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2021年4月29日 (木)

3938 CO2半減3

CO2削減に関して投稿者からの提案は、先ずは省エネで3割削減を達成するべきだ、というものです。単なる、節約やケチケチ作戦だけで達成できる省エネは多分最大でも10%程度でしょう。しかし、本気モードでしかも工夫を重ね、ミリミリの省エネを実行すれば3割削減も視野に入って来る筈なのです。
例えば製造業ですが、どの工場を見回しても、エネルギーが無駄に使われている事に気が付きます。勿論誰も居ないトイレに電気がついていたり、長時間使われていない設備の電源が入っていて、暖気状態になって居たりと言った誰が見ても「明確なムダ」も見つかるのでしょうが、多くの無駄は「一見必要なムダ」あるいは「隠れムダ」なのです。ここでのムダなエネルギーとは、製品に付加価値を付けていないものを指します。例を挙げるなら、マテハンに関わるムダエネルギーがあります。工場の中で、材料や仕掛品を運ぶのに使われるフォークリフトや天井クレーンに使われるエネルギーは、製品に付加価値を付けていないという理由で無駄なエネルギーなのです。しかし、それが無いと作業が進まないという理由で使われているのでいわば「イエローカード」のエネルギーなのです。同様に、空調や掃除機などのエネルギーもイエロー(黄)エネルギーに分類されます。その意味で、工場で消費される圧縮空気の半分以上は、黄エネルギーと断定しても良いでしょう。
投稿者が長年眺めてきて、平均的な工場では、製品製造に必須の「青エネルギー」は4割程度、上記の「黄エネルギー」が同程度、残りは全くムダである「赤エネルギー」だと断言できます。つまり、赤エネルギーを徹底的に潰し、「黄エネルギー」を半減させるだけで、工場エネルギー(=CO2)の3割削減は十分可能なのです。
サービス業だって、この例外ではありません。ショッピングセンターではまぶしい程照明が目に入り、入口も食品売り場も日用品売り場も全く同じ温度設定としている冷暖房温度、など無駄が一杯なのです。サービス業では冷暖房も「青エネルギー」に分類はされるのでしょうが、細かく言えば強すぎる冷房が苦手な客(子供や高齢者)もいる筈なのです。ならば、冷暖房温度を抑え気味にする、弱冷、弱暖エリアを設定する事により、その分の空調エネルギーが削減できるでしょう。これは、むしろサービスの向上であり、省エネとサービスの質は矛盾しないのです。
単なる、再エネ代替だけでCO2半減の達成は全く無理ですが、省エネで3割のCO2削減を実現し、後の2割を再エネへの転換で稼げば、2030年のCO2半減は十分達成可能な数字となるでしょう。

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2021年4月28日 (水)

3937 CO2半減2

国が発表したCO2削減目標に立派な根拠があるにせよ無いにせよ、目標値を立てる事は良い事ではあります。その目標値がやや厳しめであればなお良いでしょう。問題は、目標を立ててからそこに至るまでの道筋(マイルストン)の刻み方であり、具体的な行動計画の作り方だと思うのです。お役人は、紙の上での計画の作り方は上手いのでしょうが、残念な事にキャリア組であればあるほど現場を知りません。従って、現場を知っていればとても立てられない様な「机上の空論」を使った計画を作ってしまう傾向にある様です。
つまり確かにCO2半減のための「数字」積み上げては居るのでしょうが、具体的な行動計画を積み上げている訳ではないでしょう。行動計画の積み上げでは、実はそのシーケンス(順序)が重要となりますが、数字だけの積み上げではそれがスルーされてしまうのです。例えば、水素社会を作って、石油に使用量を半減しようという計画を実現するには、水素を何処でどの様な手段で発生させてそれを輸送するのか。そのための国内のインフラや水素利用機器(例えば水素自動車)の開発と普及の実現のための道筋をどうするのか、といった計画の積み上げの結果として、削減量が積み上がる筈なのです。いわゆる官邸主導の計画では、お役人への指令は、「政府がこの数字を発表するので、そのための(後付けの)裏付け資料を作れ」と言ったものになるでしょう。
つまりグラフ上に削減の目標値を置いて、そこから現在までに線を引けば、削減計画のためのグラフが出来てしまうでしょう。それで、○○年度までの削減目標は、XX%であらねばならない、というお役所目標が決まってしまうのです。しかしながら、この数値目標の裏付けとなるべき、誰が何時までに、何をどの様に行い、そのための経済的裏付けはこうなっているという根拠は何処にも見当たらないのです。
この国の得意技は、先ずはお役人計画(机上の計画)を作った上で、外圧を上手く利用しながら、企業群に努力をさせて目標を達成すると言った手法でした。
CO2削減計画においても、削減目標は諸外国に比べてやや抑えめの数字を、それも各国の数字が出揃ってから「後だしジャンケン」気味に出すなど、これまでの行動パターンと何ら変わりが無い様に見えてしまいます。この国が、積極的に諸外国の先頭に立って行動し、多くの国々から尊敬される様になるのは、どうやら百年待っても無理な様に思えます。何故ならこの国は、政治システム上も、文化的土壌から見ても、世界をリードできる様なパワーのある強いリーダーが輩出されづらい国柄だからです。出るのはため息ばかりです。

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2021年4月25日 (日)

3936 CO2半減?

政府が2030年までのCO2削減目標を、2013年比で46%減に大幅増加した様です。それまでが2005年比26%減でしたから、大幅な増加と一応は評価しておきます。米国の様にエイヤッと50%減としなかったのは、穿った見方をすれば、多分お役人が数字を積み上げて作った目標っポイという体を狙ったのかも知れませんが・・・。少し裏読みするなら、2013年は、震災の影響もあり既存の石炭火力をMAXに稼働させたこともあり、CO2量排出負荷が高かった時期に重なるのであり、そこを物差しにしたのはややズルいというしかありません。
いずれにしても、約50%減は通過点であり、最終的には2050年には脱炭素(ゼロカーボン)を達成するという国際公約をしている訳で、10年で半減はどうにかなるにしても、その後の20年ででのゼロカーボン達成は、かなり困難(というか殆ど無理)と見るしかないでしょう。というのも、戦後積み上げて来た、化石エネルギー(=石炭や石油や天然ガス)での運用が前提となっている社会インフラ(建物や運輸システムや工場等)は、かなり根が深く20年やそこらで再エネオンリーに模様替えできるとはとても思えないのです。つまり、それらは単なる模様替えでは済まず、建築物で言えば「完全な建て替え」になってしまうのです。
家の寿命は30年~50年ですが、インフラ寿命はそれ以上でしょうから、土木や建設工事を伴うインフラの更新はそれほど簡単な話ではないのです。それ以前に、土木工事でゼロカーボンとするには、先ずは再エネ電力だけで動く「建機」の開発が必要でしょう。それが10年かそこらで開発されない限り、カーボン発生を減らすために先ずは建物やインフラ改造のための土木工事そのものを抑制する必要があるのです。
いずれにしても、インフラを全て再エネによる「電動化」社会にするに当たって、先ずはインフラを作り替えるために発生するカーボン量とその結果削減されるカーボン量を天秤に掛け、長期的に見てカーボン削減最適となる様な、いわゆる「ライフサイクルアセスメント」の視点が必要でしょう。

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2021年4月22日 (木)

3935 新たなマイクロプラスチック

海洋におけるマイクロプラスチックは、ある程度の大きさに砕けた浮遊プラスチックを海洋生物が誤って取り込んだり、あるいは細かい(数ミリ以下の)プラスチック粉の浮遊、あるいは大きな容器などの海底への沈降などが報じられていて、社会では、非常にささやかながらもレジ袋の有料化やストローの非プラスチック化などの活動が始まっては来ました。
しかし、最近の研究では人里から遠く離れたチベット高原の氷河で、海洋プラスチックより更に小さなサイズ(数ミクロン~100ミクロン以下)のマイクロプラスチックが確認されているとの報道があり、マイクロプラスチックによる環境汚染が、大気を通じての全地球的に広がっている事になりそうです。これらのマイクロプラスチックは、繊維状のものが多いとも報じられており、南アジアや中央アジアに盛んな、いわゆる繊維産業から発生し、風によって運ばれたものと想像されます。恐ろしいのは、数ミクロン以下のマイクロプラスチックは、粉塵や花粉などと同様にヒトの肺深くまで入り込む大きさなのです。直接的な、毒性は低いとは言うものの、繊維状のマイクロプラスチックは、粒状の粉塵とは異なり、岩綿繊維と同様に肺組織に取り込まれてしまう可能性が高まります。更に想像を膨らませるなら、それは癌の原因にもなり得る可能性すらありそうなのです。
海に浮遊するマイクロプラスチックは、例えば魚に取り込まれたとしても、胃などの内臓は別にして、その魚の身(筋肉組織)にまでは到達しないでしょう。しかし、新たな空中浮遊型のマイクロプラスチックは、私たちの体に直接侵入するのです。これは、新たな「環境汚染源」であると言い切っても良いでしょう。
私たちの社会が厳しく制限すべきは、プラスチックの消費=廃棄量ではなく、環境中に長く留まる種類のプラスチックの生産量そのものなのです。プラスチックの中には、環境中で速やかに分解が進む種類(生分解性プラスチック)も存在するのですが、それらは製品としての寿命が短い(低い耐候性の)ため、製品への採用が敬遠される傾向にあるのは非常に残念なことではあります。

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2021年4月21日 (水)

3934 半自然(近自然)

身の周りを見回しても全く手つかずの自然などというものは見つからないでしょう。平地はと言えば、たいがいは切り開かれ、田畑や住宅地や市街になっている筈です。川は、両側に堤防が築かれ、自然のままに氾濫したり流れを変えたりは出来ません。山の方を眺めると、手前には里山があり、その奥には奥山や高い山々が連なっています。しかし、その奥山や高い山に登ってみると、かなりの部分に人工林が入り込んでいるのが分かります。ざっとしたデータでは、日本の2/3は山地ですが、その半分には人工林だったり、人の手が入っていると言われているのです。残りの1/3は、農地や市街地や工業地帯ですから、この国の1/3は天然自然がかなり残っているもののほぼ2/3には人手が加えられているといった状態でしょうか。
農地や市街地など道路によって区切られた人工環境と、手つかずの「天然自然」との間には、当然の事ながら「緩衝地帯」が必要でしょう。もし、それが無ければ、自然は短期間のうちに荒廃するか、あるいは逆に人工環境への自然の浸食が起こるからです。多くのケースでは、前者が問題となりますが、近年は、例えば耕作放棄地への自然の浸食も問題として拡大しつつあります。
その緩衝地帯が半自然(または近自然)と呼ばれるゾーンと言えるでしょう。具体的には、かつては人々が、薪炭や山菜の採取のために立ち入った「里山」がそれに当たるでしょうか。つまり、天然林では高木と低木と雑草が混然と入り混じっているのが普通なのでしょうが、里山は木が適当に間引かれ、林床には日が差すため、山菜なども豊かに育ちます。見通しも効くので、クマヤイノシシやシカなどの獣もあまり人里近くまでは近寄らないでしょう。つまり、この緩衝地帯の存在は、自然にとっても人間にとってもどちらにもメリットがあるものなのです。然るに、現状を眺めてみると、かつての半自然は開発されて人工環境に変わっていて、あるいはかつての半自然環境の放置によって、藪だらけの天然自然の逆戻りしてしまっているのです。つまり、人工環境と天然自然とが、隙間なく接しているという非常に危うい状況になっているのです。獣は、住宅地のすぐ後ろの藪に現れ、かつては半自然に棲息していた、小動物や昆虫や植物たちは絶滅してしまったのです。
別の言葉で言えば、半自然とは、天然自然と人工環境との間の環境のグラデーションとも言えるのです。国でもそうですが、国境を接している国同士の価値観や宗教が極端に異なる場合には、紛争などのせめぎ合いが生じますが、間に中間的な国やエリアが挟まっているか、あるいは海や山塊がある場合には、両国は比較的穏やかな関係が続く事に似ています。我々は、もっと半自然に注目し、それに関わっていく必要があると思うのです。都市から田舎へ、田舎でも山際への移住が必要な所以です。

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2021年4月18日 (日)

3933 トリチウム汚染水問題

福一では、ALPSで除去できないトリチウムを含む汚染水が増え続けています。しかしながら、既成事実の様に海洋放出を宣言した政府の発表には、国の内外から大きな反発を受けている状況です。何故、海洋放出かと問われれば、政府(=東電)は、汚染水の保管墓所として陸上にタンクを置くスペースが無いと、殆ど開き直って説明しますが、では海上保管はどうかという可能性については全く言及していません。つまり、汚染水の保管量は増え続け、今や数十万トンレベルに達し、保管タンクの余裕もあと1-2年分しか残っていないという政府(=東電)は、では汚染水専用タンカーを建造し、福一の港湾内に係留するという可能性については全く言及していないのです。陸上用タンクに比べ、海に浮かべるタンクは非常に安価に建造可能です。それでなくとも、この国は造船王国であったし、凋落したとは言え、まだ中手の造船所は元気です。しかも、エンジンなどの無いタンクだけの船であれば、普通の原油タンカーの1/3程度のコストで建造できるでしょう。汚染水タンカーの建造で、たぶん20-30年の時間は稼げるでしょう。トリチウムの半減期は12年そこそこでしょうから、保管している間にも放射能は弱まります。その間に、トリチウムの分離技術を実用化して、実用プラントを建設すれば、海洋放出は免れる筈なのです。
投稿者の様な素人が考えても、普通の水とトリチウム水は、僅かながらも物理的性質が異なる筈ですから、沸騰・蒸留あるいは凍結分離などに加えて、再エネ電力を使った電気分解なども併用すれば、トリチウムの分離取出しも十分可能となる筈なのです。その様な可能性を殆ど排除しておいて、発生する汚染水を福一場内のたった千トン程度しか保管できないタンクを、敷地一杯に建設し続けた「無策」こそ糾弾されなければならないでしょう。
この国が、技術大国だと言い張るのなら、各大学やAISTや公設試などに予算をつけて、分離技術を競わせるのです。現状でも、原発を動かしている国々では、原発施設から発生するそれほど多量ではない事を言い訳に、トリチウム水は薄めて海洋放出されたり、蒸発させて大気放出されているのですから、その分離技術の開発は大歓迎されることでしょう。海洋放出する日本は、海外世論からはバッシングを受けますが、そうではなくて分離技術の開発が出来れば、逆に尊敬の的となる筈なのです。コロナ騒ぎのドサクサに紛れた、汚染水の海洋放出を、あっさりと許しては末代までの国の恥になるでしょう。

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2021年4月16日 (金)

3932 トランプエレメント

トランプエレメントとは、冶金学などで言うところの、目的金属からどうしても除去できない(出来にくい)不純物を指す言葉です。例えば、最も多く使われている鉄鋼材料に関して言えば、リサイクルの過程で混入する、銅や錫や鉛などは、鋼の表面に集まって割れの原因になりますから、非常に有害です。亜鉛なども同様ですが、これは高温の溶解時に気化して飛んでしまいますので、亜鉛引き鋼板などのリサイクルには問題は無さそうです。
逆に、リサイクルされるアルミ材料においては、鉄分の混入が大敵になります。アルミが作る不働態膜の形成を阻害して錆の原因を作るからです。勿論、銅や亜鉛もアルミの腐食を助長しますが、これらの合金元素は、強度の高いジュラルミンでは積極的に加えられる元素でもあり、別途耐食性を上げる処理により腐食を防止する方法が取られます。
さてトランプエレメントですが、勿論新たに精錬された鉄鋼やアルミやその他の金属では問題になる事はないのですが、リサイクル材では事情が異なります。というのも、リサイクル材として持ち込まれる材料(スクラップ)の中には、種々の不純物やごみが混入している事が、溶解材の純度を低下させるからです。例えば、一緒に使われていた異種金属の破片や、耐食性を上げる目的で施されていたメッキや鉄鋼材へのステンレス材の混入などによって溶解材の純度が低下してしまうのです。これを補正するためには、例えば新規精錬材を一定量加えて、不純物の割合を基準以下に抑え込む方法が取られますが、不純物を物理・化学的或いは冶金学的に取り除くのは、通常はコスト的には見合わないのです。
根本的な対策は、リサイクル材は可能な限り、素性の知れたスクラップを、他の原料と混ぜずに純度を保つという受け身の対応しか無さそうなのです。多くの金属では、一度合金をしてしまうと、金属間化合物を形成してしまい、再度分離するには電気分解などで莫大なエネルギーを投入しない事には分離は出来ないのです。
ここでは、主に金属のトランプエレメントについて述べましたが、事情はPETなどのプラスチックや紙のリサイクルにおいても全く同様で、機能を高めるために数えきれない程の種類のプラスチック材が開発され、あるいは機能性の紙が開発された結果、リサイクルするたびにそれらの原材料は劣化をし続けるという負のサイクルに陥ってしまう訳です。コウゾやミツマタなどの繊維だけで作られ、他の人工材料(≒トランプエレメント)を加えないで漉かれる和紙がリサイクルの優等生と呼ばれる所以です。

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2021年4月15日 (木)

3931 ある人生14

<これからの夢>
今年は70歳の大台に乗りますが、Uターン後の生計は、年金と、フリーランスになるために取った環境経営システムの審査料が入るため、贅沢をしなければ十分で一応安定しています。市営の墓地も購入し、やがて入るであろう自分のための祠?(墓石)も建てましたが、やはりいくつかの自分が生きた証を残したいというのが、現在の夢です。
<夢その1:太陽熱を使った省エネデシカント冷房装置の開発>
これは太陽熱を使って、ゼオライトなどの乾燥剤を乾かし、それを使って連続的に室内の湿気を下げて、夏場の蒸し暑さ緩和する冷房機です。湿度が下がった分、今度はミストで加湿すれば気化熱で気温も下がるので、冷房効果も期待できるものです。消費電力も、換気に使う小型の通風機のモーター分だけなので、低い方の数十ワットで十分でしょう。
<夢その2:ペレットフィーダー>
これまでのペレットを供給する仕組み(フィーダー)は100%オーガと呼ばれるスクリューコンベアでした。これを、ミニロボットやミニコンベアなどを組み合わせて、ペレットの向きを縦向きに整列させて、内径7mm程度のステンレス管を通してストーブに供給するタイプに替えたいのです。それが10万円以内で商品化できれば、例えば普通の薪ストーブの横に小さな穴を明けさえすれば、薪とペレットのハイブリッドストーブに改造することも容易になるのです。それによって、ペレットの生産・消費量も格段に増加するでしょう。
<夢その3:ユニット式風車
これまでの風車は、出力によって小型から大型まで専用に設計し、頑丈な基礎を築いて建設するものでした。その考え方を改めて、横軸の抗力風車を、例えば上から見て3角形や6角形にユニット化し、それをピラミッドの様に積み上げる事で、メガワットクラスの発電所尾することも可能なシステムを開発するのです。抗力型なので、台風でも停止させる必要がありませんし、回転軸は固定ですがユニット化する事によって、どの方向から風が吹いても発電が可能となるのです。
<夢その4:SVO発電>
SVOとはStraight Vegetables Oilの略で、てんぷら油などの廃油を「直接燃焼できるエンジン」を使って発電を行うものです。これは、既存のユニットタイプのディーゼル発電機を少し改造する事で実現できるので、中古品さえ手に入れば最速で実現出来そうではあります。

これらを含め、他にもいくつか夢がありますが、いずれも既に基本的なコンセプトは出来ているものの、問題は実際に動いてくれる企業を見つけ、巻き込む事ですので、機会がある度に企業経営者を口説いてはいます。自分で出来る範囲は、資金やフィールドも含めて限定されていますので、企業の協力は不可欠なのです。
その前に、登り始めてしまった百名山もここ1,2年でコンプリートさせるのも、人生で自分に課したノルマですから、これも同時並行で実現させるのも目の前の夢でもあります。これも昨年には90座を超えたので、あと数歩とはなってきました。
ここまでの人生の振り返りでは、技術屋としては多くのチャンスとラッキーにも恵まれてキャリアを積むことができましたし、50代以降は環境屋としてもそれなりに勉強ができ、いくつかの実績も残す事ができたと感じていますが、残りの人生も、精々後悔の無い様には送りたいとは思っていますが、果たしてどうなる事やら。この稿、一応ここまでで一区切りとします。

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2021年4月14日 (水)

3930 ある人生13

<Uターン後(再脱皮)>
60歳を迎えて、そのまま住み慣れた岐阜で一生を終える事も想像しましたが、既にフリーランスでそれなりに生計を立てられており、年金も貰える年齢にもなったので、小規模で手の届く再生可能型エネルギーの可能性を見つけるために、(再エネのネタには事欠かない)生まれ故郷の秋田の町にUターンする事を決意しました。同じ町の生まれでもある家内からは特に反対も出なかったので、熟年離婚?も回避され、取りあえずは単身でUターンしたのでした。数年間の単身赴任中に、先ずは秋田での暮らしの足場を固め、竟の棲み家も探し始めたのでした。
Uターン後は、環境ビジネスの可能性を探索する中で、東北の高専の(環境を向いた)めぼしい先生方にコンタクトし、訪ねて行っては環境話を吹っかけて、雑談を繰り返しました。それらの先生から、今度は環境に向いた企業を紹介して貰い、それらの企業も片っ端から訪問してネットワークを作って行ったのでした。東北には、バイオマスや豊富な水力や風力さらには地熱など豊富な資源やエネルギー源があることも確認できました。
居間から鳥海山が見える土地も見つかり、あまり借金もしないで小さな家も建てる事ができたので、数年後に妻も呼び寄せたのでした。その家では、小型のペレットボイラを使った冬季の暖房や通年の給湯に使えるシステムを自分で設計し、機器を買い集め設置してデータも採り始めました。
また、ある環境関係の展示会で知り合ったベンチャー企業の社長に誘われて、家畜のし尿を使った小規模な「バイオガス発電」事業にも、エンジン屋として関わり始め、いくつかの初期トラブルを解決したのでした。Uターンした地元では、フローリング(床板)を製造している企業で、大量の木粉が出る事に勿体なさを感じ、それをペレット燃料に加工するプラントの新設を助言したのでした。幸い、県からの補助金も取れたため、このプラントが実現し、年間1000トン以上のペレットの供給が可能となったのでした。しかしながら、ペレット燃料は日本ではマイナー過ぎたので、その売り先を見つけるのにその企業にはそれなりに苦労もさせてしまいました。なにせ、我が家の例では1年間に消費するペレット量は、僅か1トン程度ですので、温泉施設などの大口消費家を探す事がどうしても必要だったのです。とは言いながら、自分にビジネスのセンスが無い事は、十分に自覚していますので、活動と言っても専ら企業の背中を押す事になっていまいます。

 

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2021年4月13日 (火)

3929 ある人生12

<フリーランス時代:カザフのこと>
フリーランスになって以降、かなり熱心に行っていた活動が、企業の省エネ診断や助言でした。国内企業の診断に並行して、ダメ元でヨーロッパ銀行の途上国支援の専門家派遣制度にも省エネ分野で登録もしていたのですが、ある時「カザフスタン」という国にある自動車組立工場が助言を求めているとの公告がありましたので、さっそく応募したところ、トントンと話が決まり2011年の春先にカザフスタンに入ったのでした。訪問した企業は、従業員200人ほどのロシア製の小型車をノックダウンで組立てる中小企業でした。
カザフは、旧ソ連の人口1500万人ほどの国ですが、人口は、ロシア系、モンゴル系、アフガン系にほぼ3等分されており、国土は日本の7倍もあり、地図上ではモンゴルの隣に、ちょうど双子の様に並んでいるシルクロード上の国の一つです。冬季は、マイナス30℃にも気温が下がる内陸の国なので、工場の壁は40センチもあって断熱もされてもいました。暖房は、旧ソ連や東欧の国々の殆どがそうである様に、全て温水暖房となっています。町の郊外には、公営の温水工場があり、町全体に温水と戻りの配管を巡らし、各家々や工場などへ温水を供給しているのです。基本的には、その温水の購入費用は、建物の面積に応じて割り当てられる様ですが、工場など大口需要家には給湯量に応じての従量制も併用されている様でした。
訪問した企業は、元の鉄工所の様な高い建屋をそのまま使っていて、フロアレベルで車の組立てを行っている工場でしたが、事前情報の検討で、20mを超える高い建屋の上の部分まで暖房している無駄に気が付きました。そこで、予め準備し持参した伸縮式の長い釣り竿に温度センサーを吊り下げて、丸一日計測をした結果、確かに床付近で20℃程度の時、天井付近では28℃にもなっていて、使われていないスペースの空気を暖める無駄が確認できたのです。
診断は、組立ラインがあるエリアに釣り天井を設置して、その下だけを暖房するか、その投資が出来ない場合は、作業者個々に赤外線ヒーターを配布し、その代わり工場全体の暖房温度を数℃下げる、というものでした。温水・温風暖房では、暖房温度を1℃程度下げるだけで、凡そ10%程度の省エネが実現できますので、数℃では数十%の省エネになる計算です。仕事の中身は別にして、カザフは北東南を高い山に囲まれ、西はカスピ海に面していて、ロシアのバイコヌール基地もある砂漠の国ですが、一方では石油や天然ガスや鉱物資源に恵まれた資源大国であり、他方では山や山際には豊富な雪解け水によって風光明媚な観光自然もあるという、いわばこれからの国だと感じました。日本も、何時までのB国の顔色ばかり窺っていないで、この様な国とも密な国交を結ぶべきなのでしょう。いずれにしても自費ではなかなか行けないシルクロードの国での2週間の滞在は、人生の中でも得難いエポックになったのでした。

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2021年4月12日 (月)

3928 ある人生11

<フリーランス時代(脱皮の完了)>
勿論、この中小企業に在籍している間にもフリーランスになるための準備は進めていました。お金も暇も無かったので、先ずは放送大学の大学院に入って、改めて「環境学」を修めました。また環境大臣が認定する「環境カウンセラー」に認定もされ、同時並行で環境経営システムであるエコアクション21の審査員の資格にも合格したのです。また、再度の退職後は、特許流通アドバイザー制度にも応募し、年間100時間ほどですが有給の活動もできる様になりました。また知財に関する充実した研修も受ける事ができたので、生活も少し安定し、同時に知財の知識も吸収できたのでした。
徐々にですが、企業の環境経営の審査や、商工会や中小企業の同友会や行政機構などからメーカーなどにおける省エネ研修、更には学校の環境学習の講師などの依頼も増え、どうにかフリーランスとしてもメシが食える様になっていきました。時間はたっぷりあったので、岐阜にあった環境NPOの事務局長も務めながら、退職金で買ったバイクを乗り回しながら、東海地方を走り回りました。
40代半ばから始めた登山も続けていて、毎年2-3回は2、3泊のバイクでの山行に出かけ、それが50座を超えたあたりから、いわゆる深田久弥の「日本百名山」コンプリートを意識し始めて、登頂した名山を地図上で潰していく楽しみにのめり込んでいったのでした。単独登山ですから、数回は命の危険を感じたこともありました。一度は唐松岳の尾根をボンヤリ歩いていて、灌木の根に躓き、深い谷底に滑落しかけたこともあったのですが、とっさに灌木の根を掴んで、九死に一生を得たこともありました。とは言いながら、山の自然や植物や鳥や動物たちにはますます引き付けられていったのでした。

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2021年4月10日 (土)

3927 ある人生10

<中小企業時代>
サラリーマンを退職しても、いきなり自立してメシが食える様なワザは何も持って居なかったので、取りあえずは、K重工の下請けの仕事もしており、新事業への拡大も考えていた知り合いの中小企業の社長を口説いて、新たな部門である「新製品開発室」を設けて貰い、その室長として採用されたのでした。開発の中身は、新製品なのですが、心の中では「環境関連の新製品」に絞り込んでいたのでした。色々な可能性を探索する中で、生分解性油脂を使った切削液システム、バイオマス(特に木質ペレット)の製造機械(ペレタイザー)や燃焼機器(ストーブ)の開発に面白さを感じ、弟子を一人貰って育てながらそれらの開発に当たったのでした。3年ほど掛かって、いくつかのプロジェクトは、試作品として形になったのですが、仕上げと製品化は任せて、その中小企業も卒業して、完全なフリーランスとなる事にしました。というのも、元々出来るだけ早めに自立のワザを身に着けて、完全なフリーランスになりたかったことと、この企業に在籍した3年の間に社長が交替し、3代目の社長へ代替わりしたのですが、この3代目が「生まれながらの経営者」として育てられたためか、開発室に向かっては「お手並み拝見」的な態度を見せていたこともあり、自分が身を引くことによって1、2歩前のめりになって貰いたかったのが、再度の退職の最大の理由だったのでした。その決断が正しかった事は、後日弟子であった子から聞いたのでした。
この企業での3年間のサラリーは、元職の2/3ほどに下がったのですが、その間に種々の環境ビジネスの可能性をゼロから探索する自由を貰った事と、その後の自立のための自己研鑽の時間が出来た事が、何よりの収穫であったと振り返っています。社会人大学院生でもあった弟子には、課題を与えて論文を数本書かせ、海外での学会へも送り出して研究の発表もさせ、無事に博士号を取得させたのは、我ながら小さな手柄であったと振り返っています。彼は、後日若くしてその工場の工場長に抜擢されました。

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2021年4月 9日 (金)

3926 ある人生9

<環境人間への脱皮>
そこから早期の退社を決意するまでは結構早かったのですが、その前に改めて環境先進国であるドイツの状況を見ておきたかったので、2002年の春、勤続30年達成で会社から貰った旅行クーポンを使って、(妻には観光旅行だと信じさせて)2週間ほどドイツや欧州における環境への取組みを見て回ったのでした。レンタカーで走り回った環境先進国のドイツで見たのは、石油メジャーが建設した巨大な太陽光発電パネルの製造工場、色素増感型の新しい太陽光発電パネルの試作品などで下。訪ねたのは春先で、各地の農場は菜の花で一面黄色に染まっていたのですが、それから採れるナタネ油をそのまま使って動かす農業機械(SVO)、木材ペレットを燃やしているペレットストーブ、風車群や住宅での太陽光発電などの再エネ利用の確かな活動でした。
また、川や湖ではかつてはコンクリートで覆った護岸を壊し、緑の土手や砂浜に戻す工事も何か所かで目撃し、北ドイツの炭田地帯では、既に全ての炭鉱が廃止され、石炭化学工業地帯も既に更地に戻っていたのでした。
当時ドイツでは、政策として原発全廃を決めていて、数か所の原発では既に廃炉作業にも着手し始めていました。厳しい自動車リサイクル法では、全ての廃車は販売の逆ルートでメーカーに戻される仕組みとなっていました。メーカーでは、(シュレッダーではなく)部品毎に細かく分解され、ほぼ100%がリサイクルされる仕組みなのです。また規格化され、分厚く作られているPETボトルは、20回以上洗浄されて再使用される法律となっていましたし、各種製品に対しても厳密なリサイクル法が作られており、生活の中での実際のリサイクルの方法を小学校の低学年で教えてもいたのでした。その環境旅行?で感じたのは、当時の日本は「我が国は環境先進国」であるなどと胸を張っていたのですが、実際の環境への取組みでは、既に欧州からは「周回遅れ」の状態にあるという危機感だったのです。
その年(2002年)の春の異動では、高専卒としては異例のポジションに昇進もさせては貰ったのですが、それなりに分厚いボーナスを2回貰っただけで、年末には早期退職を実行したのでした。その際、それまで20年間関わってきた、航空機産業への未練は全くなかったと振り返っています。

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2021年4月 8日 (木)

3925 ある人生8

<海外奔走時代3:ブラジル時代>
ドイツから日本に戻ると、今度はブラジルのE社とのリージョナルジェット機の共同開発の話が急激に具体化し、先行情報を集めるチームの一員として取りあえずブラジルに飛びました。その後、プロジェクトは実際に動き出し、やはりDBTの一員として、今度はブラジル駐在の身となったのでした。E社が所在する、サンパウロからやや北に上がった、S・J・ドスカンポスという人口40万人ほどの高原の街に丁度1年間滞在していました。休暇を利用してブラジルのいくつかの観光地へ旅行もしました。予防接種が必要なアマゾンこそ敬遠しましたが、印象的だったのはブラジルでも内陸部のパンタナール平原と、そこから流れだす大きな川の途中にあるイグアスの滝でした。その近くには、豊富な水量を利用したイタイプ・ダムがあるのですが、そこには19基もの発電水車が並んでいて、それぞれの導水管の直径が、なんと10mもあるのでした。説明版によると、1基の出力は100万kwとのことで、原発1基分ほどに相当します。このダムだけでブラジルの電力の8割程度が賄える規模だとか。意外にもブラジルは、世界でも有数のカーボンフリーの先進国だったでした。加えて街を走っている車の半分ほどは、アルコール燃料車で、その(エチル)アルコールの原料は、広大な農地で作られるサトウキビで作る醸造アルコール(つまりは焼酎)だというのです。この国で輸入される石油は、残りの半分ほどの車や工場のボイラ、水力発電所からは遠すぎる北部の地域で行われている火力発電所に使う燃料程度なので、再エネ率で言えばこの当時でも既に60-70%は既に達成されていた、と想像しています。
1年のブラジル駐在から帰国して、お疲れ様という意味もありやや暇な部署に異動し、しばらくは天井を眺めながら考えに耽る時間ができました。その時ボンヤリ考えていたのは、これからの時代のキーワードは、「環境(保全)」であり、「持続可能性」だろうというものでした。石油を多量に消費する、車や航空機と言った「20世紀の乗り物」は、やがて「淘汰され、駆逐される」だろうとの自分なりの予測も立てたのですが、それを実感したのはあの9.11事件だったのです。あのテロ事件は、燃料をたっぷり積んだ旅客機は、使い方によっては「空飛ぶ爆弾にもなり得る」事を見事なまでに証明してしまったので、それを怖がった人々は海外旅行を敬遠し、事件直後の旅客数は、それまでの40%台まで激減したのでした。つまり、当時の海外旅行客の内2/3ほどは不要不急の、いわゆる物見遊山客だったことが明らかになったのです。それはまさしく、「航空バブル」ではないか、と強く感じたものでした。

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2021年4月 7日 (水)

3924 ある人生7

<海外奔走時代2:海外調達>
米国駐在から帰って、しばらくしたころ、急な円高局面がありました。1997年頃の事です。航空機は部品を作り組み立ててから米国に輸出するので、国産が強いカーボン繊維以外、ほぼ全ての素材を輸入する航空機業界は、それを加工・組立てて輸出すると「二重の為替差損」を被ります。その結果、社内で少なくとも部品は海外で作らせて輸入し差損を軽減すべきだという議論が起こり、結果として資材、生産技術、品証担当の3名からなるチームをいくつか作って、欧州、米国、東南アジアなど航空機産業のある国々の企業群に派遣し、能力調査や見積をさせる調査を大々的に行ったのでした。その一つのチームに入れられて、海外の企業を数十社回った経験は、投稿者にとっては、いわゆるグローバルスタンダードを知る上で大いに役立ったのでした。
我々のチームは、約3か月に亘り米国、東南アジア、欧州などを巡って、潜在的な部品サプライヤを探索したのでした。事前にアポを取った企業を訪問して工場見学し、財務や生産技術力をチェックし、品証体制を調査し、いくつかの部品候補に対しての見積を依頼、最終的には各社ごとの報告書を作成するのが任務でした。
その超円高の波が一段落した頃(1998年頃)、戦時中は飛行艇などを作っていたドイツの老舗航空機メーカーとの、リージョナルジェットの共同開発話が立ち上がり、先行情報を得るため、3か月ほど南ドイツに滞在しました。しかしその会社が傾き、米国の資本に買収されたこともあってこの話はキャンセルになったのでした。

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2021年4月 6日 (火)

3923 ある人生6

<海外奔走時代1:米国>
英会話の力をつけておこうと思い、30代の10年間ほどは毎週1回定時後に、会社が斡旋する英会話教室に通っていました。最初の内こそフルメンバーの十数人が集まるのですが、メンバーはやがて一人抜け、二人抜けして、数回の教室後は数人まで減ってしまうのが常で、結果として少人数になり、講師と色んなトピックスについての深い話が出来る様にもなっていきました。ある年、会社で受けたTOEICの試験が(問題が簡単な年で?)たまたま良くできたのをきっかけに、会社には海外要員として認識された様でした。造船時代にも3回ほど海外出張はありましたが、いずれも1,2週間という短期でした。しかし、B777の派生型機の開発でのB社への派遣・駐在は1年に亘ったのでした。新たに開発する大型機の派生型機の開発で、設計チームに帯同する生産技術チーム(DBT)の一員として米国のシアトル近郊で暮らす事になったのでした。
米国は消費大国でした。街の郊外には、いわゆる大規模な「モール」があり、倉庫の様な巨大なスーパーや外食産業などが多数林立し、お金さえあれば何でも手に入ると言った社会でした。当然の事ながら、多量のごみが出ます。それらは全てごちゃ混ぜにして捨てられますが、最終的には砂漠に運んでそこに掘られた巨大な穴に埋め立てられるのです。また中西部に出張に行くと。飛行機からは地上に広がる無数の水玉模様が見えました。ピボット農業と呼ばれる、円形の農場が広がっているのです。それぞれの農場の直径は1㎞ほどあり、その中心には井戸があって、汲み上げた地下水を半径500mのアーム状のスプリンクラーをゆっくり回して、灌漑するのです。当然の事ながら、余分目に潅水しますから、作物に吸収されなかった水は、やがて蒸発してしまいます。地下水には、それなりの濃度で塩類が解け込んでいるため、水の蒸発後には地表に塩類が蓄積するのです。この量が多くなると、その土地は最早農地としては使えなくなるのですが、これがいわゆる「塩害」です。この様にして放棄された「茶色い水玉」となった農地が、緑の水玉の間に点々と広がっていたのです。この国の大量消費、大量廃棄社会は、このピボット農業も含め、決して持続可能ではないと感じたものでした。

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2021年4月 5日 (月)

3922 ある人生5

<航空機屋時代>
転勤先は岐阜のK務原にある航空機部門で、生産技術担当になりました。図面と工程仕様書(スペック)を読み込み、現場が作業をするための工程計画表などを作成する部門ですが、その他にも次期生産モデルの先行計画や設備計画なども守備範囲にあり、仕事の内容は設計、現場、品証以外の全てと言っても良いでしょう。
30代は人生で一番勉強した時代でした。何しろ、造船でモノは嫌というほど見ては来ましたが、学生時代の勉強嫌いが祟って工学の基本が身についていなかった訳ですから、いきなり化けの皮が剥がされるのを感じたものでした。幸いにも、配属された職場はノンビリしたムードで、仕事や下調べに掛ける時間はたっぷり与えられていたので、分からない事は改めて工学書や英語の文献に当たって、知識を増やしていくことが出来たのです。ラッキーな事に、工場には教科書に載っている様な、新旧の製造設備の全てが揃っていて、作られる多くの部品が日々流れていて、その実際の工程を目にする事が容易でした。という訳で、文献を調べる一方で、実際に朝夕現場に出向けば、行われているプロセスを「立体的に見て知識を確認する」事ができたのでした。こうして、モノには強かったものの理論が弱かった造船屋は、30代の必死の勉強で、やっと理論の裏付けもある航空エンジニアっぽく成長できたのでした。
休みはしっかりと取れたので、30代はテニスも本格的に始め、読書量も人生Max、会社が斡旋していた英会話教室にも毎週欠かさず通い、息子も生まれたので子育ても忙しく、充実した生活を送っていた時期でもありました。そんな充実した生活が40代前半まで続きました。
登山にのめり込んだのは40代半ばの事でした。会社の登山部がバスを1台借り切って、富士登山のトレッキングツアーを企画してくれたのですが、中学生になっていた息子を誘ってそれに参加したのがきっかけでした。高山病気味になりながらも、無事登頂し下界を見下ろした時の達成感が半端なく素晴らしかったので、その後数回は登山部の山行に混ぜて貰って経験を積んだのでした。数回のトレーニング後、装備も買い揃え、ある年に笠ヶ岳から入って槍ケ岳を縦走した山行からは、自分のペースで行動できる単独登山を楽しむ様になっていきました。

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2021年4月 4日 (日)

3921 ある人生4

<造船屋時代>
K重工での配属先は、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いの造船部門でしたが、その中では人気が無さそうな修繕部門に回されたのでした。商船は、毎年乾ドックに入れて船体や機関の定期検査と必要な修理・再塗装などを行わなければなりません。それを迎える造船所では、船体と機械と電気の担当技師がチームを組んで一隻の船を担当し、事前の打ち合わせから、実際の検査や修理、そして完工出航までを全て取り仕切るのです。修繕船は、精々長くても2週間程度の工期が普通ですので、当然の事ながら長時間残業や徹夜なども当たり前の職場でした。船の狭い機関室内を動き回る訳ですから、油でドロドロに汚れる作業服を毎日取り換える必要がありました。しかし、直径が1mを超えるピストンを持つディーゼルエンジンや、数万馬力の出力の蒸気タービンやボイラや荷役機械など、船舶には凡そ考えられる全ての機械が揃っており、毎日それらが分解され点検され、必要になら修復される過程を目にする訳です。最初こそ先輩の後ろについて回っていたのですが、忙しくなると無理やり独り立ちを余儀なくされ、知らず知らずの内に「メカのエキスパート」っぽくなれた様な気がします。
ちなみに、最初の1年はK戸が任地でしたが、1年後には、香川県のS出にあった大型船用の造船所に転勤になったのでした。振り返ってみれば造船所での10年余りの間に、担当した船の半分ほどは外国船籍で、乗組員や船主側の担当も外国人であったため、自然と英語によるコミュニケーション能力も身についていた様です。坂出に居る間には結婚もし、まるで58歳で亡くなった母親と生まれ変わる様に、最初の子供(娘)も生まれたのでした。
30代に入った頃、急激な造船不況が始まり、造船の仕事は激減しました。背に腹は代えられず、会社は多くの希望退職を募り(別の言葉では首切りですが)同時に他事業部への転勤を断行せざるを得ませんでした。造船所から多くの仲間を見送った後、自分自身も航空機部門へ転勤する事になったのでした。

 

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2021年4月 3日 (土)

3920 ある人生3

<高専時代:K君の事>
3年の時に、同じ中学から電気工学科に入ったK君に誘われ、日本を脱出してアメリカの牧場で働きながら旅行でもしようと相談がまとまったのでした。K君も頭は良いものの、やはり学校の勉強は嫌いで電気工作ばかりしたらしく、やはり成績は低空飛行していたのです。劣等生同士のワルダグミはすぐに決まったのでした。バイトで少しお金を貯め、いよいよ実行という段になって、彼は強い意志で本当に退学したのですが、自分は母親に泣きつかれて断念してしまったのでした。
初志を貫いて退学したK君は、取りあえず日本の電気会社に入り、その後関連の大手外資系電気会社の米国法人に移り、最終的には急激に伸びていたコンピュータシステムの会社(Sスコシステムズ社)に入って、なんと50代前後にマスコミに登場した時には、その企業の副社長にまで上り詰めていたのでした。功を為す人間は、やはり何か違うと感じたものでした。残念なことに彼は惜しまれながら52歳という若さで早逝してしまいましたが・・・。
一方、凡人の自分はと言えば、成績は低空飛行を続けながら、バイトに勤しみ奨学金も注ぎ込んでオフロードバイクを買い、バイクツーリングやユースホステルを使った国内旅行にものめり込んでいったのでした。人並みに、パチンコ、麻雀、酒やタバコも嗜んでみましたが、どれも体質には合わない様で、趣味?にはなりませんでした。
さて卒業です。 ‘72年当時は好景気で、引く手はあまたでした。求人票を見て、何故か先輩が誰も入っていない、K重工を希望しました。入社試験は散々の出来でしたが、たぶん運動部であった事と大量求人の「十羽一からげ枠」で合格し、その年の学卒。高専卒計360名の一人として無事就職できたのでした。初任給は、確か5万円台だった様に記憶しています。

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2021年4月 2日 (金)

3919 ある人生2

<高専時代>
高専の入学試験は拍子抜けするほど楽だった印象です。特に英語は、教科書には載っていなかった単語を含む問題も出題されましたが、たまたま担任から貰った業者テストにはあったので、お前がただ一人だけ正解だったと、後日担任になった英語の教師から聞きました。かくして、めでたく一択のA高専4期の機械工学科に入学したのでした。家からは通学できないので、学校の寮に入りました。寮費は当時のお金で食費込み1万円程度だった様に記憶しています。
高専に進学してすぐ、父親がいよいよ危なくなった頃、名古屋近辺で働いていた姉に職人の婿さんを貰う話がトントンと進み、どうやら実家の商売も後継ぎ問題と経済的危機は回避できる見込みになったのでした。父親は、結局高専の1年の冬に、肺がんで帰らぬ人となってしまったのでした。
高専での授業は退屈で、一番前の席でしたが毎時間、居眠りばかりしていました。唯一楽しかったのは、学校の工場での実習で、鋳物や鍛造や旋盤作業などは、待ち遠しかった記憶があります。長期休み中は、半分がバイトで少しお金が貯まるとユースホステルを利用し、移動手段としては均一周遊券の他ヒッチハイクや自転車なども使った旅行に出かけていました。
成績は、当然の結果として急降下で、トップに近い成績で入学はした様なのですが、すぐに赤点すれすれの低空飛行の科目ばかりの成績になりました。部活は一応ラグビー部でしたが、先輩が居ない同好会からの出発だったこともあり練習はダラダラで、ラグビー王国の秋田ですから、高校の二軍と戦っても一度も勝ったことはありませんでした。

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2021年4月 1日 (木)

3918 ある人生1

今年は、いよいよ投稿者も70歳の大台に乗るらしいので、ここらで自分の人生を少し振り返って見る事にしました。
<幼少期>
S26年の夏に生まれました。鳥海山が見える日本海側の田舎町でです。
祖母は几帳面すぎる人柄で、どうやら長男の最初の嫁をいびり出した様です。(と想像しています。)後妻となった母と頼りない父との間に、3歳離れた姉の下に長男として生まれました。家業はクリーニング業でしたが、パチンコと釣りと将棋が趣味の父親は、午前中だけ働くと昼からはどこかにドロンと消えてしまうのでした。父親が河口に釣りに行く時は、時々はついていきました。親父は、戦争に行って覚えて来たらしいタバコが好きで、両切りの缶ピースを旨そうに吸っていた姿が印象に残っています。
毎日向かいに住む同級生と、目の前の川に釣りに行くか、そうでなければ近所のガキ大将にくっついて回り、家の前の広い割に車が殆ど通らない道路や河原や堤防や裏山で、暗くなるまで遊び回っていました。小学校の高学年になった時、親は借金をして少し離れた場所に店舗兼住宅を建て、それまでの借家から引っ越しました。中学校は、裏山を通ると15分くらいで通えたのですが、冬季以外はゲタ履きで通していました。部活は卓球部でしたが、先輩のストイックな練習について行けず、数か月で帰宅部になりました。その中学は、テスト結果を廊下に貼り出す様な学校だったので、各人の成績順位は明白で、家では全く勉強をしなかった割には授業をしっかり聞いていたためか、300人ほどいた同学年の成績では、大抵は上位一桁には入っていました。めちゃめちゃ秀才肌の女子と男子が一人ずつ居て、成績で彼らより上になった記憶はありません。つまり成績は最高でも学年3位と言ったところでした。
中学3年の時、父親に(多分タバコとアイロン台に使われていた石綿が原因の)肺ガンが見つかり入院しました。はっきりとは聞かされませんでしたが、どうやら長くなさそうだと想像できました。母親から進路について相談を受けていたらしい担任からは、授業料が高校より安いし、お前の成績だったら奨学金も貰えるから高専に行けと勧められました。担任は、業者からただで貰えるテスト問題を、受験までこれでもやっておけ、と時々渡してくれました。そんなこんなで、地元新聞が行っていた模擬試験でも、全県でも一桁以内を取れる程度の学力はついていた様です。

 

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