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2021年9月24日 (金)

3989 水素社会への展望

最初に宣言しておきますが、投稿者は水素社会に否定的な立場を取っています。理由はいくつかありますが、最も重要な理由は、水素社会には「重厚長大」システムが必須であると言う点です。つまり、CCSと組み合わせて水素を化石燃料からの改質で作るか、或いはどこかの砂漠で作られる安い太陽光発電の電力を使って電気分解で作るにせよ、安価な水素を得るためにはそれを大量に作って、大量に運ばなければならないでしょう。流通についても、現在の石油同様、タンカーやタンクローリーなどで運搬し、水素ステーションで販売する流通網の整備が必要です。結局、莫大なインフラ投資と長い普及期間を要する「巨大システム」を構築しなければならないのです。
一方で、再生可能型エネルギーの本質はといえば、大元のエネルギー源が太陽光である事から考えても、「分散型であるという必然性」からは逃れられません。つまり、水素社会は事の本質と最初から矛盾している訳ですから、温暖化防止の解決策とはなり得ない要素を内在している訳です。大規模システムは、一度構築されると、それを維持するためには製造から流通まで「途切れの無い」流れが求められるでしょうし維持投資も必要です。現在石油に関しては、システムの維持のために、数か月分の消費量を支える「備蓄基地」を設けていますが、水素を数か月分備蓄する様な巨大な備蓄施設など、地震などのリスクを考えると全く想像できません。また流通の段階でも、石油に比べて引火性が格段に高い水素爆発の危険性は、F島の原発の悲劇的な水素爆発事故を想像すれば十分でしょう。
常温で液体の石油と常温では気体で、それを液化するためにはマイナス2百数十℃まで冷却しなければならない水素とは全く次元の異なる燃料だと言えます。水素は、使用時にCO2を排出しないだけで、純粋な再生可能型エネルギーなどではなく、石油の延長線上のハードなエネルギーなのです。

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2021年9月22日 (水)

3988 超高齢化社会

敬老の日の報道によれば、この国は、世界で最も超高齢化社会が進んでしまった国だという事のようです。2位を大きく引き離している様ですから、他の高齢化社会の道を進んでいる国々の行く末を占う、超高齢化社会のパイロット的な国になるのでしょう。なにしろ65歳以上の高齢者がほぼ3割に達し、そのスピードはまだまだ衰えない様ですから、この傾向には当分歯止めが掛からないと思われます。その中で、高齢者の一人として考える事は、やはり「生涯現役」をどうしたら貫けるかという一点だけです。高齢者層は、今のままでは明らかに現役世代の過度のオーバーヘッド(重石)になるからです。
生涯現役を貫くには、先ずは身体の健康の確保が必要でしょう。取り分け、目、歯、足腰の3要素が重要です。目は情報の殆どがインプットされる入り口器官であり、そこからの情報は脳を刺激してくれるでしょう。歯は、消化器官の入り口であり、咀嚼力の維持は内臓の健康にも影響を与えるでしょう。足腰は、最も老化の影響が出易い部位でしょう。筋肉は、放っておけばドンドン痩せて行きますし、それは同時に骨の強度をも低下させるでしょう。つまりは、これらの器官や部位を意識して機能を温存し、或いは逆に少しは鍛えつつ、身体の健康を維持していくしかないのです。
次に重要な事は、生涯に亘ってやるべきことを確保しておくことです。勿論、何らかの収入があれば理想的ですが、目的は「生涯現役を貫くこと」ですから、それが必須条件ではありません。勿論、最低限暮らしていくだけのお金は必要ですが、余分なお金はむしろ生涯現役生活にとっては邪魔でさえあります。つまり、なんら苦労しなくても生活が満たされてしまうと、生きるための努力が疎かになり、心身の老化を早めてしまうからです。老後は時間だけはたっぷりある訳ですから、狭い庭やベランダで目いっぱい家庭菜園を始めれば、いくらかは食費の足しくらいにはなるでしょうし、少し広い家なら薪ストーブでも入れて、春から秋口までは、伐採木を貰ってきて薪づくりに勤しむのも良いでしょう。薪づくりは、理想的な腕や足腰の筋トレでもあります。
街中で数キロ程度の移動であれば、移動は徒歩か自転車しか使わない様にします。ウォーキングこそは、人間の最も基本的な運動ですので、1日1万歩もあるけば体力や心肺機能は十分維持できるでしょう。投稿者は加えて、登山を趣味にして、心肺機能にさらなる負荷をかけています。頭脳労働も重要です。投稿者は読書と数独(ナンプレ)が好きですが、最近はZOOMでどことも繋がりますから、付き合いを広く構えれば、種々の情報や刺激も得られる筈なのです。体を鍛え、脳を活性化すれば、自動的に生涯現役が実現可能だと信じて実践しています。

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2021年9月21日 (火)

3987 オーバーシュート

天体の運行、例えば地球の自転、公転や月の満ち欠けを含み、多くの自然現象や自然のシステムはある幅の「周期」と「振幅」を内在しています。植物は、まさに1年周期である季節に完全に連動していますし、それに依存する多くの生き物も同様でしょう。人間が作る社会も、その意味で生き物であるヒトが形成するシステムであると言う意味で、ある種の周期を内在しているのでしょう。よく言われる社会の周期の例として、景気の変動(30年周期説など)が挙げられます。確かに、数多くの学者が、色々な理論を展開して、景気に周期が存在することを訴えています。
ここで取り上げたいのは、種々の周期のサイクルには、何らかの(或いは複数)のファクターが関わっていて、それがサイクルを加速したり、あるいは減速したりして、波を作り出しているという原則です。例えば、地球の季節は、たまたま地軸が23.5度程度傾きながら、しかも自転しながら太陽の周りを公転しているというファクターに支配されて、太陽光の受け方が季節に緯度によって大きな差が生まれる事になります。一方で、生き物が関わる周期(或いは振動現象)には、生き物のDNAに刻まれているであろうファクターによって生ずる場合も多いでしょう。例えば、ある生き物の個体数です。DNAは、その存続のために個体数を増やそうと働くのですが、一定以上増えてしまうと、存続のための個体数を残して、さながら仕組まれた様な大量死を引き起こすのです。
いきなり、工学の話になりますが、自動制御の概念にフィードバックという用語があります。系の変化量を検知して、それがある限度を超えない内に、マイナス(あるいはプラス)の制御信号を出して、目的量の振れ幅を許容範囲内に収める操作を指します。自然界でも、多くの場合は同様の作用が組み込まれているのですが、それが時として「暴走」していまう事があります。自動制御で言うところの「おアーバーシュート」です。それが限度を越してしまうのが「暴走」なのです。オートマ車の暴走事故ではありませんが、暴走は悲劇的な結果を引き起こす場合が多いのです。今地球は、人間が引き起こしたファクターによる温暖化の登り坂に差し掛かっています。遅蒔きながら、かつ不十分ながら、人間社会は温暖化にブレーキを掛けようと藻掻いては居ますが、もしかすると今はオーバーシュート(ついには暴走)過程の入り口に差し掛かっている可能性もあるのです。温暖化の「暴走」が引き起こす悲劇は、あまり想像したくはありませんが、人類にも多くの生物にも多大な犠牲を強いずにおかない事は間違いないでしょう。

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2021年9月20日 (月)

3986 食品ロスを考える

食品ロスは、この国だけでも年間600万トンを超えるとのデータがあります。一人当りにすると、48kgにも相当する量です。ざっと言えば、食べられる食品の3割程度を生ごみとして廃棄している勘定です。深く考えずとも、食品が私たちの食卓に並ぶまでには、多くの人々が関わり多くのエネルギーを費やしている事は自明でしょう。
エネルギーだけを見ても、農家での耕作や収穫に使う農業機械のエネルギー、肥料や農薬を製造するエネルギー、家畜の飼料を作り運ぶためのエネルギー、出来た農産物を冷凍(冷蔵)するエネルギー、それを運んで流通させるためのエネルギー、家庭で食品を保冷するためのエネルギー、それを調理するためのエネルギー、食べ残しや生ごみを集めるためのエネルギー、そしてそれを焼却処理ためのエネルギー、灰を埋め立てるためのエネルギーなどなどです。つまり、これらのエネルギーの3割は、無為に消費されているとも言えるのです。
簡単な暗算程度ですが、上で述べた食糧供給に関わるエネルギーだけでも、たぶん国内の消費エネルギーの内10%は軽く上回っていると見ています。という事は、もし食品ロスを無くす事が出来るなら、この国の消費エネルギーの4-5%は、黙っていても削減できる計算です。温暖化の主たる原因となっている化石燃料の消費を減らさなければならない昨今、先ずは食品ロスを無くす事から始めてはどうでしょう。それでなくとも、世界には日々の食料にも事欠く人々や難民が数多くいる事に思いを馳せなければならないでしょう。今日は短く。

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2021年9月18日 (土)

3985 持続可能性とは

SDGsでもそうですが、環境保全の基本になっているのは、当然のことながら「持続可能性」です。ところが、この言葉が結構曖昧な部分が多いのも否定できません。というのも、この言葉の背景にある時間軸の定義が何処にも無いのです。例えば、数年単位の短い時間軸で見ると、人間活動の殆どのものが持続可能ではないと判断されるでしょう。環境に対して加えられた「改変」が数年で回復される筈もないからです。例えば、気を1本切り倒して、その跡に新たに植林したとしても、元の様な立派な木に成長するには、少なくとも数十年は必要とするでしょう。つまり、森林に関しては考えるなら、持続可能性は多分家族で言えば3世代を跨いでのタイムスケールで考えなければならないでしょう。
化石燃料を含むエネルギー問題に関して言えば、そのタイムスケールはもっと長く取らなければならないでしょう。化石燃料の採掘による「環境の改変」は本格的には、18世紀の産業革命に嚆矢を見出す事が出来ます。石炭の採掘のためには、地下をアリの巣の様に掘り返したり、或いは露天掘りで地形が変わるほど地面を掘り下げたりした上に、それを運び出して都会の空が常にスモッグに覆われるくらい大量に燃やしたのでした。石油や天然ガスの採掘では、地表の状態は一見変わりませんが、地下にはそれらを押し出すために大量の海水が押し込まれたりしているのです。石油や天然ガス使用量は、石炭の比ではなく、それこそ天文学的な量に上るのです。化石燃料が出来るまでに、何億年を要したかは浅学にて承知していませんが、それを数百年というタイムスケールで、資源の枯渇や燃焼で生ずるCO2やNOxやSOxなどによって深刻な温暖化及び大気汚染を引き起こしている状況は、完全に持続可能ではないと断言できます。
ここで、人間の営みが引き起こす環境改変に関して、持続可能を考える上で、改めてタイムスケールを定義するとするなら、やはり世代間での直接的なリレーが可能な3世代程度とするのが適当と言えそうです。祖父、祖母世代は、自分が子供時代を過ごした環境を、孫世代にそのまま引き継ぐことを使命と考えて行動する訳です。戦後70年余りを掛けて、都市への人口集中と都市インフラ=エネルギー依存社会を積み上げて来たのであれば、今後70年余りを掛けて、逆の流れを作る必要があるのでしょう。多分、時間はそれ以上掛かるのでしょうが、少なくとも昭和世代は、その流れを作る責任からは逃れられないと思うのです。何故なら、昭和世代は環境に協力に働きかけて、それを改変し過ぎたと思うからです。関東平野を新幹線で通るたびに、昔は田園や里山が広がっていたであろう平野が、野を超え、山を越えて道路や建物に完全に覆いつくされている姿を目にする時、今後我々が、この風景を「元に戻す」のに一体何年、何百年掛かるのだろうかと溜息が出ます。持続可能性を担保するためには、我々はかつて存在した「残すべき環境」を正確に記録した上で、常にそこに戻る努力を続けなければならないのです。そのためには、今あるインフラを壊して、元の野原や里山に戻す工事(環境修復工事)も必要になるかも知れません。ただ、その際化石燃料を使わない様な工法を併せて考えないと、環境を修復するのに、逆に環境に大きな環境負荷を発生させるという矛盾を抱える事になってしまいます。さて、ここでは、持続可能性を評価するスパンは一応3世代分(70-80年程度)と定義しておきましょう。

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2021年9月17日 (金)

3984 レッテンバッハ村のこと

レッテンバッハ村を少し詳しく紹介しましょう。一度直接訪問したいとは思いつつ、主に先立つものが無い事が理由でまだ実現していませんが、この村を知ったのは10年ほど前に村長が日本に来た際に講演を聞き、短時間話をしたことが始まりでした。彼の話や資料によると、南ドイツの白鳥城(ノイシュバインシュタイン城)に程近い人口2000人余りだったこの村は、かつて州政府の指導により隣接する村と強制合併させられたようでした。しかし、合併によるメリットを殆ど感じられなかった村人は、村長を中心に声を上げ立ち上がって、州政府に掛け合って合併解消を勝ち取ったのでした。
その上で、村を立て直し活性化するために、コミュニティとしての自給自足を図りながら、村の自立を進めたのでした。例えば、建築士の資格を持つ村長は、自分で図面を引きながら、村の公共施設の充実を進めたのでした。豊富な森林や林業や製材所は元々村にありましたので、村人が力を併せれば、村営のスーパーであれ、集会所であれ、保育園であれたいがいの施設を建てることは容易でした。村には、農機具の修理工場や以前に進出していた工具工場など、高度ではないまでも工業のベースもあったのでした。そこで、村長の指導の下、工場は大型農機具や林業機械の改造などまで行える様に力を蓄え、潰れかけいたパン屋にテコ入れし、村営スーパーも充実させて、殆どの食料品や日用品が村内で手に入る様にしたのでした。その際、村は立派な地域通貨(見た目は2ユーロ硬貨に似ている)も作って、村内の買い物なら全てそれで決済できる様にもしたのでした。
次に着手したのはエネルギーの自給です。村内の屋根という屋根には、村が(州政府から引き出した)補助金を出して、太陽光パネルを載せる政策を打ち出しました。生まれた電力は、公共施設や家々で使い、余った分は村内の充電設備に回し、EVの充電にも使える様にしました。春先には、多くの畑ではナタネの栽培を行い、絞ったナタネ油はトラクターやディーゼル車の燃料として、村営の燃料スタンドで販売も始めました。当然の事ながら、昔からある林業から出る製材屑も無駄にはしません。チップやペレットに加工して、村の自前のバイオマス燃料としてしっかりと活用する仕組みも整備したのです。
そうこうしている内に、これらの優れた取組みを見学するために、国内外からの視察団や観光客が増えてきたため、村は立派な村営のホテルを建てたのです。勿論村内材を使った木造です。その結果雇用のニーズも増加したため、都会からは若い家族連れの移住も増え、人口も1.5倍くらいに増えて数千人規模に膨れ上がったのでした。村には、若者と子供がグンと増えて賑やかになり、人口ピラミッドもそれまでの高齢化型から裾野が広い「安定型」に近づいたのでした。
2982で紹介した様に、個人の力だけで自給自足の実現はかなり困難で、出来る事も限られてはいますが、色々な特技を持った村人が力を併せれば、村全体としての自給自足は十分に可能となるのです。この国でも、少なくとも数十年前までは、村々には鍛冶屋があり、大工さんや左官屋さんもあった筈です。大工さんは、簡単な図面だけで地元産材を使って建物を建てたことでしょう。勿論、食料はほぼ100%が自給自足だった筈で、コメや野菜や山菜などは近くの町の市場に出荷もしていたことでしょう。多分(この頃の経験を持つ高齢者が健在である)今なら、頑張れば日本にも「レッテンバッハ村モドキ」を作ることも十分可能だと思うのです。そして。その知恵を後世に引き継ぐことも可能となるでしょう。今ならまだ間に合いますが、団塊の世代が大幅に減ってしまう10年後以降は、それが無理になる可能性が大なのです。残念ながら。

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2021年9月15日 (水)

3983 お金再考

縄文の生活や自給自足家族の事を書いて、改めて価値とは、お金とは何かを考えてみます。お金とは、言わずもがなですが「価値交換の手段」に過ぎません。お金自体を食べる事も出来ず、手品師でもない限り道具としても使えません。しかし、現代の世の中では、お金はほぼあらゆるモノに交換できますし、犯罪でない限りあらゆるサービスを受ける権利とも交換できるでしょう。その交換の権利は、紙幣や貨幣を発行している政府によって保証されてもいるので、紙に印刷されただけのお金が価値を持って流通しているのです。
しかし、一方ではお金への価値偏重が、マネーロンダリングが蔓延する原因ともなっていると思うのです。マネーロンダリングは、主にテロや犯罪に関わるダークなイメージで語られますが、投稿者はそれをもっと広く捉えています。つまり、環境悪化や持続可能ではないビジネスで稼いだお金も、実はロンダリングされていると見るのです。例えば温暖化です。温暖化が主にCO2の過剰な排出に起因すると仮定して、石炭や石油や天然ガスを掘り出して、流通させるビジネスは、まさに環境の悪化を元手にお金を稼いでいる訳ですから立派なマネーロンダリングに相当するでしょう。化石燃料を使う機械(車や航空機など)を作っているメーカーも同罪に当たるでしょう。
勿論現代社会では農家でもない限り、お金が無ければ食べ物も手に入らず、飢え死にするしかありません。問題は、お金に頼る程度だと思うのです。100%依存する、いわゆる「拝金主義」は論外にしても、その割合を少しずつ下げる努力は必要でしょう。具体的には、物々交換や労働とモノを交換する仕組みが考えられます。その際、お金ではなく、その地域だけで使える「地域通貨」を交換手段とするのも良いでしょう。お金と地域通貨の違いはと言えば、それは上で述べたマネーロンダリングが出来ない(出来にくい)という1点です。地域通貨を使って、お金の様に食糧も買えますし、車での移動や買い物を頼むようなサービスも買える仕組みも出来るからです。
要は、一度お金に姿を変えれば、それが動いた背景は黒だろうが灰色だろうが無関係になりますが、地域通貨であれば、価値交換の過程を地域の衆人が見ている訳で、誤魔化し様もないでしょう。つまり、背景がクリアに見える価値交換の手段だと言えるのです。勿論、それを公的な立場で監視するシステムは必須でしょう。お金に絡んで多くの不正が発生する様に、地域通貨だって放置すれば、良からぬことを考える輩も出てくるからです。好事例として、投稿者が感心しているのは、南ドイツにある人口数千人の「レッテンバッハ村」の仕組みです。この村は、かなりの部分で国や他の地域から「独立」しており、物資の自給自足率も非常に高いのです。続きます。

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2021年9月14日 (火)

3982 自給自足の難しさ(若者への応援)

地元の放送局で、限界集落に暮らす若い夫婦と子供たちの様子が、定期的に紹介されています。その若い夫婦は、古い農家を無償で借りて、自給できる程度の農業を営む中で、自給自足生活を理想として、工夫を重ねながら、子育てを行っているのです。子供たちは、当然の事ながら、山や川の自然の中で、身近な動植物を相手に遊び、親を手伝い、下の子の面倒を見る中で、逞しく、しかし心優しくのびのびと育っている様子が毎回の放送で伝わってきます。
ところが、今回の放送の中で母親が吐露していたのは、お金の心配の事でした。暮らし向きは、自給自足で賄えてはいますが、子供たちの将来に向けての蓄えが出来ていないというのです。つまりは、暮らしにお金が殆ど掛からないが、教育には全ての面でお金が必要だと言うのです。義務教育でさえ、例えば給食費や教材費を納めなければなりませんし、高校に通う頃になれば、更に高い学費や通学のための交通費か或いは寮費なども必要になる事でしょう。
今の時代、お金の代わりにモノを納める「物納」という仕組みは存在しないのです。自給自足農家が、お金を手にするためには、労働を提供して(アルバイトで)お金を稼ぐか、余分の農作物を作って、地元のマーケットや或いはネットで販売して代金を得るしかないでしょう。そこに出すのさえ、運ぶための車のガソリン代や手数料や配送料金の心配をしなければならないのです。少数とは言いながらせっかく、自給自足の理想を掲げた若者が存在するのに、現代の社会の仕組みが、大きな壁となって立ちはだかっているのです。
それを救う方法は、いくつか考えられそうです。例えば、それなりに裕福な年寄りが、スポンサーになってこの様な若者のスポンサーになるのです。現代の大多数の年配者は、昭和の時代は必死に働き、それなりの個人的な蓄えや、社会的蓄積を積み上げて来た筈です。取り敢えず、竟の棲み家があり、食べるていくには十分の年金があり、自分が入る墓の手当てが済んでいるなら、余裕分は若い世代への応援として提供できる筈なのです。良く聞かれる言葉に「老後の蓄えが十分か不安」などがありますが、年寄りがある年齢以上になると、抵抗力が低下する結果、病気を貰うのは「自然の理」以外のナニモノでもないでしょう。つまりは、これは自然死だとも言えるでしょう。問題は、人間は何歳に到達すると自然死を受け入れられる様になるかですが、それを90歳と言ってしまうと、世の中は寝たきりの老人で満ち溢れてしまうでしょう。70歳になって最近感ずるのは、人生は80年も生きれば大満足かな、といった感慨です。つまりは、体が自由に動かせる年齢まで生きれば、それで十分だと思うのです。ネット社会にもなったので、ぜひ公的クラウドファンディングの様な、上手い仕組みが出来る事を期待しています。以上、ある自給自足夫婦の紹介番組からの連想でした。

 

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2021年9月11日 (土)

3981 縄文の暮らし2

私たちが何となく縄文人の暮らしに憧れるのは、それがほぼ完ぺきな形の自給自足であり、しかもそれが数千年にも亘って「持続可能」であると言う点だと思うのです。かつて、例えば四大文明などと呼ばれる地域が、栄華を誇っていた時代もありましたが、それらは全て滅びました。その原因は、その文明が地域の資源、森林資源や水や鉱物などを使い尽くしたか、或いは自らが出した廃棄物による自家中毒(耕作地の塩害なども含む)によって、最早文明を維持することが出来なくなったことにあると見ています。
一方、縄文人はと言えば、自給自足が可能な地域に、比較的少人数の集落を築き、環境が許す範囲内で質素に、しかし文化としては豊かに、暮らしを続けていたと想像されるのです。山内丸山でも、蔦植物を編んだ籠や、骨から精巧に作られた釣り針、実用品を超える出来栄えの土器や木工品、素晴らしい出来栄えの石器などが出土していて、その文明や技術力の高さが分かります。文字は残されてはいませんが、当然の事ながら豊かな語彙の言葉を含む文化レベルは、かなり高かったことは容易に推測できます。言葉は、自分たちの集落の文化を伝承すると同時に、例えば他の集落との交易や或いは諍いを未然に防ぐ際ののコミュニケーション手段でもあったことでしょう。
縄文時代と言えば、学校で習ったのは、貝塚であるとか、素朴な縄目模様の土器だとか、稚拙な作りの土偶程度の証拠で、採集生活を送っていた程度でしたが、そうではなくて、縄文の暮らしは、一言で言えば文化的でしかも持続可能であったことは、近年の各地の縄文遺跡群からの発掘物でも明らかなのです。その意味で、私たちはもっと縄文人の暮らしぶりを知り(想像し)出来る範囲内で、それに学ぶことも必要だと思うのです。学べき点は、彼らの「持続可能ぶり」に他なりません。今、今後100年間に亘ってそれが持続可能であるか否かという吟味をしたと仮定すれば、私たちの暮らし方の殆どは否定されてしまうでしょう。ましてや千年後においておや、でしょう。勿論、爆発的に増えてしまった人口を抱えて、例えば地域農業や里山や里海の恵みだけに頼って暮らしが立てられるかと問われれば、否とはなるのでしょうが、たった一二歩だけでもそれに近づく事は可能でしょう。私たちは、もっと縄文の暮らし方、或いは自給自足に近い中山間地の暮らしの知恵にもっと学び、持続可能性を追求すべきでしょう。

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2021年9月10日 (金)

3980 縄文の暮らし

仕事で青森に出かけた帰路、三内丸山遺跡に立ち寄りました。今から6000年ほど前の縄文集落跡で、凡そ1700年ほど続いた集落の様です。今は海岸からはかなり離れてはいますが、当時は「縄文海進」の頃ですから、たぶん海岸に近い丘陵地にあった集落なのでしょう。湿地に埋もれていた遺構は、保存状態も良く生活に密着した貴重な品々が、殆ど原形を保ったまま発掘された様です。
当然の事ながら、1700年の間には、人々の知恵や文化も随分進み、初期の素朴な発掘品と後期の複雑で意匠を凝らした発掘品とは、雲泥の開きが感じられました。注目すべきは、同じ集落が争いによる破壊も無しに、1700年間も存続したという事実でしょう。一説によると、日本の歴史は2600年ほど遡れる様ですが、当然の事ながら縄文の時代は「有史以前」に当たる訳です。しかし、確かに縄文人はそこに暮らし、豊かで文化的な暮らしを送っていたのでした。
実のなる広葉樹を植え、川や海際で魚や貝を獲り、当然何らかの形での農業も始めていたことでしょう。この地域の自然が与える恵みは、この人口500人ほどの集落を支えるに十分だったのでしょう。その後は地球の寒冷化が進み、北国である青森は住みにくい地域となって、ここに住んだ住民も南に移住を余儀なくされたと想像しています。勿論、人口の少なかったこの時代と、ヒトが満ち溢れるまで増えてしまった現代の暮らしを直接比較する事は出来ませんが、一歩でも二歩でもそちらの方向に踏み出す事は、十分に可能だと思うです。いまだに私たちは、たんぱく質のかなりの部分を海産物に頼っていますし、縄文以降に始まった農業(稲作)も、私たちの食生活の柱になっても居ます。三内丸山で見つかった、土器に漆を塗る技術(漆器)も立派に現代に引き継がれてもいます。
ここで強調しいたいのは、現代の技術や文化を概観するに当たって、産業革命以降の科学技術や文化だけに注目するのでなく、そのベースには縄文時代やそれ以前から、人から人へと連綿として受け継がれてきた、知恵や文化の土壌があって、その上に花開いているという認識が必要だと言う点です。勿論、縄文の知恵の多くは、現代社会にも大いに参考になり、持続可能性を上げ、環境負荷を下げるのに大いに役立つ筈なのです。続きます。

 

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2021年9月 9日 (木)

3979 広い意味での環境問題

このブログは、投稿者が技術屋から環境人間として、完全に脱皮した頃(15年余り前)から書き始めました。4000題ほど書き進めて思う事は、「環境」という概念のだだっ広さです。かつて環境問題と言えば、公害に代表される様なローカルな環境に着目し、その悪化だけが問題にされたのでした。川や湾内にとどまっていた水質汚濁や工業地帯や幹線道路沿いだけに限られていた大気汚染も、やがては海洋全体の汚染や地球を取り巻く大気圏全体の問題に広がってきたのでした。つまり、環境は水や大気や土壌で繋がっている地球全体として捉えるべきだと言うしかないのです。それどころか最近は、無計画に打ち上げられ、その後用済みになった無数の人工衛星やその破片が「宇宙ゴミ」として宇宙空間を汚染しても居るのです。
最近そこに新たな環境問題が加わった様な気がします。それは、地球上の生物を取り巻く、細菌(微生物)環境です、ウィルスが「生物か否か」については、議論がありますが、ここではそれも含めて考えます。細菌やウィルスなどが、ある地域だけに限定される「風土病」である間は、確かにローカルな問題にとどまりますが、それが黒死病(ペスト)やスペイン風邪や今回のCOVID-19の様に、人流によって世界各地に拡散してしまうと、これは新たな環境問題として浮上したと考えるしかありません。人々の接触や、もしかすると空気(エアロゾル)感染によって広がるパンデミックも、やはり人類や種々の生物を取り巻く一つの「環境要素」に他ならないでしょう。
今は、日常目にする人同士の感染や身近な動物達への感染程度しか問題にはなっていませんが、例えばある種の樹木や農作物を壊滅させる様な、新たな病原菌(やウィルス)や未知の微生物が、新たな環境問題としてクローズアップされないとは断言できないでしょう。何しろウィルスは、あらゆる生物の細胞(遺伝子)に取り付いて、自己増殖を繰り返す中で、自らも変異を繰り返しながら、宿主に病変を起こし、最悪の場合にはこれを死に至らしめるのです。
投稿者、環境を深く考える中で、環境問題とは単に温暖化や廃棄物処理の問題に留まらず、それそこそ範囲を限定できない、しかも底も見えない膨大な問題群の集まりに見えて来たのでした。その軽減のためには、どうやら特に私たち人類は、その活動を出来るだけ縮小し、「環境が許す範囲内」で、ひっそりと暮らしていくしかない様なのです。何度も書きますが、それは決して物質的満足に依拠するものではなく、主として精神的満足感で完結できる様な生活スタイルになるのでしょう。
間違いなく

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2021年9月 3日 (金)

3978 コロナとの共存

コロナウィルスは、なかなか「撲滅」出来ないことが明確になってきました。専門家も、撲滅ではなく「共存」することになると発言する様にもなってきたのです。普通の風邪症状や強い症状を示す、普通のコロナウィルスも。かつては今の新型コロナウィルスの様な存在だったのでしょう。それが感染を繰り返す内に弱毒化し、「普通のコロナウィルス」になってしまったというのが事実に近いストーリーだと思っています。
今猛威を奮っている「デルタ株」が、感染力は強いままだとしても重症化率も致死率も低い別の株に置き換わった時期が、やっとコロナとの「共存」が始まる時期だと言えるでしょう。現在まだその兆候が見えない様ですので、新型コロナ(デルタ株)の天下がしばらく続くと考えなければならないのでしょう。スペイン風邪を例に引くなら、今回の新型コロナも2年前後で収束する事が期待されますが、状況は当時(1918年前後)と大いに違ってきていることも事実です。例えば、人口がざっと4倍に、人流至っては今は何桁も増えている筈だからです。つまり、コロナウィルスの感染状況や、同時に変異の様子も100年前とは大いに違ってきていると想像されるのです。
ざっと言えば、感染のスピードは桁違いに早くて、それは変異するまでの期間を縮め、同時に重症化率や致死率の高い凶悪な変異株出現の可能性を高める可能性は高まる事を意味するのです。
一方で、公衆衛生や医学のレベルも100年前からは大いに進歩を遂げたことも事実ですが、それとて驚異的なコロナウィルスの感染スピードにはついて行けず、最新医療の恩恵に与れない自宅療養者の増加に歯止めを掛ける事が出来ない状況です。
問題は、何時専門家が(国が)今回の新型ウィルスとの「共存」が始まったことを宣言、すなわち特定伝染病ではなくなったことを宣言するかだと思うのです。多分英国では、ほぼその様な時期に入っていると見えるのですが、それは大きな犠牲を払った上に、強力なワクチン接種政策の結果だとも思うのです。多分地理的なラッキーもあったのでしょうが、英国とは異なる道筋で、累積で15,000人程度と、あまり大きな犠牲を払わずに済んで来たこの国が、何時共存を宣言することが出来るかは、コロナ共存へ至るプロセスとしては一つのモデルケースとなるのかも知れません。

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