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2021年3月31日 (水)

3917 ボトルネック2

ボトルネックは、何も地政学的なものに限った話ではありません。経済活動を見回せば、例えば希少な資源などでもボトルネックが多く存在する事が分かります。例えば、偏在する資源としては石油やレアアースなどが挙げられますし、一方で大規模な製造設備を必要とする製品としては半導体を使った部品、つまりはCPUやメモリーや太陽光発電パネルなどが挙げられそうです。
社会の経済効率を追求した場合では、勿論製造設備を大規模にして、量産効果を狙う方向なのですが、例えば自然災害や生産設備の故障や工場火災などが原因で、生産・供給がストップしてしまった瞬間から、関連する産業や社会活動でさえギクシャクし始めるのです。それは、取りも直さず社会全体としてのストックが極限まで省かれ、在庫を持たないJIT生産こそがベストだというTヨタ神話が、社会の隅々まで浸透してしまっているからなのでしょう。
中東の運河が1週間ばかりフン詰まりを起こしてしまっただけで、ある工場では原料や半製品の供給が止まって、短期間の操業停止になるかも知れませんし、ショッピングセンターではいくつかの商品の棚が空になってしまうかも知れません。コロナの流行で、消費が少し落ち込んでいたのが、少しは助けになった可能性はありますが・・・。
ボトルネックの解消には、そもそものネックを太くする方法も考えらますが、現実的な策はバイパスルートを設けておくことでしょうか。例えば、アジアと欧州の交易について言えば、一定の割合で鉄道便を混ぜておくとか、温暖化もあり夏場であれば北極海ルートの利用も現実味を帯びてきています。何より、今回のスエズ運河事故の教訓は、大は小を兼ねないというものであった事は銘記すべきでしょう。もし、今回事故を起こしたコンテナ船が、あれほど大きくない船体であったなら、座礁からのサルベージ作業はたぶん一晩程度で済んでいた筈なのです。巨大な工場や輸送手段は、効率が良い反面、実はボトルネックを起こす元凶でもあるのです。

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2021年3月26日 (金)

3916 ボトルネック

中東の運河で、巨大コンテナ船が座礁して動けない様です。座礁というのは正しくないかも知れません。なんせ砂漠を掘った運河なので、乗り上げたのは暗礁ではなく、岸に近い砂地だからです。運が幅がたった200mほどしかない場所で、400mもの長さの船が動けなくなった訳で、当然の事ながら運河は通行止めになってしまいました。コンテナ船は、高速での航行を基本として設計されていますので、運河での航行の様に低速での航行は苦手なのです。つまり、水の抵抗を減らすために線形は痩せており、抵抗となる舵版も高速では十分に効きますが、低速では殆ど効かないと言っても過言ではありません。
代わりに船を左右に動かすために、前後にはサイドスラスターと呼ばれる小さな推進器がつけられてはいるのですが、何しろ世界最大級の図体では、敏感に作動するとも思えません。多分、スラスターを動かし始めてから数十秒後にやっと反応すると言った程度でしょう。船長の判断としては、砂嵐で視界が悪かったのではあれば、然るべき場所で待機すべきだったのでしょう。
さて今回の話題はボトルネックですが、世界には多くのボトルネックが存在すると改めて考えさせられます。海運に限って見ても、パナマやスエズと言った国際的運河、マラッカやホルムズやボスポラスやドーバーと言った海峡などが思い浮かびます。そういった場所は、常に国際紛争の火種ともなってきましたが、悪い事にはそういった場所こそが、物流が集中する場所と重なっているのです。
つまり、経済が貿易に依存している日本の様な国をイジメるのに武器は必要ないのです。ボトルネックを押えている1国又は2か国が協力して、ボトルネックを締め付けるだけで良いのです。物流の遮断が始まると、仕方がないので貿易国はコストの高い迂回ルートを選択するしか手段が無くなるでしょうから、物価が上がり経済も苦しくなっていくでしょう。3914,15で述べたVUCAの時代、この国も可能な限り地産地消を推し進め、ボトルネックへの依存度を下げる様に努力する必要がありそうです。

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2021年3月25日 (木)

3915 OODAの時代2

VUCAの時代、素早くより正しい方向に歩みを進めるためには、OODAサイクルが有効だと書きました。しかし、それを担保するには条件も必要です。それは、より正しい事実を観察するための「観察眼」と、その得られた事実をより正しく分析・評価し仮説を立てるための「価値観」でしょうか。勿論、意思決定のプロセスでは混乱も予想されます。というのも、いわゆるステークホルダーの間には、必ず「利害の対立」乃至は「利害の不一致」があるものだからです。しかし、意思決定までのプロセスが正しければ、その後の意思決定の混乱回避はは比較的容易でしょう。もし、意思決定に困ったとしても、「では将来世代のためになるのはどの決定か?」との問いを立てれば、良いからです。これは、権利を強く主張する人たちの「殺し文句」でもあります。現世代に利害の対立があったとしても、誰も将来世代が不幸になる事は望まないでしょう。
さて問題は、優れた観察眼やより正しかろう価値観を、一体どの様にして育むかですが、これは兎にも角にも、常に今の時代に存在する問題を掲げて、その原因と対処方法を議論し続ける事しかないでしょう。それも、誰か偉い学者や政治家が議論を誘導するものであってはなりません。議論の参加者や聴衆も一緒に考える場でなければならないのです。それも一度や二度ではなく、同じ問題や課題に対して、いくつか視点を変えて、徹底的に原因を突き止め、その解決法を議論するのです。
例えば、今回の新型コロナのパンデミックですが、私たちは歴史の中で、何度もウィルスや細菌によるパンデミックを経験済みでもあり、この際「次なるパンデミック」に向けての課題と解決に至る道筋を改めて議論しておくべきでしょう。例えば、パンデミックとなる以前の、感染初期の情報の集め方や初期警報の出し方ならびに初期消火の手順は決めておく必要があるでしょう。そのためにも、パンデミックに至る「感染の仕組み」の解析は特に重要です。というのも、今回のコロナパンデミックでは、豪華客船の感染者やB漢からの帰国者が、流行の起点になったのは間違いないのでしょうが、その後の感染拡大には経路が不明であるケースが余りにも多いからで、感染経路も飛沫感染だとかエアロゾルだとか、接触感染だとか、議論が分かれていて、必ずしも明確にはなっていないからです。
私たちは、今回のコロナパンデミックに関して、可能な限りの科学的データを集め、来るべき次期パンデミックに向けての原因特定や対処方法を学習しておくべきでしょう。その上で、それが発生した場合でも、一刻も早くOODAサイクルを回す訓練を重ねておくべきでしょう。専門化会議などは、平時でも常設しておくのも良いかも知れません。

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2021年3月23日 (火)

3914 OODAの時代

このタイトルでは一度位は書いた様な気もしますが、おさらいのの意味でも再度書いておきます。その前に、1990年代に不確実性が高く予測のしにくい時代の象徴として、VUCAという言葉が流行ったことがありました。自然災害の多発や新型コロナなどもあり、最近再度このVUCA:「Volatility:変動性」、「Uncertainty:不確実性」、「Complexity:複雑性」、「Ambiguity:曖昧性」が脚光を浴びてきた様な気がします。
確かに、比較的最近にSARSやMERSは経験した人類も、今回の新型コロナの全世界の及ぼしたインパクトは、殆ど予測不能だったでしょうし、従って対処も後手後手に回ってしまったのでした。増してや、このウィルスは次々に「変異株」を作り出して、「Volatility:変動性」、「Complexity:複雑性」を増加させ続けてもいます。
その様なVUCAをまとった諸現象に対処するプロセスとしてはOODAしか無いと思うのです。継続的改善に向けては、これまではいわゆるPDCAサイクルが定番でした。このサイクルは、P:Plan(計画)、D:Do(実行)、C:Check(評価)、A:Action(改善)を繰り返し、商品や品質の管理を計画的かつ継続的におこなうものです。計画通りに改善を進めるため、長期的な戦略でメンバーにも共有されやすいというのが特徴です。
それに対してOODAは、O:Observe(観察)、O:Orient(仮説を立てる)、D:Decide(意思決定)、A:Action(行動)を「短期間」で繰り返していくため、OODAループとも呼ばれます。先ず最初のO:観察とは、先ずは出来るだけ多くの事実やデータを観察により積み重ねるステージです。次のO:仮説を立てるでは、事実やデータに基づいて、今何が(どんな原因で)起こっているのかという仮説を立てるステージです。勿論、この仮説に誤りがあると次のステージの意味も失せてしまいます。その正しかろうと思われる仮説を受けて行動すべきことをD:決定するのです。意思決定後は、A:行動あるのみです。PDCAサイクルは、合理的に見えますが、Pの計画を立てる前に、事態を分析するというステージが抜けているのか欠点とも言えるサイクルだと思うのです。加えて、改善が生まれるのが、例えばCAサイクルの完了する1年後になってしまう場合も多いのです。
一方でOODAサイクルでは、仮説さえ立てられれば、決定や行動のステージには速やかに進めるでしょう。つまり、サイクル時間を短くできるメリットがあるのです。勿論、仮説の信頼性は非常に重要です。正しい決定のためには、正しい(分析と)仮説を立てる事が必須だからです。この国では、いわゆる官邸主導や閣議決定という決定プロセスが先ずあって、それにお役人が理屈を後付ける様なプロセスが横行しています。そうではなくて、正確な分析に基づく、正しい仮説が無ければ、決定などすべきではないのです。新型コロナも1年以上時間が経過し、事実やデータがかなり積み上がってきましたが、まだ納得できそうな仮説や、終息に向かうためのシナリオが明確には見えていない様な気がします。この国のシステムである立法=国会審議やそれを回すために、優秀な官僚が多大な準備時間が取られる、今の政治システムはPDCAにはそれなりに適しているのでしょうが、OODAには全く不向きであるとしか言えません。OODAは、人数を絞った優秀なメンバーで構成されるタスクフォースチームによってのみ、効率的機能するからです。続きます。

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2021年3月19日 (金)

3913 ジャンボジェットの終焉

1960年代の終わりに登場したB社のジャンボジェット機(B747)は衝撃的でした。当時は皆、あんな大きくて金属で作られた機体が、数百人もの客を乗せて、空を飛ぶなんてことが信じられなかったと想像しています。その流れに乗って、総二階建て構造として更に乗客数を増加させたAアバス社のジャンボジェット(A380)も開発されました。初飛行こそ今世紀に入ってから行われましたが、A380も「大きい事は良い事だ」のキャッチフレーズが作られた20世紀の遺物だと言えるかも知れません。
A380を受け取り運航している航空会社は、購入を後悔し、今現在はたぶんこの怪物を持て余しているのだろう、と想像しています。600人前後の乗客を集め、彼らを空港から与えられた短い時間で乗降させ、多数のCAを雇って機内サービスを行い、エンジンが4基もある機体を整備し、長時間かけて多量の燃料を補給しながら毎日運航する事を想像しても、その苦労が偲ばれると言うものでしょう。要は、「大は小を兼ねる」という言葉は、従って「大きい事は良い事だ」というキャッチフレーズも、今の時代には全くそぐわないと断ずるしかないのです。それは、Aアバス社が僅か200機の製造で製造を打ち切ったという事実でも明らかでしょう。

一方、B737やA300シリーズの様な中型機であれば、上手く仕組みを整えれば、空港での駐機時間は30分程度に短縮できるという実例があります。乗客を少し減らして、燃料を多く積めるようにすれば、多くの航空路線で国際便としても使えるのです。かつて9.11事件の勃発時には、国際線の乗客は一時40%まで減少しました。今回のコロナパンデミックでは、たぶん国際線の利用客は90%以上は減少したはずです。不要不急の旅行客(物見遊山客)は、潜在的には50%以上存在すると想像しています。であれば、旅客機の乗客数だって200人もあれば十分なレベルと言えるでしょうし、旅客機が小さければ取り回しも楽でしょうし回転率も向上できる筈です。
これからの時代のキャッチフレーズは「大きい事は無駄な事」とでもなるのでしょうか。これを敷衍すれば、それは全ての分野に亘っても言えることで、製造業、運輸業、発電所やインフラなどなど、これまでは規模のメリットを主張してきた業界も、同様にその方針を見直して、最適なサイズを再考べきでしょう。

 

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2021年3月16日 (火)

3912 バイオ燃料

緑藻類を使ったバイオ燃料やバイオ航空燃料の製造や実用化がネットニュースになっている様です。勿論、それで全量を賄う事など出来ないでしょうから、削減義務を負わされている石油消費家は、例えば石油燃料に5%程度混ぜて使い、石油(=CO2排出)を5%削減したと発表したいのでしょう。
投稿者が実際に見聞きしたバイオ燃料の例を挙げると、1)ナタネ油をSVO(直接燃焼)として農業機械の稼働(ドイツ)、2)ナタネ油をメチルエステル化してのディーゼル車の運用(国内)、3)ブラジルにおけるエタノール車の運用(ブラジル)などですが、それぞれに課題を抱えている様です。1)はナタネを栽培するための広い農地が必要ですから、食糧生産との農地のバッティングが問題になるでしょう。2)では、廃食油を使ったとしても、改質の使用するメタノールの確保とメチルエステル化の過程で生ずる大量の廃棄物(グリセリン)の処理でしょう。3)でもブラジルの様に農地が豊富な国では、石油と競合は可能なのでしょうが、他の国では実用化は到底無理でしょう。加えて、エタノールはガソリンに比較して熱量が小さいので、車の馬力が大幅に低下もします。
では、緑藻類を培養して得られるバイオ燃料の実用度はどうなのでしょう。現状では、ガソリンと同等の燃料の製造は無理の様で、軽油や航空燃料(ケロシン)を代替するのが精々なのでしょうが、いずれにしてもクロレラ培養のための広い培養池が必要です。クロレラは葉緑素を持つ「植物」なので太陽光を使って光合成をおこなって増殖します。従って、培養には豊富な日照時間も必要とされる訳です。狭い国土のこの国で、ではその様な広い培養池の確保が可能かと考えてみても、田んぼでも潰さない限り土台無理な相談だと言うしかないでしょう。
ジェット燃料に経った5%程度のバイオ燃料を混ぜて飛ばすくらいなら、飛ばす航空便を5%減らす工夫をした方が近道でしょう。ましてや、新幹線網が張り巡らされているこの国で、短距離の旅客便を飛ばす意味など見出す事は出来ないでしょう。私たちは、輸送システムに関してあまりにも便利で速い事を求め過ぎている様です。先ずは、省エネ=節約による大幅な石油消費量の削減こそが最優先なのです。

 

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2021年3月14日 (日)

3911 多様性と包摂性

SDGsへの取組の中で最も重要なキーワードは、多様性と包摂性と言われています。多様性とは、言わずもがなですが、人間社会では、人種や性差や障害の有無、あるいはSGBTなどの人の多様性やその人々が作り出す文化の多様性などを意味します。また、環境における多様性は、気候や風土が作り出す、多様な環境の中で育まれる、植物や動物(含む微生物)の多様な分化とそれぞれの棲み分けを意味します。
では包摂性とは何を意味するのでしょうか。確かに包摂性という言葉は日常語ではないため、良く分からない抽象的な概念を含む言葉だと言えそうです。投稿者の解釈では、例えばより包摂的な社会では、上に述べた多様な人々を、許容し包み込むような懐の深さを持つと言えそうです。自然環境も、非常に大きな包摂性を持っては居ますが、人間の排出する環境負荷が余りにも大き過ぎるため、近年ではその包摂性を超えて、気象変動を含む後戻りの効かない環境の変化(悪化)が問題になっているのです。それは、環境の包摂性への人類の「甘え」としか言いようがないのです。
英語圏でのたとえですが、「パーティーに招待されること」が多様性、「ダンスに誘われること」が包摂性と言われている様です。つまり、多様性とはパーティに招かれた客層の振れ幅の様なもので、事実そのものと言えますが、一方でダンスに誘われる様な客は、ダンスの上手下手は別にすれば、招待した主の包容力の中に包まれている状況と言えるでしょう。
SDGsにおいては、環境の持続性を担保するために、人間社会の在り方が問われる訳ですから、これまでの様に自然環境の包摂性に甘える行動は控えなければならないでしょう。逆に、生物の多様性のためには、人間側の欲望(の多様性)は、かなりの程度抑制的な範囲に留める必要がありそうです。しかし個々人の自主的な抑制行動(自粛)に任せていては、コロナの感染の様に先行きは見えないでしょう。やや厳しめな抑制法で縛る必要があると思うのです。例えば、プラスチックごみの削減を考える際に、レジ袋の有料化だけでは全くと言って良いほど効果が無いのは明白でしょう。プラスチックの生産量を制限するか、プラスチックの再使用やリサイクルを義務付ける様な法整備が不可欠なのです。その意味でこの国は、その様なルールを作るに当たっては、常に及び腰で、欧州の様な環境先進国のお手本の後追い程度しか出来ないという残念な国(環境二流国)だと断ずるしかありません。

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2021年3月12日 (金)

3910 災後に思う

あの東日本大震災以降、津波に襲われた被災地の悲惨な状況を指して、「戦後」に対応する言葉として「(震)災後」という言葉が充てられたのだとか。しかし、この国において災後などという言葉は意味がなく、常に「災前」であると考えなければならないとは思います。
最近でも、大地震発生のメカニズムとして、これまでのシンプルなプレート移動+大陸棚跳ね返り説に加えて、プレートの岩盤中の生物の存在が岩石の脆弱化に関連しているとか、これまでの大地震の発生想定サイクルよりかなり短い「スーパーサイクル」が存在するだという新説が提出され、その証拠も見つかり始めています。もしそれらが正しいとすれば、この国の次の大震災発生の頻度は高く、リスクもこれまで考えられていたより、かなり高くなると身構えなければならないでしょう。身構えると言っても、地震を防ぐ「防波堤」などは作れませんから、ひたすら発生後の混乱を小さく抑える事くらいしか出来ないでしょう。個人では、精々防災袋や非常食を準備することくらいでしょうし、インフラに責任がある行政側としてみれば、公共の建物や橋梁などの耐震工事以外に有効な対策がある訳でもなく、ひたすら地震発生まで待ちの姿勢しか考えられないでしょう。
震災で最も被害を受けるのは、言わずもがなですが、都市の人口密集地帯でしょう。人口密度、住宅密度、インフラ密度が極度に高いエリアなのです。人口増加=都市エリア拡大に伴って、防災という視点を軽視して無秩序に作られたインフラや建物・住宅など密集する大都会が、大震災の見舞われた時の被害は、関東大震災や阪神大震災を引き合いに出すまでもなく、その何倍にも上ると思われます。取り分け、木造家屋の密集地帯では、阪神大震災でも経験した様に、火災の多発が犠牲者を大幅に増加させるでしょう。
首都機能の分散の論議は、生まれては消えて今に至っているのですが、実際に首都が直下型の大地震に見舞われた時を想像しても、右往左往する数百万人の姿が浮かぶだけです。それは、鉄道が壊滅し、瓦礫で車も使えす、食糧もろくに手に入らない状況で、電気も水も絶たれ、トイレさえも使えない「難民が」仕方なく歩いて郊外に向かう姿です。
この国では、当事者は別にして、何時までも災後として10年前の過去を振り返っている暇などは無い筈なのです。来るべき次の大震災に備えて、一日も早く本格的な首都機能の分散と同時に、人口の地方分散政策に着手しなければならないのです。災後=災前なのですから。

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2021年3月 8日 (月)

3909 手放し運転車2

自動運転車の普及の如何は、結局機械に対する信頼性の問題に還元できるでしょう。車に運転手が必要なのは、車は自分で勝手に動く事はないように作られているからに過ぎません。軌道上だけとはいえ「ゆりかもめ」の様に自動運転を前提にした乗り物では、普通に自動運転は行われてもいます。とは言いながら、それとて中央監視室で誰かが監視を行っているので、運航の安全は担保されているわkです。しかも、運航は交差点や正面衝突の心配のない軌道上に制限されていますから、いわば1次元の制御というシンプルなシステムで、事故を回避している訳です。
一方で車は、道路網という2次元の広がりを持ったフィールドの中で、安全に運行しなければならないので、制御ファクターが非常に多くなってしまいます。坂道や道路の段差もあるでしょうから、事実上3次元の制御も必要となるので、最早機械自身が持つ自立型の自動運転制御では、安全を確保することは土台無理な話なのです。加えて、他の自動運転車や従来からの手動運転車が道路上に混在する訳ですから、安全な完全自動運転車の登場など全く考えられないのです。
そこで、車メーカーとしては、目新しさを狙いつつ機能を制限したレベルいくつといった、半自動運転車でお茶を濁す事になる訳です。これは、イザという場合の手動への切り替えを前提に、運転者が乗っているという車ですから、単に自動運転時に運転者が楽ができる程度のシロモノに過ぎません。更に考えるべきは、システムの信頼性でしょう。自動運転車のシステムには、必ず周囲を監視する「センサー部」と車のハンドルや車速を制御する「アクチュエータ部」と、情報を処理し判断する「コンピュータ部」が必要です。しかしながら、いずれの要素も、汚れや経年劣化や断線、接触不良と言った原因からの誤作動を回避する事は不可能であるというしかありません。つまり、技術屋がどんなに頑張っても信頼性100%のシステムを作る事など出来ないのです。だからこそ、機械のエラーを監視するために運転者が必要とされてる訳です。
勿論、信頼性が100%に届かなくとも、某大手車メーカーが実験的に作る街で、全ての車が登録され、監視され、コントロールされているケース閉システムの中では、自動運転車を走らせることは、「常時監視」という条件下で、可能ではあるでしょう。しかし、自動運転車がその街の外に出る事は叶わないのです。車メーカーが、こんなバカげた街を作る前に是非為すべきは、絶対に誤発進・暴走事故を起こさないオートマ車の開発でしょう。それは、起こしかけた暴走を止めるスマアシ車などではなく、そもそもアクセルとブレーキを踏み間違わない様に、人間工学を考慮した本質安全車を指します。その点、オートバイは手動アクセルと足踏みブレーキという手・足分離による制御と行っているという理由で、人間工学的な安全性は、車より数段優れていると言えるでしょう。

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2021年3月 5日 (金)

3908 手放し運転車

レベル3の自動運転車が発売されたそうです。このニュースを見ての感想は「人は何処までズボラになるのか」でした。そんなに、ハンドルを回したり、アクセル・ブレーキの操作が面倒なら、車など乗らずに、電車・バスを使えば良いでしょう。投稿者は、ずっとマニュアル車に乗り続けていますが、車の運転は嫌いではないし、それどころか両手、両足を駆使して車を運転する事は、身体や頭の老化防止に効果大と見ています。車を発進させる際には、半クラッチ(左足)とアクセル(右足)の絶妙なシンクロが求められますし、何より坂道発進に至っては、更にハンドブレーキ(左手)との三位一体の操作が必要なのです。
そんな、運転操作を殆どしない(させない)自動運転車は、どれほど人の持つ能力を「退化」させるのか想像もつきません。そもそも、オートマ車での急発進事故は何度も発生していますが、マニュアル車での同様事故は、たぶん全く報告されていないと思います。自動化=能力退化と見做せば、まさに工場の家電や車やそれを作る工場の自動化の歴史は、人の能力退化の歴史と言い換えても良さそうなくらいです。ヒトは手の機能を異常に進化させた動物ですが、それを使って工夫を重ねながら道具を作り、その道具を使って更なる高度な道具や機械を作って来たわけですが、近年は自動化によって、それら工夫する楽しみや能力を、急速にしかもかなりの程度奪われている様な気がしてならないのです。つまり自動化とは、ヒトの能力を機械に依存し、その能力を退化させる行為そのものなのです。
くり返しますが、ヒトは手を使わなければ、急速に退化してしまいます。骨折などで一時的に寝たきりになった高齢者が、骨折が癒えても結局そのまま寝たきりのままになってしまうのは、歩行能力が急速に「退化」した結果だと言っても良いのです。マニュアル車で運転を始め、オートマ車に乗り、更に自動運転車に乗り継いだ人の、車運転能力も間違いなく急速に「退化」してしまうのは間違いないでしょう。貧乏な投稿者は、間違いなく高価な自動運転車は買えませんが、たとえ買えても能力の退化という犠牲を払ってまでそれを選択する事はないと断言できます。

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2021年3月 3日 (水)

3907 脱原発への遠い道のり

国会の論議を聞いていて、何時もイライラします。脱二酸化炭素宣言は是とするにしても、野党の脱原発への質問に対しては、与党は何時も「安定電源の確保」の一点張り逃げを打つのです。安定電源ではなかったからこそ、福一での原発事故が発生したのであり、稼働時間に比例して増え続ける放射性廃棄物の処理に関しては、未だに有効な道筋が示されてもいないのです。原発から出る放射性廃棄物は、国内では何処も最終処分地を引き受ける自治体が現れない、厄介者であり続ける運命なのです。勿論、いくら巨額のお金を積んだとしても、海外の国がそれを引き受ける筈もないでしょう。
であるならば、放射性廃棄物が原発敷地のプールに収まっている現在の状態で、一刻も早く「脱源発」を宣言し、原発への依存を止めるべきでしょう。原発は、敷地内に核のゴミを抱えたままで、その放射能が弱まるまで、核のゴミの墓場として現状維持するしかないのです。何故なら、地震国であり火山国でもあるこの国では、国内に地盤が安定していて、未来永劫に亘って地下埋設できる様な土地は見つからないでしょうから、それを所管する自治体だって埋設を認可する可能性は殆ど無いでしょう。比較的に地盤が安定している、絶海の孤島でも存在すれば別ですが、そうでなければ比較的大きな島の全住民を移住させ、空っぽにした上で改めて核ごみの埋設場でも作らない限り、原発に核ごみを「仮保管」し続ける状況は変えられないのです。原発の立地自治体は、許容は出来ないのでしょうが、残念ながら現状を動かす事は叶わないのです。
この国のマツリゴトは、常に企業や経済活動の方を向いて動いてきたことは自明です。多くの規正法が、企業の悪事を取り締まるために作られましたが、それらは常に「後追い」であった事からも明らかです。東海村に国内最初の実証炉が建設されたのも、業界からのお神輿に乗った?、N曽根らが、S30年に国会に「原子力基本法」を上程したのが嚆矢だった訳です。その後は、国内の大手が、B国などの原発企業から技術導入を盛んに行い、次々に原発建設を進めたのでした。
しかし、人間が作ったモノは必ず壊れる事を忘れるべきではありません。金属は腐食しますし、応力下では「応力腐食割れ」や「疲労破壊」も起こすのです。原発は、コンクリートに閉じ込められた金属性の容器と配管の塊である事は間違いないので、経年劣化によりその危険性は年々増大するでしょう。この国は、何故欧州の環境先進国に様に、脱炭素と同時に脱原発の宣言が出来ないか不思議ですが、前述の様にマツリゴトと企業のもたれ合いが続く限り、原発政策の軌道修正は望めないのかも知れません。悲しい事ですが・・・。

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2021年3月 2日 (火)

3906 地域循環共生圏2

地域循環共生圏と一口に言っても、ではその実際のサイズ感としてはどの程度なのでしょうか。投稿者の研究?によれば、それは中小河川を直径とする円程度と言えそうです。具体的には、直径としては最大でも50㎞程度だと言っておきます。車を使う場合は、圏内では端から端まで1時間以内で移動できるサイズです。車移動が少なかった時代(例えば戦前)では徒歩や馬車での移動ご主だったでしょうから、そのサイズは直径でも20㎞程度に留まっていたでしょう。かつては、この様な小さな圏内で、経済活動の大部分が回っていたのです。
里山では、薪炭や山菜を採取し、村では食料を生産し、街では軽工業や醸造業や食品加工などの産業が営なまれていて、その圏内ヒト、モノ、カネがグルグルと循環していたのです。その圏内で調達できないものだけ、圏外の工業地帯にあるメーカーで作ったモノを移入し、代金は田舎で農林水産業などで稼いだカネで決済していたのです。
理想的な、地域循環共生圏は、結局狭い地域で自給自足できる範囲内で、ヒト、モノ、カネを循環させ、「必要かつ最小限」の足らざるは外部からの供給に頼る様な社会システムという事になります。その中では、必要以上に「お金」に頼ることなく、可能な限り物々交換か地域通貨などで決済する仕組みを工夫する事が肝要でしょう。お金(通貨)は、現代社会では事実上何にでも交換できる「価値」ではありますが、自分が手にしている価値をお金に交換する際には、必ず「損」をしてしまうのです。お金同士の交換でも、例えば外貨に交換する場合には、一定の割合で手数料の様なものが発生しますが、モノや価値をお金に交換する場合でも同様の事態が発生するのです。銀行でも、モノを売り買いし輸送する流通業でも、金利や各種の手数料を要求しますが、彼らはそれで利益を出して暮らしているのですから仕方がありません。とは言いながら、金融業や流通業が、必要以上に肥大化している事は間違いないでしょう。
逆に言えば、私たちは金融業や流通業などとそこで暴れ回る「お金」に踊らされているのかも知れません。私たちは、自分で食料を得るために、里山に入り、または庭で野菜を育てる行動を放棄して、代わりにお金を握ってスーパーマーケットに走るのです。これでは地域循環共生圏の実現どころか逆に「広域一方通行他者依存圏」などと呼ぶしかない社会なのです。この様な社会では、地球の資源を大量に採取し、大量に輸送し、大量に生産して流通させ、最終的には大量のごみを出して、埋め立て場を満杯にするか、海の浮遊ごみを増やし続ける結果しか生まないのです。地域循環共生圏へのアプローチとは、今の社会の経済サイクルを諦め、少し昔の小さい単位のサイクルに逆戻りさせる行動を意味するのです。

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2021年3月 1日 (月)

3905 地域循環共生圏?

環境カウンセラーのオンライン研修で、表題の説明を受けましたが、正直内容が頭に残りませんでした。背景には、SDGsの目標年度(2030年)まで10年を切り、それを担ぐ(担がされた)K境省が、色々な活動を、全部てんこ盛りにした「曼荼羅図」に仕立ててしまった事があります。曼荼羅ですから、森羅万象が何処かに描いている事は分かりますが、では取りあえず庶民は何を為すべきかが読み取れないのです。昨日のNスぺで、南の島の子供たちがプラスチックごみを減らす運動を起こし、それが国全体を動かし始めた事例が紹介されていましたが、プラスチック減らしは確かに環境悪化への歯止めとしては有効でしょう。
しかし、為すべきは庶民の行動への期待だけであってはならないでしょう。先ずは、国や行政によるルール作りだと思うのです。プラスチック(容器)ごみ減らしには、業界を挙げての容器リサイクルの仕組み作りが始まっていますが、そもそも最終的にはリサイクルするにしても、一方通行の物流をそのままにして、容器ごみが減る筈もないでしょう。かつての様に、容器は再使用するシステムを行政のルールとして取り決めるべきなのです。メーカー各社が規格化した、厚手のPETボトルを使って瓶詰を行い、小さなシールで商品名を表示して販売すれば、その容器を専門の業者が回収して洗浄し、再度メーカーに送れば、パウチやPETボトルの使い捨てが無くなる筈なのです。
さて、地域循環共生圏に戻りますが、投稿者なりの理解では、先ずは地域内で、人、モノ、カネを可能な限り回す仕組みを作る事から始める必要があると思うのです。食糧に関して言えば、都市は明らかに入超の地域であることは間違いありませんが、それにしても近郊で農地が残っている限りは、そこで可能な範囲内で食糧を生産すべきでしょう。勿論それだけでは、全く足りませんので、地域循環を実現するためには、国の政策として人口の地方分散化を進めるべきでしょう。行政組織の地方移転が叫ばれて久しいのですが、それが一部でも実現したと言うニュースはついぞ耳に入っては来ません。限られた地域での人、モノ、カネの循環が実現すれば、例えばコロナの様な感染性の病気の拡大も随分減らせたことでしょう。つまりは、地域循環共生圏とは都市化、グローバル化の真反対(対極)にある社会の姿だと言えるのです。続きます。

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