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2020年7月21日 (火)

3794 大河の一滴

I木寛之の「大河の一滴」を読んでいます。思春期の命からがらの終戦、引き上げを経験した昭和一桁生まれの著者の、永く生きてきて諦観したような、しかし戦中・戦後の混乱を生きのびた者としての責任感と言うか生き恥に苛まれてきた著者の苦悩も感じられる内容でした。いずれにしても、氏の長く変化に富んだ人生経験と、抜群の記憶力と、人間観察力には驚嘆するしかありませんが、取り分投稿者の様な凡人と異なるのはその記憶力でしょうか。彼が読んだ書物のエッセンスは勿論、数多く重ねた対談相手のコメントなどを細かに記憶する能力は、やはり驚くべきものだと思います。
さて、大河の一滴ですが、この著作の中で、自身の事を繰り返し大河の一滴に過ぎず、その一滴はやがて海に出て、太陽光に照らされて蒸発し、雲となって再び地上に降り注ぎ、また小川から大河に流れ込むと流転を、いわゆる輪廻転生に重ねているのです。そう考える方が、頭でっかちになり過ぎて、自分の人生についてクヨクヨ悩むより、よほど精神衛生には有益でしょう。つまり、どうせ、自分はちっぽけな存在なのだから、その人生で起こる出来事もちっぽうけなものに違いない、といった割り切り方だとも言えます。
大河の中の一滴が、たとえ急流に巻き込まれようが、魚に飲みこまれようが、巨大な滝壺に落下しようが、所詮たった一滴の水の身の上に起こった、ささやかな出来事だと考えれば、確かに気は楽になりそうです。それに気が付いたのは、勿論著者だけではなかったでしょう。方丈記でも、見事に人の人生を流れに浮かぶ泡沫に例えているではありませんか。泡の様に偶然にこの世の中に生を受けて、最後は泡がパチンと消える様に人生を終えると例えるのも、I木の様に人を大河の一滴に例えるのも、全く同様の見方でしょう。さて、ここにも居る大河の一滴は、今日は何をして過ごしましょうか。たった水滴一滴にできる事など本当に限られてはいますが。一滴が出来る範囲内でチョッピリでも人の役に立つことをしたいものです。

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