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2020年9月29日 (火)

3840 SDGs考2

SDGsのターゲットへの到達に対しては、例えば国が大目標を掲げ、それに企業や個人がついていくと言う計画も立てることができるでしょう。しかし、よくよく考えてみると、国が決めることができるのは精々法律程度で、その法律も規制法と基本法程度しか種類が無いのです。規制法とは、何か悪いことをする輩を取り締まるために、ある行為の○✕の境界を定めて、それを遵守させるための罰則などを設けて誘導するものです。一方で、基本法は「~を~しましょう」と言った,
勧奨のための法律であり、数値目標などが付属する場合もありますが、当然の事ながら罰則などは設けられません。もし、国がSDGsに関する法律を整備し、それを守らせようとするなら、将来この法律の目標が守られなかった場合には、ある種の罰則を科すと言った、これまでには前例の無かった法律を作る必要があるのです。
前例主義のこの国で、未達成の罰則付きの将来目標を示す事などできるとは思えませんので、従って残念ながらSDGsも絵にかいた餅になる運命にあるとしか思えません。勿論、国としても全くの無策で指をくわえて成り行きを眺めている訳ではなく、例えばSDGsを子供たちに学校で刷り込む作戦を考えたようです。これは、非常に時間が掛かる作業ではありますが、個人レベルの意識を持ち上げるにはややマシな作戦ではあります。しかし、年間数時間程度の押しつけの教育で、子供たちの意識が180度変わって、環境意識や差別意識や社会問題を解決する戦士になるなどとはとても思えません。意識を転換するためには、山積する問題を現場に立って実際に見せ、体験させる必要があると思うのです。
海洋のプラスチックごみの問題であれば、死んで打ち上げられたクジラやイルカや魚のお腹から、プラスチックごみが出てくると言う現実を目にする必要があるでしょうし、イジメ問題では不幸にして自殺した子の遺体を目にし葬儀にも出席する必要があるでしょう。格差問題では、マスコミがもっともっとその問題の核心に迫り、報道量を増やす必要もある筈です。
17個もカテゴリーがあり、169もの項目があるSDGsのゴールテープを切るのは、2030年までと言う時間の中では殆ど無理と思えますが、少なくとも私たちはそのゴールが示す方向には走って行かなくてはならないでしょう。省エネが、二度の石油危機で芽生え、定着した様に、SDGsに向けた行動が、何をきっかけに始まり、定着していくのか、SDGsのSの字も始まっていない今、全く想像もできませんが、いずれにしても社会に影響を与えることができる人たち(インフルエンサー)が先に立って、ムードを醸成する事は必須でしょう。投稿者には、インスタもUチューブも使えませんが、当分自分だけでも「一人SDGs行動」を続けていくしかなさそうです。

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2020年9月26日 (土)

3839 SDGs考

講演でSDGsの話をたっぷり聞きました。たっぷりと言うのは、講師によって今世の中で目にできるSDGsの17枚のゴールを示すシールの内のいくつかを表示した製品の紹介がいくつも示されたのです。確かに、産地でカカオの収穫から製品化まで一貫して作られたチョコレート、しかもその包装紙はカカオの殻で作られているとか。また、同様に農園名が明確に示されたコーヒーとかの紹介が数多く紹介されたのです。
しかし、考えてみなければならないのは、SDGsのカバーする範囲は、単に環境問題に限定されず、人種や性による格差問題、貧困などの社会問題など広すぎるし、2030年までの短い期間で、解決の方向が見えて来るような軽い課題でもないのは明らかです。しかし、その目標がいくら高くても、何か行動を起こさなければならないのも事実でしょう。勿論、これを誰か、例えば行政やNPOやNGOなどに任せて、自分は出来る範囲内でそれに協力すると言う態度もあるでしょう。と言うより、殆どの人たちがこの「待ちの姿勢」だと想像しています。
しかし、この様な態度では多分2050年まで待っても事態は変わらないどころか、多分かなり悪化しているだろうと想像できるのです。つまり、環境や社会の悪化・劣化の強い圧力に、ささやかな対策程度ではとても抗しきれないのです。例えば、温暖化効果ガスの排出量の削減です。SDGsでは、排出量の削減目標ではなく、単にエネルギー効率の倍増をターゲットに据えているだけなのです。気候変動に対するターゲットに至っては、数値目標として示されているのは、気候変動の被害に対する援助の額を定めている程度なのです。
つまり、SDGsの枠組みについては、ささやかな数値目標と、締約国が批准できる程度の「総論」しか書いていない(書けなかった)のでした。
それにしても、ささやかなSDGs製品が、いくつ集まったとしても、ESD投資家の投資先には選ばれたとしても、SDGsの目標(もし明確なものがあると仮定して)のどの程度貢献するかの定量的評価などとても無理でしょう。単に、ある企業のある製品が、どちらかと言えばSDGs方向に向いている、と言った程度の表明に過ぎないとしか見えないのです。
そうではなくて、国や企業や個人が、自分の子や孫の世代に、何を残せるか、何を残すべきかを明確な数値として理想を掲げ、その数値目標に向けて、今何処まで進んできたかを、随時示せる様な道標(マイルストン)を描くべきだと思うのです。例えば、企業であれば何時いつまでに再生可能型エネルギー100%(Re100)を達成するのか、先ずは設定すべきでしょう。その上で、どの様な手段やアプローチで、何時迄にどの様な投資を積み上げればそれが達成可能なのか、青写真を描くべきでしょう。続きます。

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2020年9月24日 (木)

3838 正しい目的2

人生のある時期から、目的と手段をできる限り明確にする様に意識してきました。とは言いながら、それが完全にできているかどうかについては、実は甚だ自信は無いのですが。3837に正しい目的は、正しい手段を選び取らせるとは書いたのですが、勿論ある目的を達するための手段は一つではなく複数存在するのも事実です。そうではあっても、やはり正しい目的を設定すれば、手段としても自ずとより正しいものに近づくとも思っています。
例を考えてみます。ここに人間として、より幸福になりたいと言う目的をもって人生を送っている人が居たとします。そのための手段を考える中で、人より多く労働をして、人より少し多くの報酬を得て、人より少し多くのモノを得たとします。しかし、人間としての幸福を突き詰めて考えて行くと、自分自身だけが財産を得て幸福になったと錯覚しても、家族や知り合いが不幸と感じていたり、一方で社会に貧しい人達が存在し、不幸に感じていたことを知ってしまえば、その人の幸福感は急速に萎んでしまうでしょう。つまり、その人が自分だけ人より少しだけ豊かになったとしても、そこにある種の「後ろめたさ」を感ずるならば、幸福度もかなり割引されてしまうのです。
しかし、お金を儲けてモノを買う代わりに、自分の労働時間を少しだけ他の人のためになる事に使った場合はどうでしょう。例えばボランティア活動です。この場合は、たとえお金儲け仕事とボランティアでやった活動の内容が殆ど同じだったとしても、幸福度は後者の方が断然大きくなると思うのです。結局、幸福になる目的の対象を、個人ではなく「自分と関わる他の人たちも含む」と広く正しく定めれば、同じ労働でも報酬を受け取る、受け取らないの違いで、得られる幸福感に大きな差が出てしまうのです。ここでの「正しい目的」とは、結局個人の幸福希求ではではなく、より多くの人々、これに加えて持続可能な環境への希求の様に、より広く正しい意味での幸福追求といったものになるべきだ、と思っている今日この頃です。

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2020年9月23日 (水)

3837 正しい目的

正しいニーズとは、結局正しい目的を持ったものと言い換えることができます。目的を誤ると、間違った手段を選択してしまい、最終的には間違ったゴールにたどり着いてしまいます。例えば、ある集団の人たちは、お金を貯めることを目的に選んでしまい、投機的な利殖など手段を選ばずにひたすらお金を増やすことに熱中してしまいます。
しかし、何度も書いてきましたが、お金とは価値交換の手段に過ぎず、それを多く集めたからといって、それで人生の目的の一つでもある「幸福」が買える訳ではありません。それどころか、お金持ちの多くは、財産を守ろうとするあまり、人間不信に陥ったり、家族との確執を抱えたりすることも多いのです。これは、取りも直さず目的と手段を取り違えた結果の悲劇と言うしかないでしょう。この取り違いは、実は世の中で広く目撃する悲劇でもあります。取り分け、政治の世界では、世の中を良くするという究極の目的を忘れ去り、票を集めて議員と言う身分を維持するためだけに汲々としている政治屋がゴロゴロと目に付きます。
最近のトピックスでは、新型コロナウィルスを封じ込めると言う目的のために、兎に角PCR検査と言う手段を最大限使って、陽性者を炙り出すべきだ、と言う暴論が横行したりもしました。この目的には、新型ウィルスによる症状(COVID-19)を可能な限り軽減できる薬の開発や既存薬の探索が理想でしょう。それが可能になれば、COVID-19も只のコロナ風邪にしてしまう事ができるからです。ワクチンが完成すれば、新型コロナウィルスはすぐにでも終息させることができるなどと考えるのは、全くの幻想(考え違い)であることは、過去のウィルス開発の歴史を少し振り返るだけで、明らかでしょう。
一見、患者数の推移グラフで流行が終息した様に見えるのは、コロナ風邪としてのCOVID-19を、通常の風邪対策(マスクや消毒や3密の回避)を真面目に行った結果であり、加えてウィルスは感染を繰り返す間に自然に弱毒化すると言う原理に従っているだけなのです。正しい目的は、正しい手段を選び取らせ、結果としても正しい結果をもたらすと言えるでしょう。

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2020年9月22日 (火)

3836 正しいニーズ

巷間お客様は神様である、などと言われることもありますが、では、お客が持つニーズは全て肯定されるべきかと問われれば、勿論そうではないと言うしかないでしょう。それは当然です。例えば、極端にお金持ちで、しかも我儘な客が持っている、邪なニーズなどには耳を傾ける必要もないでしょう。
では、何が正しいニーズで、何が邪なニーズであるかの基準ですが、公害や資源の枯渇やいわゆる環境問題がそれほど浮上していなかった時代には、確かにお客様は神様と呼んでも差し支えなかったでしょう。しかし、これは今の時代には適用できないことは自明です。何しろ、今以上の資源の無秩序な採掘による浪費(枯渇)やその結果としての環境悪化は同の様な道筋で考えても、許されることではないのは明らかだからです。取り分け、温暖化効果ガスの排出は、殆ど限界に近付いていると見る専門家も多いのです。
かつては、普通のサラリーマンが、普通に家電や車を買い揃えるのは消費を拡大し、GDPの拡大に有益で、大いに奨励された時代もありましたが、環境の時代には相応しい行動とは言えないでしょう。この国では、現状で既に8千万台以上の車が登録されており、もしそれらを全てそれらを動かしたと仮定すれば、車は道路に溢れ、たった1㎞でさえも走れない超渋滞に陥るでしょう。それは、この狭い国土の国道を全て車の縦列で塞いでしまうほどの数量なのです。大型の中古車展示場には、数百台の車が並んでいることも珍しくはないでしょう。この国の車台数は、殆ど飽和状態だと言うしかありません。もはや、車に対するニーズは、環境の顔色を覗いつつ、遠慮しながら表明すべきものになってしまったのです。
結局。何度もこのブログで繰り返している様に、正しい消費行動(=正しいニーズ)とは、環境の持続可能性に配慮した、必要最小限の「遠慮がちでつつましい」ものであるべきだという事になります。具体的に言えば、メーカーは受注生産を基本に据えて、必要な数量を、必要なタイミングで生産し、一方で消費者はといえば、注文してから商品を手にするまでの一定の日数の間、「待つ楽しみ」を知る必要があるのでしょう。その期間はと言えば、普通の商品であれば数週間、車などの耐久消費財であれば数か月と言った期間を指します。

 

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2020年9月16日 (水)

3835 構造と機能とニーズ

この表題については、以前も「団子三兄弟の法則」として書いた様な気もしますが、どうせ人気の無い随筆日記の様なブログですので、重複しても構わないでしょう。さて、少し誇張はありますが、万事は「構造(Structure)」と「機能(Function)」として説明できると言うのが投稿者の考えです。例えば、脳と言う構造があって、その上で心(精神)という機能が走ります。会社組織と言う構造があって、初めてビジネスが動くと言った具合です。同様に、文法と言う構造があって、初めて言葉が意味を持って機能し、コミュニケーションが成立することになるのです。
今、五感で感ずる事ができるほぼ全ての事象が、この構造と機能で説明できると仮定しても、それでは何故その様な構造が出来たかの説明までは出来ません。何かが欠けています。その欠けているものこそ「ニーズ(必要性)」であると投稿者は気が付いたのです。つまり、何らかの必要性があって、それを満足するための機能を持つ構造が徐々に出来上がって来たと考えた訳です。脳は、進化の過程では、単なる神経節(神経の交差点)に過ぎませんでした。神経が体の隅々までつながっていて、その末端からの刺激(入力)に対して、どう行動すべきかの指令(出力)を出すのが、神経節の役割だったのです。
しかし、その神経節は徐々にですが単なる反射行動の出力だけではなく、種々の判断や少し先の予測、結果としては将来の行動の計画まで思考を巡らす事ができる器官にまで進化したのでした。その原動力としては、進化の過程でより多くの子孫を残し、地球上で繁栄すると言うニーズがあってこそ、脳と言う構造を大きく発達させてきたとも言えるでしょう。言語の発生の初期に、いくつかの単語があったとしても、それを単に並べても他者に複雑な意味を伝える事は出来なかったでしょう。そのもどかしさがニーズとなって、徐々に文法が出来上がり、それを使って微妙はニュアンスも伝えられる文学なども並行進化してきたのでしょう。
もし、今すでに存在する構造と機能、例えば社会や政治や各種のビジネスなどの正当性をチェックしたいと思ったのであれば、先ずはその背景にあるニーズを今一度確認してみるのが近道だと思うのです。戦後、この国の社会があるいは政治システムが今ある様になった背景としてのニーズを見直せば、どの様に軌道修正をすべきかどうかが判断できるでしょう。但し、それはあくまでもそのニーズが、「ある基準に照らして正しい」と判断される場合に限られることは自明です。間違ったニーズは、間違った構造や機能を出現させるからです。正しいニーズとそのに基準に関しては続きます。

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2020年9月15日 (火)

3834 蛹(さなぎ)期

あるZOOMミーティングで、自分の人生を簡単に振り返ってのライトトークを行いました。その中で、人生の曲がり角と言うか、進む方向に悩んだ時期を、昆虫の成長過程である蛹(さなぎ)に例えて、蛹期(ドロドロ期)と呼んでみました。と言うのも、芋虫であった幼虫が成虫になるためには、蛹の状態で体全体を成虫の形に造り替える過程で、体全体の形を無くして、さながら一度ドロドロに溶けてしまうからなのです。その過程は、さながら人間がそれまで進んできた連続した人生に迷い、立ち止まり、新たな方向を模索する姿にも重なるのです。
勿論、ドロドロの中身を持つ蛹になるとは言え、それまで自分を構成していた部品あるいはモジュールまでご破算になる訳ではありません。それらを使い回して、より高いレベルの人間(成虫)となるべく新たな自分を再構成するしかないのです。つまりは、昆虫や甲殻類で言うところの脱皮過程がこれに当たります。脱皮直後は、体の組織全体が柔らかいので、色々な刺激や情報や物質を取り入れて、一回り大きくなる余地も広がります。人間は、肉体的には連続した成長と歳を重ねての衰退の過程を経験しますが、とは言いながら脳とその機能に関しては、脱皮の様な大きな変化が起こる可能性があると信じています。
芸の世界では、ある日突然何かに目覚め、長足の進歩を遂げる状態、いわゆる「化ける」ことがある様ですが、脳も化けると思うのです。化けるためには、天才を別にすれば、凡人は苦しみ、悩み、もがく時期もたぶん必要なのでしょう。実際に投稿者も、人生で何回かその様な時期を経験して今があると思っています。それは、ある日突然、「このままで良いのか自分?」と言った疑問が湧き上がる事から始まった様な気がします。学生時代にも、配転で仕事内容がガラリと変わった時も、会社人間としての自分のサラリーマン人生の,行く末が見えてしまった時にも、テロ事件で自分が関わる業界が否定されてしまった様に感じた時も、同様の疑問が湧き、蛹期に入ってしまった様に振り返っています。
しかし、蛹期を否定的に捉えず、「脱皮のための過程だ」と前向きに捉えれば、もがきも悪い事ではないでしょう。勿論、脱皮するためにはそれなりの蛹の中で自分を作り替えるための準備期間が重要で、必須であることは論を待ちません。問題は、蛹の殻を何時破るかですが、これはまさにその人によるとしか言えません。人によっては、考え過ぎて何時までも脱皮できないかも知れませんし、先ずは殻を破ってからもがきながら行動を起こす人も居るでしょう。人間の自発的な変化の全ては、「このままで良いのか自分?」と言う疑問から始まると思うのです。

 

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2020年9月12日 (土)

3833 コロナ後の社会3

コロナ後でも、私たちの基本的な生活が無くなってしまう訳ではありません。それどころか、社会の7-8割は、社会の基盤を支えるために、慣性を伴うゆるぎない流れを持っていて、事実上止まることも止めることも出来ないでしょう。これを世の中のベースと呼んでおきます。コロナで最も打撃を被ったのは、その上に乗った2-3割の産業だったのです。それは、いわゆるサービス産業と呼ばれる分野です。つまりは、観光や旅客輸送やエンタメや外食産業、接客業など対面でのサービスを提供する商売です。
それらは、勿論不要不急だから人々の接触の機会を減らすために自粛の要請をされた訳で、事実全国レベルの自粛要請でも、私たちはストレスは感じたものの特に生きていくには不自由は無かったのでした。つまり、影響を受けた商売は、社会の余裕の部分で成り立っていた産業だったとも言えそうです。勿論、人間は余裕が無い生活に長期間耐えるのは難しいでしょう。ストレスに弱い人達は、体だけではなく精神的にも変調をきたしてしまうかも知れません。
かといって、バブル期の様に世の中が余裕でダバダバになった時代は、やはり異常だったと言うしかないでしょう。では、コロナ禍の直前の状況を思い起こし、ベースと余裕のバランスがどうだったのか考えてみます。ひいき目に見ても、あれはミニバブル期だったと言うしかないでしょう。世の中には、N銀が増刷した?低金利のマネーがダバダバに流通し、タワマンに人気が集まり、人々は熱に浮かされた様に、国内や海外旅行に出かけたのでした。リーダーが、地球の裏側まで土管を通って出かけ、ピエロ(マリオ?)になってまでオリンピックを誘致・喧伝し、インバウンド旅行客も3千万人レベルまで引き込んだのでした。これをバブルと呼ばずになんと呼ぶのでしょう。90年代が、土地&金融バブルだったとすれば、これは「余暇バブル」とでも呼ぶのでしょうか。
私たちは、ベースと余裕のバランスを取り戻さなくてはならないと思うのです。盆と正月とお祭り程度しか楽しみの無かった時代もありましたが、コロナ禍前のレベルを考えると、余裕の部分は半分程度でも十分に余裕を感じられると想像しています。つまり、旅行や外食や飲み会の回数も半分程度に、日用品以外の買い物を半分程度に減らしても、誰も何も困らないでしょう。それどころか、旅行や買い物の機会が半分減ると、次の観光やショッピングを待つ楽しみが、多分倍以上には大きくなると思うのです。子供の頃、待たされて待たされて、やっと買ってもらったオモチャを手にした時の感動を思い出してみてください。年に一度、クリスマスイブにホールケーキを切り分ける時の、子供たちの狂喜を思い出してください。長い休みの時には、父の親戚や母の実家に泊りがけで出かけた時、大人にチヤホヤされた時のうれしさを思い出すべきです。
コロナ禍を機会に、余裕を削って、少しの我慢を楽しむゆとりを持ちたいものです。サービス業に従事する人たちには申し訳ありませんが、社会の余裕の甘い味の汁を吸う側ではなく、ぜひ農林水産業や製造業に戻ってきていただき、社会のベースを支える側に回って貰いたいものです。
それでなくとも、私たちは既にモノ造りの多くの部分を海外に依存し、建設業や農林水産業では、海外からの労働者にかなりの部分を頼っているのですから・・・。この項一応終わります。

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2020年9月11日 (金)

3832 コロナ後の社会2

新型コロナウィルスが弱毒化してしまったのかについては、素人には判断できませんが、事実として重症化する人や亡くなる人の数が現状の程度であれば、最早「普通のインフル」と同程度ではないかと考えこんでしまいます。確かに、コロナ騒ぎの初期は、重症化した人や亡くなった人の、真っ白になった肺の写真がニュースに流れ、私たちの恐怖心を煽ったものでしたが、最近はそんな映像も殆ど流れなくなりました。一般に行政は、一度振り上げた鉈を急に取り下げてしまう事は出来にくい組織であるため、今の時期になってもなお、毎日のニュースのトップはコロナ色で染まり続けている様です。
つまり、なんとか委員会やかんとか評価委員会などは、一度作られると定期的な会合を開き、それなりの報告書なり議事録をまとめる訳です。行政組織は、それを恭しく受け取り、何らかの行動を起こすことになります。これらの委員会は、事態が完全に終息するまでは閉じられませんので、何時までもニュースネタになり続けるのです。そろそろ、コロナ禍から日常に戻す事を考えるべき時期でしょう。
さてコロナ後の社会です。コロナが、ここまで派手に世の中を乱すのであれば、それを逆手に取って世直しのきっかけにしたいものです。つまり、これまでの社会の流れの中で、底に沈殿してしまったオリ(諸課題)を、全体をかき混ぜる事によって浮き上がらせ、もう一度露わにする必要があると思うのです。例えば、K泉構造改革なるもので、一気に増えた非正規労働ですが、結果としては、所得格差に社会の底に沈んでいまいそうな層を増やしてしまったのは否めないでしょう。何は無くとももう一度「同一労働、同一賃金」の原則を、私たちの目の前にドンと引き出すべきでしょう。
その結果、例えば製造業や一次産業からサービス業への一方的な労働人口の流れにも歯止めが掛かると思うのです。ITやロボットだけで、日本のモノ造りを支える事が出来ないのは明らかでしょう。いわゆる、伝統工芸と言った熟練の技や、手加減などと言うものは、デジタルで割り切るITやロボットには真似が出来ない世界なのですが、それでもこの国はデジタル化に突き進もうと藻掻いているのです。
そうではなくて、これからの労働者には、働くことによって「生き甲斐、働き甲斐」を感ずることができるものにしていく必要があると思うのです。理想的には、単にお金のために働くのではなく、働くことによって誰かの役に立ち、働く方も、便益を受ける方も、双方がある種の「幸せ」を感ずることができ、結果としてお金にもつながる様な仕組みを目指すのです。何でもお金に価値転換するのではなく、現物(物々交換)や労役による代価の支払い、地域通貨などによる価値転換も有効な手段となり得るでしょう。お金による決済は、1円単位のデジタル換算になりますが、物々交換や地域通貨は、双方が納得さえすれば、アバウトで緩い決済でも何も問題は生じないでしょう。さらに続きます。

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2020年9月10日 (木)

3831 コロナ後の社会

コロナ禍を、右肩上がり神話社会(自由主義経済社会)の一つの踊り場とみなし、一服しましょうよ、と呼びかける経済学者の言葉に賛同しました。振り返ってみれば、投稿者が直接目撃してきたこの国の戦後の歴史でも、いくつかの踊り場がありました。例えば、石油ショックや円高不況、バブル崩壊からリーマンショックを経ての長い停滞期などです。しかし、官僚やリーダーたちは、そのたびに我武者羅に「経済対策」をうって、景気を浮揚させることに躍起になったのでした。
さて、投稿者は、日頃から目的と手段の峻別には気を使って生きてきました。戦後の復興期まで遡れば、この国の政治家や経済人の「目的」は、モノや食べ物を潤沢に流通させ、先進国に追いつき、出来れば追い越したいといったものでした。実際、所得倍増計画を打ち上げたリーダーや、「列島改造」を掲げたリーダーなどにけん引され、確かにこの国は豊かになってきたのでした。しかし、資源の少ない国の悲しさで、潤沢にエネルギーや資源や食料を輸入するためには、さながら自転車をこぎ続ける様に、モノを作りそれを輸出し続けなけれなならない宿命を背負っているのです。そうでなければ、スピードの落ちた自転車の様に不安定になって、最悪の場合は倒れてしまうでしょう。
製造業や流通業などには、それでも「イナーシャ(慣性)」がありますが、例えば観光業の様な典型的な「自転車型産業」は、真っ先にコロナ禍の割を食って、バタバタと倒れつつある様です。つまり、スーパーで食料を買って飯を食わないと死んでしまうが、外食や旅行に出かけなくても死にはしない、と言う事なのです。
そこで考えなければならないのは、減速しても倒れない産業や社会構造でしょう。輸出やインバウンド需要だけに頼る産業は、今回のの様な踊り場になると出口が見えなくなりますが、しっかりした国内需要や根強い海外需要などに対応する産業は、骨太で安定するでしょう。要は、2輪ではなく、産業や社会構造を3輪や4輪デザインし直す必要があると言う事なのです。それにつけても、去年と今年に全く経済的な成長が無くて、何が悪いのでしょう。今より悪くならないのは実は良い事だとは考えられないのでしょうか。続きます。

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2020年9月 9日 (水)

3830 コロナから人類への手紙

V.R.Reichの「コロナから人類への手紙」と言う詩が身に沁みました。彼女は、コロナから人類への手紙と言う形をとって、コロナウィルスは、環境が人類に送ったメッセージであり、最初はそれを軽んじていた人類が、やがてロックダウンや自粛などで経済活動を大幅に減速せざるを得なくなった状況を、コロナウィルスが、「さもありなん」と冷ややかに眺めている様を詩に書いているのです。詩人の言葉はシンプルですが力を持っています。
経済減速結果、C国の石炭火力発電所も大幅に出力を絞り、すっかり春の風物詩となってしまった、偏西風に乗ってやってくる黄砂とPM2.5の混合物による大気汚染も随分軽減されたのでした。各地の観光地の人出も大幅に減り、観光客が大量に排出していたごみも随分減った事でしょう。勿論、コロナ前の平常時であれば車や航空機や貨物船から大量に排出されていた筈の排気ガスも同様に格段に減ったのでした。
コロナウィルスによるCOVID-19を単なる伝染性の疾病と捉えず、悲鳴を上げていた地球環境からの警告の手紙と捉えたこの詩は、改めて人類に「環境倫理」を呼び起こさせるものとなりました。冷静に考えれば、私たち人類は、COP会議での目標値やSDGsの17個のゴールを参照するまでもなく、理想の旗印を掲げるのは得意なのですが、各論や実行段階では常に腰砕けを繰り返してきたのです。しかし、COVID-19は「強制力」を以って、私達の経済活動に強力なブレーキを掛けた稀有な例でしょう。勿論、コロナが終息した暁に、経済活動が完全に元に戻るなどと考えるのは幻想でしょうし、仮に出来てもそうするべきではないでしょう。
前向きに考えるなら、コロナ禍の経済活動の制限によって、経済が適正なレベルに回帰したと考えるべきなのでしょう。つまり、この狭い日本に、3000万人もの観光客が押し寄せるなどと言う事態こそが異常なのであり、適正なレベルは、多分その1/3以下であった事が、コロナ禍と言う冷水を被ったことにより、交通インフラや旅館業や飲食業も小売業なども思い知らされたと思うのです。この国は、無理な詰め込み型の観光立国を諦めて、コロナ後に相応しい別の飯のタネを探すべきでしょう。

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2020年9月 8日 (火)

3829 環境倫理

この表題では、過去に何度か書いた気がしますが、似た様な中身になっても何度も書いておきたいとも思っています。そもそも、倫理(学)と言う言葉ですが、ある哲学者によると、「倫」と言う文字は、人と人との関係を表わすのだとか。その理(決まり事)を倫理と呼ぶのですから、つまりは人として行動すべき規範を論ずる学問と言えるのです。
その倫理に、環境を冠すると、つまりは環境と人間の間の理の話になるのです。環境と人間の間の理(原則)ですから、当然の事ながら今人間が行っている様な、環境からの一方的収奪など論外であることは当然です。最低でも、環境を思いやる気持ちを以っての譲り合いが必要でしょう。しかい、具体的にどの様に譲り合うかと言う各論になると、なかなかスッキリした方策は述べにくい様です。例えば、地球からの資源の収奪と言う1点でも、誰がどの資源をどの程度節約するか、と言う議論になると、多分多くの国々は「既得権」を主張して譲ろうとしない筈です。
同様に、使用済みの資源(廃棄物)を環境に放出する、いわゆる「環境負荷」に関しても、先進国の既得権と、途上国の将来の排出権のせめぎあいが生ずるでしょう。取り分け、直接的には目には見えず、人間の五感でも感ずることができない、CO2の排出に関しては、それを抑制しようとする機運は、北欧の少女に叱られても、殆ど盛り上がらない状況です。
ここでの結論としては、時間は掛かりますが、先ずは幼少期から、子供に対しての「環境(倫理)」教育を施す事こそ最重要であると言っておきましょう。幼児だって、人間が環境を如何にイジメているかについては、十分理解してくれる筈なのです。続きます。

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2020年9月 7日 (月)

3828 良いニーズとは

少し前に、あるニーズを充足するために色々なモジュールが出来上がると書きました。例えば、人は生きていくために一定程度の食料を確保し、日々それを摂取して暮らしていく必要があります。そのニーズを満たすために、ある人は自分で畑を作って作物を育てるでしょうし、またある人は流通業を興して、例えばスーパーマーケットを経営するかも知れません。いずれにしても、人は食べ物を口にしないで生き続ける事は出来ませんので、そのニーズを満たすために種々のモジュールが出来上がるのです。
しかし、考えてみなければならないのは、ニーズには良いニーズと、悪いニーズがあると言う点です。良いニーズとは、取りあえずここでは、必要最低限であり、環境への負荷が最小限で、持続可能性が高いものと定義しておきます。逆に悪いニーズとは、これと真逆で、慾深く、自己中心的で、資源を浪費し、持続可能ではないものとなります。
具体的に悪いニーズの例を挙げると、例えば馬力のデカい車に乗って、普通の車をスイスイ追い抜いて、優越感を感じたいと思うと言ったものになります。ネットを使って、楽をしてお金儲けがしたいというのも、悪いニーズの例の一つとして挙げておきましょう。殆ど何もしないで、お金が儲かるいうことは、誰かが知らない間にお金を損していると言う事と同じ意味になりますので、やはり不労所得は、間違いなく持続可能ではないでしょう。その代表例としては、いわゆる株や電子マネーなどを使ったマネーゲームが例示されるでしょう。株を安値で買って、高くなった途端に売り抜ければ、汗をかかずにお金を儲ける事ができるのでしょうが、裏では誰かが後手に回って、損をしている筈なのです。誰かの損の上に、誰かの得が乗っかっている状況は、経済的には合法でも、やはり倫理的には「悪い」ニーズによる、悪いモジュールの働きと言う事になってしまいます。
では良いニーズとそれを実現する良いモジュールの例になりますが、なかなかズバリと言えるものは見つかりそうもありません。と言うのも、人類がここまで繁栄した(得した)裏には、多くの生物の絶滅や、資源の枯渇や環境の悪化などの諸悪が積み上がってしまった訳で、人間の得が環境の損という相反するベクトルの融合点がなかなか見つからないからです。その中では、環境負荷を可能な限り抑制するニーズとそれを実現する様なモジュールが、「あまり悪くはない」例になるのでしょうか。具体的に言えば、再エネの拡大がその例になりそうです。

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2020年9月 6日 (日)

3827 何で食っていく?

結局、長く続いた国の景気刺激策はと言えば、ひたすらお金をダブつかせ、そのお金で株を買わせて株価を上げ、円高を抑制しつつ海外からインバウンド客を誘導する、と言ったものでした。地方創生とか口では言いながら、長距離バスで移動する海外の観光客が、観光地に少しお金を落としたり、時たま港に豪華客船が立ち寄り、慌ただしく何十台ものバスで観光客が動いたリしたものの、何時まで待っても具体的な経済の波及などは見られなかったのです。地方創生とは、ある政策を以って、地方に然るべき産業を興し、雇用を創出する必要があるのですが、一方では地方自治体では相変わらず、税制優遇をエサにした企業誘致くらいしか具体策を持ち合わせていない様です。
真の地方創生とは、地方の中でお金がグルグル回る様な、仕組みを作ることだと思うのです。地方は、地方交付税や個人レベルでは、給与や年金の多くの部分を、中央に吸い取られてしまっているのです。大規模公共事業では中央のゼネコンが采配を振るい、市民はエネルギーや加工食品や日用品や車などに対して、大企業を通じてお金を吸い上げられているのです。
そうではなくて、地方でお金が回る仕組みとは、地方発の再生可能型エネルギーで地域の需要の大きな部分を賄い、地域で採れる食料を地域内で加工しながら消費し、余った分を中央に送って売り、車や設備などを地域内で上手にメンテナンスすることによって、外に出るお金を抑制しつつ、それらを維持するための産業を生み出す必要があるのです。
かつて、何度かヨーロッパを訪れて、優れた仕組みを見学したことがありますが、南ドイツのある村の取組みは特に印象的でした。そこでは、林業、農業、製造業、エネルギー産業などがバランス良く整っていたのです。村内では、山の木を循環的に利用する林業があり、その材を使って村内の住宅や公共施設が村人の手によって建設され、畑ではナタネを育てて、そのナタネ油で車やトラクターを動かし、村内には村外から買ってきたトラクターを林業用機械の改造するための工場まであったのです。結果として、職もあり子育てし易い村の環境が、都会から若い家族を引き寄せ、幼稚園や小学校にでは多くの子供たちが走り回っていたのです。結果として、この村ではお金が村外に出て行かないのです。何より田舎が子育てする若い家族には理想的な環境であるのは間違いが無いでしょう。勿論、年配者にだって暮らしやすいのです。何故、この国では地方創生が、インバウンド誘導しかなく

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2020年9月 5日 (土)

3826 観光業界のシェイクダウン

インバウンドも、日本から海外に出かけるアウトバウンドも激減し、観光(旅行)業界は、このコロナ禍で大きなダメージを受けています。90%の激減などと言う数字は、これまでの連続的な経済活動の中では、激震でパックリと大きな断層が出現した様なショックなのでしょう。断層ですから、元に戻ることはなく、地震が治まった後にもかなりの後遺症が残ると想像しています。大きな地震では、例えば鉄筋コンクリート造や鉄骨造の耐震構造の建物は残るでしょうが、古い構造の華奢な建物は倒壊してしまうでしょう。
お国の旗振りで、急増したインバウンド客を受け入れるために建増しした宿泊施設や、急激に数を増やした旅客機や高速バスと言った設備投資が、このコロナ・シェイクダウンに耐えられるかどうかですが、投稿者としてはかなり難しいと見ています。つまり、減価償却が進んだ設備で対応可能は事業者は残れるのでしょうが、急激な投資で多額の負債を抱えている事業者は、間違いなく資金繰りに行き詰まり、消えて行かざるを得ないと見ているのです。
社会が行動自粛に慣れてくるにつれて、人々は熱に浮かされたかの様に旅行に出かけ、美味しいものを食べ、それを写真に撮って、お土産やブランド品を買って帰るだけの旅行(物見遊山)などのために、何もしょっちゅう出かけなくても生きていけるという事に気が付いたと言う事なのでしょう。
統計データを少し振り返ると、2012年までのインバウンド旅行客は精々1千万人以下のレベルで推移していたのです。しかし、国が突然旗を激しく降って、あっと言う間に(5-6年で)3千万人を数えるレベルまで増やし続けたのでした。さあ次は4千万人だと意気込んだところを襲ったのがコロナ禍だったのです。冷静に眺めれば、数年で3倍に成長する産業など、誰が考えても「バブル需要」でしかないことに気が付く筈なのです。関係者には申し訳ないのですが、バブルは弾けるしかありません。バブル前の、1千万人レベルの設備状態に早急に戻さなければ、観光(旅行)業界は壊滅的な打撃を受けてしまうだろう事は素人目にも明らかです。

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2020年9月 3日 (木)

3825 技術屋モジュール

投稿者は卒業したとはいえ、元技術屋なので、曲がりなりにも自分の中に技術屋モジュールが存在し、残っているはずです。そのモジュールとは、つまりはあるニーズを科学・技術の力を借りて、モノの形で実現するモジュールである訳です。例えば、投稿者は航空機の生産技術を生業としていましたので、設計された航空機の部品をある許容されたコストの中で、品質を保ちながら製造する仕組みを作らなければなりません。設計図と言うインプットにより、実際の部品と言うアウトプットを出す役割を担ったモジュールと言えるでしょう。
つまり、個人の中にある一つのモジュールは、あるニーズに基づいて、一定のインプットの条件下で、ある水準のアウトプットを出すものであると定義できるでしょう。それが、ハードウェア(一部にソフトウェアを含む場合があるが)の製品であれば、それが技術屋モジュールと言う事が言えるでしょう。
しかし、考えてみなければならないのは、ニーズ、インプット、モジュール、アウトプットそれぞれの質でしょう。そもそも、顧客からの滅茶苦茶な「わがままニーズ」に真面目に応え様とする技術は失敗するでしょう。それは、質の悪いニーズに応える悪い製品だからです。同様に、瞬間的に爆発するような「ブーム」によって引き起こされるニーズも、質の悪いニーズと言えます。
一方で、質の悪いインプット(設計図)も、下流に悪い流れを呼び込みます。過去に起こった、多くの事故は、かなりの割合で設計ミスに起因するものも含まれていた筈です。表面に出るミスは、リコールと言う形で公表されますが、水面下には多くの未公表の事故が隠れているのです。また、質の悪い製造(生産)技術も、質の悪い製品を生み出します。しっかり定まってはいない工程、未熟な作業者、製造設備のメンテ不良、不十分な検査、などによって不良品が工場の外に出てしまうのです。
しかし、近年この技術屋モジュールに新たな質判断の基準が加わっています。それは、持続可能性と言う基準です。素材の継続的な調達の保証、製造と製品使用中に掛かるエネルギー消費量、製造工程中と製品使用後に発生する廃棄物の適正な処理など、その製品が環境に与える負荷(インパクト)が、如何に低いかが問われる時代になったのです。その意味で、一例ですが、使用中の環境負荷(化石燃料の消費率)が、鉄道に比べて1桁高い航空機は、やがて淘汰されるべき交通機関だと断言できます。これが、投稿者が50歳の頃に航空機の技術屋を卒業し、環境屋になった所以でもあります。

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2020年9月 2日 (水)

3824 私とは?2

3823の最後に、私たちがある状況に置かれると、その状況に合わせた行動ができる様に、脳の中にモジュールができると書きました。という事は、生まれ落ちてからの脳の発達(自我の形成)に対しては、脳は受動的に対応するとも考えられます。脳が、何か自分で目的を見つけて、能動的にあるモジュールを作り出す事は、普通では起こらないと見ています。
そうであれば、私(たち)の脳に、有効ないくつかの行動モジュールを形成しようと考えた場合、先ずはそれにふさわしい状況の中に身を置く必要がありそうです。勿論、同じ状況に置かれた別々の人間に、全く同じモジュールが育つと言う訳ではないでしょう。一卵性双生児においてさえ、異なったモジュール(個性)が形成されてしまう事でもそれは分かります。増してや、異なった遺伝子を持って生まれた他人においておや、と言う事でしょう。それでも、モジュールの形成には継続的に「良い」刺激が受けれる様な状況(環境)が不可欠であると言う点は変わらないでしょう。
問題は、その状況に「意に反して」投げ込まれたか、あるいは自ら進んでそこに飛び込んだか、と言うモチベーションの違いは、出来上がるモジュールの質に決定的な差を生み出す筈です。つまり、良いモジュールでは、状況の変化に対して「ポジティブ」な反応を起こすでしょうし、出来損ないのモジュールでは「ネガティブ」なものとなってしまうでしょう。良いモジュールの形成に必要で有効なイベントは、多分いくつかの成功体験の様な気がします。それによって、モチベーションが強化されるのは間違いが無い事実だからです。逆に、その状況で失敗が続いてしまうと、歪なモジュールが出来上がってしまうでしょう。
勿論、生まれついての性格(傾向)の様なものもあるとは思いますが、やはり真っ白な脳をある色に染めるのは、幼児期の親の対応であり、幼児期の家庭内でのモジュール形成は最重要であることは論を待ちません。その意味でも、人生で子供一人に対してたった1回しか親になれない身としては、自分の子を眺めるにつけ、数々の失敗を苦い思いで振り返るしかありません。もう一度親をやり直せるチャンスが与えられるなら、良い「子供モジュール」が形成できるのに、と不十分な「父親モジュール」しか持てなかった自分を振り返り反省しきりです。勿論、あれもこれも完全な後知恵ではありますが・・・。

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2020年9月 1日 (火)

3823 私とは?

ZOOMミーティングの続きの雑談で、「私とは何か?」と言う話題になりました。その時は上手く言えなかったのですが、投稿者としての考えは、次のようなものなのです。人は、生まれた時はほぼ真っ白で書き込みの少ない脳を持ってこの世に出てきます。脳は、信号(=入力)を処理して、自分が生き易くなる出力(=行動させるもの)を出す器官ですが、やがて赤ん坊の脳には、種々の「モジュール」が出来上がってくると思っています。つまり、母親や家族との関係で、自分は無力な赤ん坊であると言う自覚?での行動パターンを起こすモジュールです。お腹がすいても、オムツが濡れても、何処かが痒くても、暑くても寒くても、取りあえず鳴けば誰かが何とかしてくれるでしょう。
やがて、物心がつくにつれて近所の子供や大人たちとの間に、社会的な関係が生まれてご近所社会モジュールも出来てくるでしょうし、幼稚園や小学校でもそれぞれのモジュールが出来てくる筈なのです。やがて、学校を卒業すれば、社会人となってサラリーマン(職場)モジュールも出来るでしょうし、友人たちとのモジュールや趣味モジュールも出来てくるかも知れません。投稿者の結論としては、これらを全て括ったものが、自分=私と言うモジュールだと思うのです。各モジュールの中では、何度かの経験を通じて私の行動パターンも決まってきますので、自分以外の人がその行動を眺めて「個性」なるものを発見することもあるのでしょう。
勿論、一つのある刺激(入力)に対して、同じ人が同じリアクションをするとは限りません。その時々で状況が異なるからです。それを、投稿者はモードに違いとして大まかに括ってみました。モードは3つあり、脳のある部位(扁桃核など)が関係していると言われています。その3つのモードとは、「戦う、耐える、逃げる」です。
つまり、人はある状況で行動する際には先ず、その時使うモジュールを選び取り、周囲の状況に応じて、3つのモードの内の一つを選び取ると考えるのです。サラリーマンが、会社に着くと同時に直ちに職場モジュールに切り替わり、退屈な業務を殆ど「耐える」モードで過ごすのです。時には会議で、自分の意見とは異なる意見の人と意見を「戦わせる」モードになることもあるかも知れませんが、戦うモードは持続は出来ないのです。しかし、逃げモードだけを続けていると、やがて自閉的なモジュールが出来て、その中に閉じこもってしまう人も出来てしまうのかも知れません。もしかすると、近年社会に順応できない(出来にくい)人の割合が随分多くなった所以かも知れません。
投稿者としては、私たちに色々なモジュールが出来てくるのは、人がある状況に投げ込まれると、その状況の中で楽(あまりストレスを感じないで)に生きていくために、脳がそのモジュールを作り出さざるを得ないのかも知れないとも思っています。

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