしたマイルストーン(道標)を置いて考えるべき時期ではあります。

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2020年6月 9日 (火)

3772  コロナと環境2

コロナ後の社会をKW的に表現するなら、それは「疎ら(まばら)」でしょうか。これまでの社会のトレンドは、巨大化、集中化、効率化などの言葉で表されるでしょう。それは、都市、生産システム、流通、ネット化など全てに共通しています。そのトレンドの始まりは、戦後の高度成長期の始まりと一致しています。先の大戦以降は、大国同士の冷戦や局地での紛争を除けば、世界規模の戦争は起こらなかった比較的平和な世界だったと言えそうです。勿論、地域を限れば、大規模ハリケーンや大地震や津波被害などで社会システムが壊滅的な被害を受けたこともありましたし、9.11事件の様にテロが世界を震い上がらせたこともありました。
しかし、コロナ禍は上記の様な災害や事件とは決定的に異なる点があります。それは、人と人との密な接触によって被害が広がる種類の害悪であるという特徴でしょう。ヒトは多くのサル同様群れて暮らすことが好きな生き物ではありますが、それを「ダメだ」と否定されることは結構辛い指令だと思うのです。人々が日常的にハグする慣習のある国々でコロナ感染が爆発し、会釈文化のこの国で、感染がそれなりに抑制されている事は、単なる偶然ではない様な気がします。
つまり、コロナ感染抑制のKWの一つは、間違いなく物理的距離であると言えるでしょう。であるならば、私たちは新新型コロナ(ウィルス)への構えとしても、20世紀型の社会システムへのトレンドを、かなり「巻き戻す」必要があると思うのです。外見的に見るならば、それは「密」から「疎」への転換でしょう。度を越した大都市への人口集中を、ぜひ地方分散の流れに変える必要があります。大量生産・大量輸送・大量消費・大量廃棄の流れを、必要量を分散して生産・輸送・消費する、いわゆる地産地消型の社会システムに変えて行くのです。
結果としてみれば、それは環境負荷を大きく下げる行動とも重なるでしょう。それこそを、まさに「新しい行動様式」として定着させなければならないのですが、残念なことにマツリゴトに関わる輩には、その様な長期ビジョンは微塵も感じられず、取りあえずは景気回復、これまでの経済活動路線への復帰しか頭に無い様です。コロナ禍を機会に、社会システムが変わらなければ、中途半端な景気回復のための莫大な借金のみが後世に残されるだけに終わるでしょう。

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2020年6月 8日 (月)

3771  コロナと環境

投稿者は、長い間技術屋として働いてきましたが、ある時期以降「環境人間」に脱皮しました。環境人間とは、色々な事象を「環境の持続可能性」に結びつけて考えてしまう「性癖」を持った人間だとも言えるでしょう。ここでは、今が盛りのコロナ禍を、環境の視点から考えてみることにします。
さて、コロナ禍で最大の問題点は、人間の活動、とりわけ経済活動がロックダウンや自粛で制限を受け、景気が酷く停滞・悪化する事でしょうか。かといって、経済活動を優先して規制を緩めれば、B国や南米のBラジルの様に、感染者や死亡者を「量産」することになってしまうでしょう。経済活動と言えば、環境負荷との関連で議論されることも多いのですが、そうであれば環境悪化に伴う種々の害悪と感染症による人的被害は類似であると言えるかも知れません。つまり、人々が密に接して活発な経済活動をすればするほど、また環境負荷に目をつぶって、経済活動を活発にするほど、人々の間の感染症のリスクは高まり、環境問題酷くなるのです。
であるならば、コロナ禍への対応と、環境悪化を食い止める対策は重なるところが大だとも言えそうです。つまり、経済活動レベルをある程度下げることによって、両方の問題点を軽減できるとも言えるのです。人々は、混みあった都会を離れて過疎に悩む田舎に移り住み、地産地消を拡大して他地域や国外との交易量を減らし、ゆとりをもって暮らす様にします。エネルギー的にも、化石燃料への依存割合を減らし、再生可能エネルギーの割合を格段に増やす訳です。
もう少し具体的にライフスタイルを説明するなら、つまりは不要不急の活動や資源消費やエネルギー使用量をカットするという事に他なりません。その上で、減らした資源やエネルギーを再生可能なものに置き換えていく不断の努力を忘れない事でしょう。勿論、人々に息抜きや楽しみも必要ですから、旅行やレジャーを否定するつもりはありませんが、環境負荷の高い楽しみは、数年に1回に抑え、日常的な楽しみは、サイクリングやピクニックや自然観察など、殆ど自然への負荷が掛からないものをぜひ選択すべきでしょう。例えば、植物や昆虫や野鳥などの観察は、実に奥が深く飽きることはありません。それを、例えばデジタルカメラで撮影するなどは、非常に環境に優しい趣味だと言えるでしょう。コロナ禍は、私たちの生活スタイルを見直して環境負荷を下げる、まさに千載一遇のチャンスでもあるのです。

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2020年6月 3日 (水)

3770  変幻自在

3769の「勝手な仮説」をいきなり翻す訳ではありませんが、感染症の専門家によると、B漢で見つかった新型のコロナウィルスは、世界中に感染が広がる過程で、遺伝子(RNA)レベルで観察した場合、既に数えきれない程の変異を繰り返しているとのこと。しかし、やや安堵できる点は、一般的に言えばウィルスの変異は、通常は弱毒化する方向になるのだとか。というのも、強毒性の「株」は感染した宿主自体が亡くなってしまうため、そこで感染は一旦途切れることになるとのことでした。
一方、逆に弱毒化した「株」は、宿主が比較的元気に動き回ってしまうので、感染を広げる可能性が高まるというのです。その意味では、今この国で猛威を奮っている「株」が強毒性のものか、あるいはどこかの国経由で入って来た弱毒性のものなのかは、非常に興味深い点ですが、残念ながらこの分野の研究には、今後の感染や発症・重症化或いは死亡例と言った多くのデータの積み上げが必要とのことで、結構時間が掛かりそうです。
つまり、この国の比較的被害の少ないと見られる現状は、国民レベルでこの種のウィルスへの集団免疫のレベルが高いせいなのか、あるいはクルーズ船から、又は海外からの入国者経由で入って来て国内に広がった「株」が幸運にも比較的弱毒化されていたのかは、今後のデータの蓄積とその解析に待たなければならない様で、いずれにしても素人が立てた仮説程度で説明できるほど安直ではなく、今のところ専門家でも解析し切れていない「難敵」ではある様です。

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2020年6月 2日 (火)

3769  集団免疫力

今回のコロナ禍に関して、感じていることがありますので、一応仮説として記しておきます。日々のニュースを見ていると、どうやら日本は「特別な国」の様な気がします。つまり、感染率=発症率の低さと死亡率の極端な低さです。この国は、高齢化社会なのですから、高齢者に限って言えば、もっと感染率や死亡率が高くても不思議は無さそうです。
しかし、現実はそうなってはいません。これは、どうやら日本人が、今度の新型ウィルスに「免疫の様なもの」を持っているとしか思えないのです。背景はあります。日本では、今や田舎の観光地でさえ、バスを連ねたツアーや単独のグループでの外国人(取り分けC国人の)観光客が目に付くようになっていました。明治神宮や大阪城などを散歩した際には、間違いなく半分以上がアジア系の観光客で占められていた様に感じたものです。
つまり、この国ではウィルスの故郷?であるアジア(取り分けC国の内陸部)からの観光客と日常的に接する機会が多かったと想定できるのです。新型のコロナウィルスは確かに、強力で感染力も強いのですが、そうではない並みのウィルスなら、症状を出さないままのキャリアが、町中何処でも「接触」出来ていたことでしょう。つまり、並みのウィルスに対する並みの(或いはやや性能の良い)免疫力は、日本人なら誰でも持ち合わせていても不思議はないと思うのです。これが、ここで仮説として述べている「社会背景としての集団免疫力」なのです。その意味で、他人よりやや優れた免疫力を持っている人たちは、たとえ感染しても普通の風邪の様に免疫力で症状を抑え込めたでしょうし、陰性の人たちにウィルスを拡散させることも少なかったのでしょう。
感染経路が不明とされた多くの人たちは、街中でこの様な「無症状陽性者」からウィルスを貰ったと考えるのが妥当でしょう。これに関連して、ACE2という血圧上昇に関与しているいる因子の存在が、今回の新型コロナウィルスへの感染、重症化に関係しているとの説があり、この因子の増減が社会背景としての集団免疫力に関係しているか、あるいは遺伝的な要素なのか、今後の報告を待つことにします。

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2020年6月 1日 (月)

3768  レバレージ(格差拡大)

レバレージとは、一般的にはテコを意味しますが、「テコ比」を指す工学用語でもあります。さて、社会を根底を揺さぶる様な大きな自然災害や今回の様に疫病災害が起こると、さながら落ち着いていた地盤が、地震で揺られて液状化や地盤沈下や断層が生ずる様に、社会の種々の問題が露わになる場合が多い様です。平常時には殆ど問題視されてこなかった貧困問題や高齢者問題、あるいは正規・非正規問題、男女格差問題、学歴格差問題、貧困の世代間継承問題などなどが、災害によって表面化してくるのです。悪い事には、多くの災害は、その問題を暴露するだけにとどまらず、それを拡大して見せたりもするのです。
例えば、今回のコロナ禍では、高齢者の厳しく牙を剥きましたし、アルバイトで辛うじて暮らしを維持していた学生や非正規労働者の生計を1か月内に破壊してしまいました。つまりは、若者と高齢者の「免疫力の差」や毎月の収入と支出に差が無く、アパートに住みながら貯蓄が殆ど無い単身や一人親所帯の経済的弱者ぶりが露呈してしまったのです。北欧や、Dイツの様に社会としてのセーフティネットがしっかりしている国々では、実は上記の様な問題点はあまり拡大しないのですが、税金が安い分社会保障レベルも低いこの国では、イザという時には赤字国債で場当たり的な災害対策を打つしかないのです。
これは、国としての日頃のリスク想定を真面目に行っていないことに主因があるのでしょう。この国の予算は、自然災害や疫病などが殆ど起こらないことを前提に、単年度予算として組まれています。災害対応は、ささやかな予備費として考えられてはいるのでしょうが、勿論実際の大災害では焼け石に数滴の水程度の意味しかないでしょう。平時のリスク想定は、単なる想定ではなく、実際の状況を想定しなければ意味がないでしょうし、それに備えた平時の蓄積こそ重要なのです。MERSで痛い目にあわされたK国では、ウィルス禍に対する備えがあった事もあり、比較的平穏にコロナ禍への対応が出来ていたと思います。しかし、この国のあのクルーズ船を抱えての右往左往ぶりは、やはりリスク対応が殆ど出来ていなかった証左でしょう。
事が起こってからの対応では、アクションが遅れる分事態の悪化を止めるのは困難でしょう。リスク想定とその対策とは、いわゆる「転ばぬ先の杖」を準備しておくことに他ならないのです。今回のコロナ禍で、世界やこの国の社会がどの様にヨロケタか、しっかり記録し次なる災害にしっかり備える必要があるのでしょう。

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